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ERI流視察の独自性と、

個人的成果と課題

  斉藤真実
環境総合研究所(東京都目黒区)

掲載日:2014年5月26日
独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


速報1(5月17日)   速報2(5月18日)   速報3(5月19日)



 2014年5月16〜19日の青森県視察のお声掛けを頂き、喜び勇んで参加させて頂いた。視察全体を通したコメントを書く場であるが、まずはこの度の視察に対する並々ならぬ想いと、本視察の素晴らしさについて記してみたい。その後、本視察で学びえたこと、学び損ねたことについて記したい。

1.視察の個人的な目的

 かねてから青森県の六ヶ所村に行きたかった。その理由の第一には、日本原燃が経営する核燃料サイクル関連施設やそのPRセンターをこの目で見たかったからである。施設概要や、再処理工程の詳細について情報を集めたかった。

 第二に、六ヶ所村の「空気」を感じたかった。そうでなければ、再処理、ひいては原発政策が抱える根深い問題に対して、適切な回答を出せないと思ったからである。

 昨今、居ながらにして地球の裏側の情報まで手に入る。六ヶ所村の過去・現在の情報や再処理工場概要なども同様で、居ながらにしてある程度調べがつき、(誰かが撮った)写真の数々を見れば、実際に自分が行って見た気になることもできよう。しかし、実際に自分の五感でなければ感じ取れない・知りえないものが必ずあり、私はそれを「空気」と呼んでいるのだが、まさにそれを欲していた。実感無くして、問題の本質は知りえないからだ。

 六ヶ所村だけでなく、同じ県内にはむつ市にある使用済み核燃料中間貯蔵施設、東通原発や大間原発建設予定地など、原発関連施設が多く立地している。
もし私一人が行くために企画した視察であったならば、六ヶ所村に行くついでに他も見て回れればよいという規模であっただろう。ところが、この度参加させて頂いた環境総合研究所の視察は驚くべきものだった!

2.環境総合研究所の怒涛の「視察」!

「視察」がなぜカッコ付かと言えば、環境総合研究所(以下ERIとする)の企画する視察は一般的なソレとは全く違うからである。これを機に、ERI流視察について少し述べたいと思う。

2-1.驚きその1:事前の情報収集量が並大抵ではない!

 そもそも視察以前の、事前の情報収集量が並大抵ではない!核燃サイクルについて長年研究されてきた三沢市在住の山田清彦氏をオフィスにお招きしロングインタビューを行い、論点整理を行った。その際に山田氏から頂いた膨大な資料をすべてデジタル化し、共有。

 更に視察先や視察ルート等に関し、青山貞一先生自ら詳細な資料を丁寧にわかりやすく作成して下さった。多大な時間と労力をつぎ込んで下さったことと思う。最終的にカラー印字で仕上がった資料はズシリと重かった。この資料のお陰で、タイトスケジュールな中でも、訪問先の見所を即座に発見することができた。

2-2.驚きその2:視察地選定の幅が広く、数が多い!

 現地視察地一覧をご覧いただければわかる通り、「原発・核燃料サイクル施設」「風力発電関連施設」「歴史・自然・地形」「公共施設・公共事業」「文化・文学」と分野は多岐にわたり、視察エリアも、なんと、下北半島のみならず津軽半島ほぼ全周である。数多くの場所を訪問させて頂く機会に恵まれ、ただただ感謝である。

 もし自分一人の企画であれば、原発関連施設とせいぜい風力発電施設くらいをピックアップして、他は一切訪れなかったことだろう。世にある多くの視察と名の付くものはそのようなものであると思う。

 なぜこのような多岐にわたるのだろうか。ERIが企画された視察に初めて参加させて頂いた時のことを思い出す。2003年のカナダ・ノバスコシア州への廃棄物政策視察である。その時は1週間ほどの日程で、連日盛りだくさんのスケジュールをこなした後、最終日は世界遺産の漁港ルーネンバーグへの観光がついていた。不思議に思ったものである。すると、「廃棄物政策だけ見たのではしょうがない。こういった自然環境や文化も見て回らないと、その土地の本当のことはわからないのだ」と教えて頂き、なるほどそういうものか!と開眼したことが昨日のことのように思い浮かぶ。

 この青森県視察でも同様である。その土地の歴史や文化、産業や自然環境、それぞれの要素が別の要素を理解するための助けとなることがよくわかった。私は青森県の全てに関心があるわけではなく、地形や歴史に明るいわけでもなかったので、連れられるままに訪問した先も多々あった。

 しかし、歴史から見えてくる青森、文化から見えてくる青森、自然環境から見えてくる青森、原発政策から見えてくる青森、風車から見えてくる青森、地元の人から見えてくる青森…見て触れたすべての景色から見えてくる青森があり、この多種多様な観点のなかで、青森という存在が一つの像を結ぶのである。

 これは視察全般に言えることであるが、テーマと直接関係する視察地だけ見て回っても、見落とす部分は大きいのだと改めて感じた。

3.この度の視察で学んだこと

 今回の濃密な視察で学んだことは数多い。そのすべては到底ここでは書ききれないものであるので、原発問題に絞ってまとめることにする。 私の当初の目的は六ヶ所村だけであったが、様々な視察地からの材料で私の中で形作られた青森県という像をもとに再度原発問題を見直すと、実感を伴った理解の仕方ができるようになった。

 原発問題と一言で言っても様々なキーワードから捉えることができる。たとえば、「都市と地方」、「自治体と住民」、「原発関連企業と住民」、「自然と開発」などである。実感が得
られたエピソードと共に、この度の視察で得られた貴重な経験を、これらのキーワードにフィードバックさせてみたい。

3-1.「都市と地方」

 地方の自然豊かな(=比較的住宅の少ない)ところを選び原発を建て、都市における電力需要を地方の原発が補っている構造がみられる。その一方、金銭的な流れとしては大まかに言えば、電力使用者(主に都市)→電力事業者→原発立地自治体(地方)とも言える。

 東通村には東京電力の原発建設が予定されていた。建設予定地とされている広大な土地(敷地面積約450万u)の周りを車で廻った。道路からは、伸び伸びと自生する森林で覆いつくされ、とても奥まで見通せない。


写真1:東電の東通原発建設予定地看板、


写真2:2重ロープで囲まれた延々と続く建設予定地を車窓から撮影。

 原発を1基造ることは事業としても大規模であるが、その背景にはこれほどの豊かな自然が犠牲にされるものなのか、ということをまざまざと見せつけられた。3.11の福島原発事故があり、この計画は中断している。順調にすすんでいれば首都圏の電気は、この宝ともいえる森林資源を代償に生み出されることになっただろう。そのように考えると、電気(原発)を使うということの裏側で失われてきたものに思いを馳せることが重要であることがわかる。都市と地方との間の物理的距離も、その関係性を見えにくくさせている。

3-2.「原発立地自治体と住民」

 原発政策を敢行する自治体と、それに対し反対・賛成で割れる住民。また、電力事業者から流れてきた資金は原発立地自治体を潤すが、それが住民の幸福度と直結しているかは大いに疑問である。

 たとえば、潤沢な資金でもって建てられた東通村役場やその近くにあるひとみの里の周りには、本当に人っ子一人見当たらなかった。町役場の目の前には平屋で立派な「インフォメーションセンター」が建てられていたが、一体この誰もいないところで、誰に何を案内できるというのか。


(写真3:インフォメーションセンター)

 また、青森県内を車で移動しているなか、あちこちの道路に驚いた。立派に整備された大きい道路ながら、ほとんど車が走っていない。

 こういった状況を目の当たりにすると、せっかくの潤沢な資金が、住民のために適切に使われていない状況がわかる。

3-3.「原発関連企業と住民(労働)」
 
 住民の生活基盤である労働の場の多くが原発関連企業である。

 事前の山田氏からのインタビューや関連記事などから、六ヶ所村における日本原燃はエリートの集まりであり、憧れの就職先であることを知った。

 実際、日本原燃のPRセンターで説明して下さった女性職員を見ていると、その優秀さがわかる。約1時間、核燃料サイクルの説明を自信満々にスラスラとこなしていた。決められた説明セリフを繰り返すだけなら練習さえすれば誰でも可能かもしれない。だが説明には出てこない部分に関する突っ込んだ質問にもある程度は答えていた。ベテランなのかと思い何年目か聞いてみると、2年目と言っていた。かなりの質問にも耐えうるように徹底的に教習されたであろうことが伺える。彼女も自分の職場に誇りを持っているに違いない。

 仮に核燃料サイクルや原発に反対していても、家族や親せき縁者がその前途有望な就職先に入れるかどうかとなれば、話は単純でなくなる。原発の問題とは、純粋にその技術や政策の是非ではかれる問題ではないのだ。

3-4.「自然と開発」

 豊かな森林資源、海洋資源をもつ青森だからこそ、その中に忽然と視界に飛び込んでくる人工物が際立って見える。

 原発は温排水処理の問題で必ず海の近くで建設されるが、海辺の景観や環境を壊してしまっている。大間原発の建設工事現場にも行ってきたが、もの寂しい生気が感じられない景色であった。

 一方で、風力発電の風車も数多くありとても目立つ。これも人工物であることに変わりない。タイミングに恵まれ、横浜町の菜の花祭りに立ち寄った際に、菜の花畑の鮮やかな黄色の遠く向うに連なる風車が見えた。また別の箇所で見た風車のすぐ下には、牛たちが群れてのんびり草をはんでいた。

 「海の景観を壊す生気が感じられない原発建設現場」「菜の花や牛と共存している風車」というのは、多分に私の主観であり、個人的なイメージであることをお断りしておく。だが、この極めて対照的な2つのイメージは、「自然と開発」というキーワードを思い起こさせた。

 私たちは電気を生み出す必要がある以上、そのためにはそれまであった自然を改変(破壊)し、何らかの人工物を造ることは必要である。その意味で、原発も風車も電気を生み出す装置であることは同じなので、建設の代価として改変(破壊)する自然のインパクトや、エネルギー生産の代価としてのコストや資源消費について、両者を適切に評価する視点は重要である。

 私たち電気を使う者は、電気を必要としているのであって、原発を必要としているわけではない。電気を生み出す方法として、より自然への影響が少ないものがあるのであれば、優先されるべきであろう。

 以上、「都市と地方」、「自治体と住民」、「原発関連企業と住民」、「自然と開発」とい
うキーワードに絡めて、感じたこと、考えたことを述べた。

4.この視察で個人的に学び損ねたもの

 この視察の素晴らしさについては前述したが、唯一個人的に学び損ねたものがある。それは前項でも度々使用したキーワードでもある、「住民」である。

 地元の方たちとあまり話せなかったのが心残りだ。そもそも、車での移動中も、殆ど歩いている人を見かけなかったということが原因の一つではある。最大の理由としては、なかなか初対面で原発について話を聞くことの難しさがある。

 しかし、ルーツとも言える斗南藩の歴史や、立ち寄った資料館・記念館の内容を学ぶことで、おぼろげながらも土地に住む人々の輪郭はつかめたような気はする。たった一度の視察で全てを知りえようと思うほうがおこがましいので、この部分はぜひ今後の課題としたい。

 以上、雑駁ではあるが、本視察に関する個人的コメントをまとめさせて頂いた。

 これほどまでの中身の濃い、実り多き視察に参加させて頂き、ERI各位には感謝してもしきれない。この場を借りて、改めて御礼申し上げます。(おわり)