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世阿弥と日蓮の足跡をたどる佐渡の旅

佐渡金山・高任抗ジオラマ・立抗

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2018年9月18日公開
独立系メディア Media E-wave Tokyo  
無断転載禁
佐渡現地視察総合目次 


 機械資料室を一通り視察した後、私たちは以下の高任抗に向かう。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 
 下の地図における
は高任抗の入り口の位置。


出典:佐渡ゴールドマイン

 高任抗の名称は、以下の大島高任からとられている。

大島高任

 [冶金技術の先駆者,実業家。盛岡藩の藩医の家に生まれ,弘化3(1846)年藩命により長崎で蘭学を学び,洋式砲術,採鉱精錬術を修める。帰藩後鉄砲方に配属されたが,嘉永6(1853)年以後水戸藩に招かれて反射炉建設,鋳砲事業に従事。

 この間の安政4(1857)年,釜石(→釜石市)に日本最初の洋式製鉄用高炉を建設して銑鉄の製造に成功する。以後藩で製鉄事業に従事するかたわら鉱山の開発にあたり,明治維新後は政府一行に加わってヨーロッパの鉱山を視察,帰国後は多数の鉱山の経営改善に着手して鉱業近代化に尽力した。

 1890年日本鉱業会長に就任し終生その任にあった。晩年はぶどう園の経営,ワイン醸造なども手がけた。2015年,最初に建設した高炉の遺跡である橋野鉄鉱山・橋野高炉跡が世界遺産の文化遺産に登録された。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


旧佐渡鉱山採鉱施設 大立竪坑櫓

 鋼製櫓、高さ13.9m、貯鉱庫付、コンクリート基礎及び鋼索用開口部附属、鉱車軌道及びチップラー三基含む 1基。場所は新潟県佐渡市下相川、同相川宗徳町。

 旧佐渡鉱山採鉱施設は、昭和13年の重要鉱物増産法に伴って整備された諸施設からなり、大立地区で竪坑を介して各坑道から集められた原鉱は、道遊坑及び高任坑を通って高任地区に運ばれ、粗砕場で破砕、選別された後、貯鉱舎に貯蔵された。

 旧佐渡鉱山採鉱施設は、採鉱から製錬にいたる一連の工程のうち、採鉱にかかる施設が一体で残されており、昭和戦前期の鉱山施設の実像を知るうえで重要である



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 この後、高任抗を100mほど進む、分岐点で右に曲がった。その延長に、宗太夫抗の最期の部分にあったお土産屋に合流し、高任抗を後にした。


出典:佐渡ゴールドマイン

 私たちは雨中、駐車場に行き、車で次の目的に
「佐渡奉行所」に向かった。


つづく