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連載 佐藤清文コラム 第37回

政治家とカネ

佐藤清文

Seibun Satow

2007年9月9日


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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。



特別の人間という意味は、つまり特別のことを知っている人間ということさ」。

武田泰淳『わが子キリスト』

 ロバート・A・ダールは,政治腐敗について、『デモクラシーとは何か』の中で、「市民たちはたいていの場合そのことを代議制のコストの一部として容認している」と記しています。おそらく、今の日本の政治家はこの意見にうなずきたいところでしょう。

 しかし、政治腐敗は代議制に限った堕落ではないのです。古今東西、政治とカネをめぐるスキャンダルは後を絶ちません。その歴史を考えると、少々耳年増な言い草だと言わざるを得ないでしょう。

 日本も例外ではありません。江戸時代の田沼意次の時代の政治腐敗は。今でも語り継がれています。けれども、ここ最近の政治とカネをめぐるスキャンダルは従来のものと違うのです。

 かつては政治とカネをめぐるスキャンダルは「疑獄」事件と呼ばれたものです。

 森川哲郎の著作や新聞記事などを参考として、戦後の疑獄事件は次の7種類に大別できます。

@国有財産の処分

  例:信濃川河川敷事件(1966)

    田中角栄自民党幹事長等

A特定団体の()利益になる法律の制定・行政指導

  例:造船疑獄事件(1954)

    佐藤栄作自由党幹事長・池田勇人同政調会長

  例:リクルート事件(1988)

    藤波孝生官房長官等

B国家資金の配分

  例:共和情報製糖事件(1966)

    重政誠之前農相

C防衛・運輸産業関係の選定

  例:ロッキード事件(1976年)

    田中角栄首相等

D戦後賠償・経済協力

  例:インドネシア賠償汚職(1959年)

    岸信介首相

E許認可や業者指定

  例:九頭滝川ダム汚職事件(1965)

    池田勇人首相

F政治資金集め

  例:吹原産業事件(1965)

    大平正芳前官房長官

    黒金泰美元官房長官

 ここに挙げた例はほんの一部です。毎年のように政治とカネをめぐるスキャンダルが起きているのです。たいていの場合、ある組織体が「特別の人間」である大物政治家に何らかの便宜を図ってもらうため、多額の金品を見返りに提供するというのが基本構図です。

 このような疑獄事件と比べて、今の「政治とカネ」はスキャンダルのスケールが小さく感じられます。往年のは政治家ならではの巨大な権力・権限にまつわるスキャンダルでした。一方、今回のはごまかしやたかりです。はっきり言って、根性がせこいのです。

 事務所費や政治資金収支報告書の領収書をめぐる問題は先に挙げた7分類に入りません。と言うのも、かつての疑獄事件がカネの「入口」が問われたのに対し、近頃の金銭スキャンダルは「出口」の問題となっているからです。

 これには、政治家をめぐるカネの環境が変わったという理由もあるでしょう。90年代初頭のいわゆる政治改革により、衆議院選挙に小選挙区制が導入され、政党交付金が支給されることとなりました。 

 けれども、その政治改革は政治とカネをめぐる腐敗を浄化しようという目的で行われたはずです。けち臭い小人物を政治家にするためではないのです。

 カネには、森毅京都大学名誉教授の『蓄財の逆説』によると、「物」と「情報」という二つの性格があります。

森名誉教授は、ヤミ献金が問題となった93年に同作品の中で、政治家においてカネはその「大物」度合いを示す機能があると次のように述べています。

 さて、政治家だが、たくさん金をつかうというのは、自分を偉く見せるための情報になるのだろう。派閥に金をまくなんていうのは直接的だが、(略)政治家だって子分に大物と思ってほしくて金をまわしただけのこと。(略)政治家だと自分の財産があればいいが、今どきそれほどの大金持ちなら道楽の政治なんかやらない。当然に、ヤミ献金を必要とするだろう。

 ここでおもしろいことは、金をつかうのも、金をもらうのも、大物になるための情報としては等価値であることだ。たくさん金がもらえることは、たくさん金をつかえること、あるいはそれ以上に、大物としての価値になる。

 その政治家をルーターとしてどれだけ多くのカネが動いているかが、「大物」の尺度となる。大物に見えるから金が集まり、大物に見えるために金を配るというわけです。疑獄事件において、カネは専ら情報なのです。情報は流れなければ意味はないのです。

 他方、今日の金銭スキャンダルが示しているのは、その政治家の「小物」度合いです。彼らの場合、ルーターとしての機能ゆえに金銭をめぐるスキャンダルを起こしたのではありません。これは大物に見られるか否かではなく、台所の事情の話です。情報として流れるカネではなく、それは物でしかありません。

 しかし、逆説的に、彼らのカネに対する態度が情報となって巷を駆けめぐるのです。一連の報道は永田町が「小物」に巣食われていることを明らかにしています。政治家たるもの、カネが情報だということをつねに年頭に置いていなければなりません。

 格差の拡大やワーキング・プア、年金など緊急の政治課題には、「大物」ではなく、むしろ、等身大の目線が求められています。せめて小物ではなく、等身大の人物に見られるために、政治家は身奇麗にしておくべきなのです。

〈了〉

参考文献

ロバート・A・ダール、『デモクラシーとは何か』、中村孝文訳、岩波書店、2001

森川哲郎、『疑獄と謀殺』、現代史出版会、1979 

森川哲郎、『日本疑獄史』、三一書房、1976 

森毅、『たいくつの美学』、青土社、1994