エントランスへはここをクリック   

「助けて」と言えない人々

佐藤清文

Seibun Satow

2009年10月13日


無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「困ったときはお互い様ですから」。

『男はつらいよ・葛飾立志篇』



1 「助けて」と言えない30代

 2009年10月7日の『クローズアップ現代』(NHK総合)は、「"助けて"と言えない〜いま30台に何が〜」と題して、貧困に追いつめられながら、支援を求めない30代の実情に関してレポートしている。

 厳しい雇用情勢の中、生活に困窮する30代が急増し、ホームレスになるケースも多い。ところが、命に危険を及びかねない状況に陥っても、「助けて」と言えない人が少なくない。それどころか、実際にはすでに死者も出ている。

 今年の4月、北九州市門司区で39歳の男性の遺体が自宅で発見される。冷蔵庫には食料品がなく、また所持金もわずか9円で、餓死したと見られている。部屋には一通の手紙が残され、そこにはただ一言が記されている。「たすけて」。

 彼は、専門学校卒業後、金融機関に就職したものの、過酷な成果主義により心身ともに消耗し、退職を余儀なくされる。非正規の職を転々とし、生活に行き詰まり、150万円ほどの多重債務を抱えている。非正規ながら飲食店で30代になると後輩の指導まで任されるようになったけれども、借金の催促の電話が職場にかかってきたため、迷惑がかかるからとそこを去っていく。しかし、次の職はなかなか見つからず、生活保護を受けようと市の窓口に足を運んだものの、実情を話すことができない。結局、申請せず、一切の収入を失った彼はとうとう餓死してしまう。

 ここまではいかないまでも、困窮しているのに、自治体の窓口や支援団体に相談しようとしない30代が増えている。彼らは、非正規労働を続けざるを得なくなって、経済的に行き詰まっている。自治体の窓口や支援団体にありのままを話して相談すれば、少なくとも、今の状況からは抜け出せる。しかし、彼らにはそれができない。

 従来、「助けて」と言えないのは、責任感が強く、自分で抱えこんでしまう人とされている。今日の医療事情から過酷な勤務実態でありながら、頑張り続け、過労死する麻酔科医がその一例である。

 しかし、今の貧困30代は、その人たちと違い、背負うものがない。責任感の強さから「助けて」と言えないわけではない。また、かつて本当のことを話したのに、誰も助けになってくれなかったという不信感から口をつぐむわけでもない。支援を求めたがらない理由として、彼らは「人に迷惑をかけられない」や「恥ずかしい」、「かわいそうな人と見られたくない」などを挙げる。その上で、こうなったのはすべて自分のせいだと自らを責め立てている。

 彼らの置かれている状況が自分だけではどうにもならないのは明白である。ほぼ共通して非正規労働に従事し続けることによって貧困に陥っている。これで生計を立てられないとすれば、非正規雇用の規制を緩和した政策が明らかに間違っていたのであり、政治の失敗である。

 戦後日本の失業政策は手厚く保障せず、後ろめたさを覚えさせて、早く職に戻させるというのが基本である。失業者は社会の落伍者であり、その烙印を押されたくなかったら、とっとと仕事に就けというわけだ。そのため、長年に亘ってセーフティー・ネットは非常に貧弱なままに据え置かれている。

 それでも、社会が全体的に貧しかった頃は、貧困は社会的な問題として世間も認知している。しかし、豊かになるにつれ、貧困は個人的失敗に還元されるようになる。世の中の大半を占める中産階級以上は、困窮者が運の悪いかわいそうな人か能力のない怠け者としか見なさず、社会的な問題であるという認識が乏しい。平成不況に突入し、ワーキングプアや失業者が増大しても、徐々に変わりつつあるものの、社会の意識が一新したわけではない。

 こういう現状では、彼らが口にする「助けて」と言えない理由もわからないでもないが、生きるか死ぬか切羽詰れば、なりふりかまっていられないものだ。そこまで追いこまれても救助を要請しない姿に、自分のことは自分で何とかしなくてはという強迫観念めいた義務感めいたものが見受けられる。

 支援団体もそんな若者たちに戸惑っている。しかし、彼らと言うよりも、「助けて」と言わせない社会の薄寒い雰囲気に憤る。支援の押し売りはできないが、さるとて見殺しにするわけにもいかない。そこで、メンバーたちは、いわゆる「夜回り先生」のように、それらしき若者に声をかけ、その気になったらいつでも連絡して欲しいと住所と電話番号を伝えている。


2 カウンセラーの必要性

 この30代の問題のポイントは、自分から「助けて」と言えないことにある。あの手紙が示しているように、支援が不要なわけではない。生命が危険にさらされていながらも、知らない人にそれを言えないとすれば、それを意思の問題と見なすべきではない。コミュニケーションの問題である。

 にもかかわらず、番組にゲストとして出演した平野啓一郎は、作家でありながらこうした点に気づかず、見当外れの意見を述べている。

 彼は自身の近著『ドーン』という小説を紹介しつつ、悪循環から抜け出す為の次のような提案をしている。
 ある社会の状況の中でこういう自分がいると。家族といるときはまた違って友達といるときは違うと。そうすると、社会の中で受けたことを自分の全人格的な問題だとして、自分という人間がだめなのだというふうに考えずに、社会の中におかれた自分がこういうトラブルを抱えている、ということを友達や家族に客観的に相談すべきだと思うんですね。で、そういう考え方をしていけば、自分がだめだから今こういう状況になっているというふうに考えずにすむと思いますね。

 で、誰かといるときの自分が好きだという自分があれば、その自分をベースに生きていけばいいわけですね。

 ですから、自分が好きじゃないとやっぱり本当に、生きていくのが難しくなってしまいますから、
 それができるくらいなら、あの30代たちも今の状況に陥っていない。余裕のない人に余裕を持てとアドバイスしたところで、何の助けにもならない。そもそも、これは責任感の強い従来型の人々にも当てはまることであって、今回の問題の特有さにまったく応えていない。これでは彼らは悪循環から脱出できない。

 第一、これは一般論だろう。生計のために好きでもない仕事をして、休日には趣味のバイクでツーリングに出かけたり、詩をつくったり、彼氏と会ったりする人はいる。また、使命感に燃えて仕事に従事している人でも、リフレッシュが必要で、油絵を描いたり、ディズニー・ランドで遊んだり、孫の顔を見に行ったりしている。こういう自分の中の多くの私を持てないのがあの30代であり、さらにもう一歩踏み込んで考える必要がある。彼らの場合、「助けて」と言えないのがポイントであって、それはコミュニケーションの問題に属する。このような一般論を新しい思想とばかりに小説を書き、それを今回の問題への一つの処方箋として提示している平野啓一郎には、作家の資格などない。

 彼らに必要なのは、むしろ、カウンセラーであろう。「助けて」と言いたいのにできないというのは、不登校に陥った生徒の精神状態に似ている。不登校の生徒は学校に行きたいのに、できないと悩んでいる。それに際して、「行きたくないのなら、行かなくていい」とか「学校を辞めて仕事に就け」とかいった具合に教師や家族がその子に意見を指し示すことは最悪であり、事態を逆に長期化させる。一方通行のコミュニケーションは百害あって一利なしだ。子供たちの話を聞くことから始める必要がある。言うまでもなく、聞くという技術には専門性があるため、カウンセラーの出番となるが。子供たちはカウンセラーにとりとめもなく話しているうちに、「こんなことを話すつもりはなかったんだけどなあ」と言いながら、心のゆとりを獲得し、重石がとれたように、元気を取り戻していく。おそらく、ホームレスの支援団体はカウンセラーの手を借りたいと思っているに違いない。「助けて」と言えない30代に要るのは提案ではない。


3 一方通行のコミュニケーション

 声のかけやすさは、金田一秀穂杏林大学教授の『日本語のカタチとココロ』によると、』相手と場によって左右され、それはまず「会う」ことにかかわっている。小学校教師がクラスで児童に「会った」とは言わない。他方、休日、コンビニでその先生が児童の一人と偶然「会った」とは言える。教師と児童は学校の中では会えないが、一歩外に出ると会うことができる。次に、会っても、知り合いだとしても話しかけにくい場もあれば、見知らぬ人でも声をかけやすい場もある。座禅の最中は前者であろうし、赤ちゃんを連れた女性は後者だろう。会話が成立するまでにも、このような条件が揃っていなければならない。

 危機的状況も話しかけやすい場であるにもかかわらず、あの30代たちは「助けて」と言えない。条件を満たしていないと感じている。それには彼らの直面している場ではなく、それ以上に大きい場、すなわち日本社会の強制力が働いていると見るべきだろう。

 金田一教授は、『新しい日本語の予習法』において、日本では便利や合理的になることが民主化や手間要らずではなく、「話さなくてもいいようになったこと」と考えられている指摘する。実際、新しいサーヴィスが登場した際に、しばしば「会わなくてもすむ」を売り文句にしている。それはコミュニケーションを一方通行にし、儀式化することを意味する。

 確かに、90年代以降、この傾向は加速している。金田一教授は、ひきこもることもなく、友達と連絡をとりながら、大学生が一言も話さずに一週間くらい暮らせると主張する。食事はすべてコンビニでまかなう。スイカで自動改札を取って電車で通学する。授業では質問などしない。友達とは携帯メールで連絡を取り合う。必要なものは通販やネット・ショッピング、ネット・オークションで購入する。世間に物申したければ、ブログに記し、気に食わない意見のブログを見つけたら、四の五の言わずに、炎上させる。便利さは、なるほど、声を奪っている。

 情報技術の進展だけでなく、非正規雇用の規制緩和も、一方通行のコミュニケーションの拡大を推し進めた一因であろう。非正規雇用は雇用の調整弁であり、彼らに対して双方向のコミュニケーションなど要らない。コミュニケーションが一方通行化すればするほど、企業にとって効率性の向上につながる。

 これでは孤立化する人たちの増加は避けられない。「助けて」と言えない30代は、こうした環境の中で、思春期を迎え、社会人となっている。彼らは、一方通行のコミュニケーションが日本社会に蔓延した一つの現われだろう。「話さなくてもいいようになったこと」に関する意識の転換が必要である。コミュニケーションを一方通行化=制度化してはならない。このままでいけば、「助けて」と言えない人々はなくなるどころか、増えていく危険性がある。

 内田樹神戸女学院大学教授は、『村上春樹にご用心』において、村上春樹の読解を通じて、人知れず、自分の仕事をこなすことが実践だと説いている。しかし、これは一方通行のコミュニケーションの蔓延する社会の認識である。この独我論が一方通行のコミュニケーションを正当化する。実践をするには、見知らぬ人と会い、話しかけるのがその第一歩である。今、日本社会に求められているのは「知らない人と平気で話せるようになること」(『新しい日本語の予習法』)である。

〈了〉

参考文献
内田樹木『村上春樹にご用心』、アルテスパブリッシング、2007年
金田一秀穂、『新しい日本語の予習法』、角川oneテーマ21、2,003年
金田一秀穂、『日本語のカタチとココロ』、日本放送出版教会、2007年
広井良典、『日本の社会保障』、岩波新書、1999年

『imamuraの日記』、「クローズアップ現代10月7日放送「"助けて"と言えない〜いま30代に何が」書き起こし」
http://d.hatena.ne.jp/Imamura/20091008/help
佐藤清文、『経済と文学』
http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/el.html