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政治家と成長


佐藤清文

Seibun Satow

2008年12月1日


無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「大事をなしうる者は、小事もなしうる」。
アリストテレス『天体論』
               

ヘンリー・ミラー


 「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ」。「私の方が税金は払っている。努力して健康を保った人には、何かしてくれるというインセンティブがないといけない」。

 首相が一般論としてではなく、個人として、社会保障費なんぞ払いたくもないし、逆に金をもらいたいくらいだと公言したのは、おそらく、憲政史上初の事件でしょう。2008年11月20日の経済財政諮問会議における麻生太郎首相の発言は、それほどの暴言です。

 麻生首相は、同月19日にも、全国都道府県知事会議で地方の医師不足への対応を問われた際にも、「自分で病院を経営しているから言うわけではないが、医者の確保は大変だ。(医師には)社会的常識がかなり欠落している人が多い。うちで何百人扱っているからよく分かる」と述べ、各方面から批判されたばかりです。

 その上、言い訳にしても、報道によって誤解が生じているから謝るという趣旨で、自らの非は認めようとしません。

 日本には、村上春樹を始めとして思い込みと思いつきで創作する作家やマンガ家も少なくありませんが、一国の首相がそれではたまったものではありません。

 とにかく就任して以来、舌にまつわる問題が絶えません。公の場での漢字の読み間違えが多く、こんな人物が文教族として文教行政に口を出していたのかとぞっとさせられるほどです。

 「有無」を「ゆうむ」、「詳細」を「ようさい」、「踏襲」を「ふしゅう」、「前場」を「まえば」、「措置」を「しょち」、「頻繁」を「はんざつ」、「未曾有」を「みぞゆう」、「怪我」を「かいが」など必ずしも読むのが難しいものだけではありません。

 中でも、「踏襲」を「ふしゅう」とするのは、いわゆる湯桶読みですから、いい年齢をして日本語のお約束が頭に入っていないのかと言われても仕方がありません。また、「頻繁」を「煩雑」とした場合も、日中の関係の文脈の流れをたどっていれば、間違えるはずもないのです。ワープロによる打ち間違いをよく目にする御時世ですから、推測力は普通なら自然と身につきそうなものです。

 もちろん、政治家の失言が慣用的な用法として定着したケースだってあります。英吾で読み書き算術を総称して"The 3 R's"と言います。これは、1825年、ロンドン市長のウィリアム・カーティス卿(Lord William Curtis)が教育問題の重要性を訴える際に、"The three R's-reading, riting and rithmatic"と演説したことに由来しています。発音上は確かにそうなのですが、そのスペルは"reading, writing and arithmetic"ですから、どれもが頭文字Rというわけではありません。読み書きのままならない政治家が、基礎学力の話をしていると皮肉として用いられるようになり、今では慣用的なイデオムです。

 漢字を読み間違えたら、周囲から訂正されるものです。佐藤清文という文芸批評家は中学時代に「師走」を「しそう」と読み、父親から直され、それ以来、間違えたことはないとの話です。そもそも、他人が読んでいるのを耳にして覚えたりするものです。結局、人の話を聞かないまま年齢を重ねてきたのだろうと思わずにはいられません。

 首相就任して以来、ここ数代の総理と比べて、夜に飲み歩く回数が多すぎると『朝日新聞』に指摘されました。すると、それを突っ込まれて、記者にくってかる始末です。この点をぬるく考える向きもありますが、実は、放言癖と根は共通しています。要するに、麻生首相は自分に甘いのです。

 こういう麻生総理を見ていると、ついつい池田勇人を思い出される人も多いことでしょう。

 池田勇人も、首相就任以前には放言癖があり、それにより大臣を二度辞めています。いわゆる「貧乏人は麦を食え」と「中小企業の5人や10人自殺してもやむを得ない」です。おまけに、気性も激しく、しばしば癇癪を爆発させています。そのため、首相に選ばれたときの有権者からの評判は惨憺たるものでした。

 ところが、首相就任後はまるで別人のようでした。側近たちの意見を受け入れ、大好きだった待合とゴルフに任期中は行かないとしたのです、彼も自分の不人気を承知していましたから、有権者に愛されるようにとさまざまな工夫をしています。スーツはお気に入りのダブルからシングル、メガネも黒縁から銀縁へと変えています。また、「寛容と忍耐」を掲げ、低姿勢を心がけました。これらを池田は愚直なまでに守り通しました。

 もっとも、地元の広島カープが負けたときは話が別だったようです。国鉄スワローズの豊田泰光が広島戦で活躍して帰宅すると、池田本人から電話があり、弱い者いじめをするなととうとうと抗議されたと述懐しています。

 池田勇人が首相に就任したとき、国内の世情は荒れていました。吉田茂から岸信介までの間が民衆にとって戦後民主主義が最も信じられていた時期だと言っていいでしょう。それが岸の強権的姿勢によって踏みにじられ、人々は目指すべき目標を失いかけていたのです。そこに池田が登場し、「所得倍増計画」を示して、経済成長を人々に目標として指し示したのです。

 池田が思い込みや思いつきだけで放言する人物ではないことは、1960年10月18日の衆議院本会議で明らかになります。彼は、山口二矢に暗殺された浅沼稲次郎社会党委員長への感動的な追悼演説を行ったのです。

 最初から偉大な政治リーダーなどいません。危機の中で成長する人こそ偉大な政治リーダーとなりうるのです。政治リーダーに必要なのは自分ではなく、自らを押し殺しても、与えられた役割を演じきれるしなやかさとしたたかさにほかなりません。

 2000年くらいから首長を含めて話題性のある政治家が数々登場してきました。しかし、彼らの多くは、これが自分のスタイルなのだとばかりに、自分に甘い態度をとり続けました。しかも、そういう人に限って、他人には厳しいのです。その行き着くところが麻生首相だったと言って過言ではないでしょう。成長できない政治家はリーダーになるべきではないし、させるべきではないのです。

〈了〉

参考文献
伊藤昌哉、『池田勇人とその時代』、朝日文庫、1985年