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教員と評価制度

佐藤清文
Seibun Satow

2006年12月8日


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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「諸君は私から哲学を学ぼうとせずに、哲学すること、すなわち、自ら思索し、自ら探求することを学んでほしい」。

イマヌエル・カント

 1931年、フランスのルアーブルにあるフランソワ1世高等中学校に一人の教員が赴任してきました。

 新任教師は生徒への賞品授与式でスピーチをするのが慣例となっていました。この26歳の青年教師は、生徒や来賓の前で、映画の礼賛を語ったのです。「ご両親は安心なさってよろしい。映画は悪の学校ではありません。頻繁に行きなさい」。当時、映画は、一般の間では、有害と見なされていたのです。

 学期が始まりました。しかし、彼は教材も持たず教室に現われ、パイプをくわえたまま、教壇の机に腰掛け、自分の体験を生徒に熱く語るだけだったのです。テストもほとんどしませんでした。

 町の有力者たちは、無礼で、破天荒な態度に腹を立て、彼の排斥運動を計画し始めました。

 けれども、視学官は彼について次のように中央に報告したのです。

 「たぐいまれなる情熱、独創性、並ぶもののない知的な能力、第一級の配慮を備え、輝かしい将来が約束される」。

 この教員こそ、ジャン=ポール・サルトルです。その後、視学官が見抜いた通り、彼は「たぐいまれなる情熱、独創性、並ぶもののない知的な能力、第一級の配慮を備え、輝かしい将来が約束される」のを全世界に知らしめることになります。

 何事につけても評価は難しいものです。それは教員人事においても事情は変わりません。教員の人事評価制度は各国によって異なり、直観的にわかるように、一長一短があり、絶対的なものは存在しません。フランスにおいては、専門の視学官が各校に派遣され、勤務態度と指導力を評価しています。この制度はサルトル先生の頃だけでなく、現在まで続いています。

 最近、日本でも教員評価制度について論じられています。1126日に明らかになった教育再生会議が来年1月にまとめる第1次報告素案の概要では、保護者や生徒による教員評価が含まれています。

 しかし、保護者に評価させたなら、サルトル先生は不適格の烙印を押されたでしょう。専門家が生徒や保護者の反応を参考に、教員を分析評価するならともかく、この案は考えものです。

 教員の指導力不足は教員としてのコミュニケーション能力の不備が一つの原因です。専門的な目から見て、どこに課題があり、どのように改善すればよいのかをその教員が知る方がはるかに有効です。消費者のニーズや市場の反応を強調するアメリカでも、同僚教員が人事評価しているのです。

 もちろん、政府与党や自治体のように、教員への統制を強めることで教員の質が向上するというものではありません。日本では、とかく教員が学級を抱え込む傾向があります。

 それが問題の原因となったり、対応の遅れにつながったりすることも少なくありません。アカデミズムにしろ、官公庁や企業にしろ、天才的な個人が一人で携わるのではなく、学際的研究やプロジェクト研究が中心です。

 教育現場にも、同僚教員のみならず、外部の専門家による大胆で意欲的な連携を導入するのは時代の流れというものです。教員の評価制度もこうした観点から見直されるべきです。

 教員評価制度の改革に必要なのは、非専門家の思いつきではなく、今まで以上の専門家の関与なのです。

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参考文献

・ラインホールト・ベルンハルト・ヤハマン、『カントの生涯』、木場深定訳、理想社、1978

・朝日新聞社編、『100人の20世紀下』、朝日新聞社、2000

・八尾坂修監、『教員人事評価と職能開発 日本人と諸外国の研究』、風間書房、2006

・『国立教育政策研究所生徒指導研究センター総括研究官滝充のページ』http://www.nier.go.jp/a000110/