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党名の民主主義化を要求す

佐藤清文

Seibun Satow

2010年4月13日


無断転載禁


「われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子」

与謝野鉄幹


 2010年4月10日、平沼赳夫元経済産業相や与謝野馨元財務相らが新たに結党した政党の名称を「たちあがれ日本」と発表している。しかし、この名称は関係者が民主主義をまったく理解していないことを物語っている。

 その精神からして、命令文を名称にする政党はおよそ民主主義的ではない。これは理念や主張以前の問題だ。政党が市民に命令する主権在党は現代日本の民主主義とは相反する。与謝野馨元財務省の祖母与謝野晶子は、『教育の民主主義化を要求す』の中で、民主主義を「国民の参与」と言っている。「たちあがれ日本」という名称からは市民と共によりよい社会建設をしていこうという民主主義ではなく、独善主義が伝わってくるだけである。そのセンスはともかく、名称の点では「みんなの党」のほうがはるかに民主的である。

 この名称の発案者は石原慎太郎東京都知事だと報道されている。さもありなんというところだ。何しろ、彼は作家としても恐ろしく言葉に鈍感である。今回の命名から明らかなように、彼の作品のページを開くと、信じられないほど稚拙な文章なのに眼を疑う。出来の悪い高校生による長文読解の答案ではないかと見間違うほどだ。そもそもテニヲハがあっていない。他者による推敲や添削の跡が見られず、思いつくまままに、ただ記しているとしか思えない。

 さらに、都知事は、発表の3時間前に都庁で行われた定例会見において、MSN産経ニュースによると、「国を憂うのは誰だって憂うものですから。今度のみんな老人。じゃ、若いやつは何してんだ?みんな腰抜けじゃないか。僕なんか戦争の経験、体験あるけど、その人間たちは本当にこのまま死ねないよ」とアジっている。おそらく民主主義的な老齢の政治家であれば、「変化のときほど、経験が生かされるもので」云々と口にするものだが、都知事は主観的な思いこみを吐き続け、双方向のコミュニケーションをする気がない。

 率直に言って、石原都知事は政治家として失策を重ねてきたにすぎない。しかも、都民への多額の税負担を残すというお粗末なものだらけで、数え上げればきりがない。その主たる原因は、無謀だという周囲の声を聞かずに、自分の思いつきで突っ走ってしまう知事の独善主義である。

 独創的なアイデアは突然思いついたひらめきではない。独創性は相対性の中で画期性が明らかになるのである。それが独創的であるかどうかは自分では判断できない。双方向のコミュニケーションによって自らを相対化し、建設的な議論を繰り返している間に生まれる。

 石原都知事は、双方向性のコミュニケーション能力が著しく低く、作家としても政治家としても、その資質がない。なるほど、彼は作家としても、政治家としても、人気がある。しかし、人気と実力は違う。

 「たちあがれ日本』は確かに新しい。戦後、国会議員が参加していながら、民主主義にここまで鈍感な政党などお目にかかった記憶はない。あまりに新しすぎて期待の前に政界から追放したいくらいである。

〈了〉

参考文献
与謝野晶子、『教育の民主主義化を要求す』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/3640_6556.html