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吉本隆明試論 第三章


佐藤清文

Seibun Satow

2010年9月13日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


第3章 戦争責任論

 連合国はポツダム宣言に基づき、ナチスの戦争指導者を裁いたニュルンベルク裁判を踏襲し、1946年5月3日、GHQの命令下で東京裁判を開廷する。問われた戦争犯罪は、従来の国際法による通例の戦争犯罪(B級)だけでなく、侵略戦争の計画・開始・遂行など平和に対する罪(A級)、非人道的行為など人道に対する罪(C級)である。A級の主要戦犯が東京。B・C級は連合国各地で被告として扱われる。417日の開廷で419人の証人を調べ、48年11月12日に判決の言い渡しが行われている。

 この東京裁判を受けて、46年5月、新日本文学東京支部創立大会において、文学者の戦争責任が問題となり、小田切秀雄がその決議の要旨を「文学における戦争責任の追及」として発表する。獄中非転向の共産党員は戦争協力をしなかったとして、責任を免れたと考えられ、彼らは釈放されると、次々と幹部に就任する。この基準に基づき、転向文学者の戦争責任が共産党からの転向とすりかえられ、復党が贖罪と見なされている。党員になれば、罪が清められたのであり、それを行っていないものに回心を迫らなければならない。彼らは、占領軍の作成した戦争協力者のリストに則り、特に責任が重いとして菊池寛や小林秀雄など25名を糾弾している。

 こうした非転向が善、それ以外を悪とする通念は共産党指導者への批判を封じこめる。彼らは国際的権威に盲従するだけで、愚かとしか言いようがなかったが、左派はその批判を口にできない。

 冷戦の開始に伴い、GHQの占領政策が転換し、朝鮮戦争の勃発と再軍備を始めとする逆コースが始まると、共産党の影響力が低下する。また、独立後には、講和条約には東京裁判の判決の受け入れが入っていたにもかかわらず、占領軍による責任追及への反発が強まっていく。文学者の戦争責任論も1954年頃には退潮を迎える。

 1956年、ソ連でスターリン批判が始まると、戦争責任論が再燃する。従前の共産党による追及ではなく、自由主義者や「わだつみのこえ」の世代が主体性という観点から戦争責任論を検討している。中には、共産党の戦争責任を糾弾するものも登場する。その一人が丸山眞男である。彼は、1956年、『戦争責任論の盲点』において、非転向の態度は尊重するものの、共産党にも戦争責任があると指摘する。普通選挙が施行され、曲がりなりにも政党政治が機能し始めた時期に、共産党は代議政治を否定し、政治不信を助長している。それも、日本の現状にあった政治行動として主体的に考えていたならいざ知らず、コミンテルンの指導に従っただけである。

 1935年になってから、共産党は人民戦線を唱えるが、あまりに遅すぎる。31年に満州事変が勃発、32年に五・一五事件とそれによる政党政治が終焉、33年、国際連盟から脱退、34年、検察ファッショの帝人事件が起き、35年に衆議院で国体明徴決議が可決され、政党政治のよりどころだった天皇機関説を政党自らが否定している。「人民戦線」は、1935年の第7回コミンテルン世界大会において、ブルガリア共産党の指導者ゲオルギ・ディミトロフによる反ファッショ統一行動の提唱の後に一般化している。それまでコミンテルンは自由主義者や社会民主主義者をブルジョアの回し者として打倒を指示し、各国の左翼運動を分裂させている。日本共産党も、これを受けて人民戦線を言い出したわけだが、ナチスが総選挙で第一党となって権力を獲得したのは1933年であり、日本では、その時点でさえ政党政治がすでに崩壊している。1937年と翌年に、反ファッショ人民戦線を企図したとして、慰安維持法違反で社会主義者・労働運動家・知識人が検挙される人民戦線事件が起きている。第一次は加藤勘十郎や山川洋、鈴木茂三郎等、第二次は大内兵衛や広沢広巳、美濃部亮吉等が逮捕されている。

 丸山は、主体性なく、コミンテルン盲従によって軍国主義勢力に政治指導を明け渡し、それによって近隣諸国への侵略戦争を防止させられなかった点において共産党にも責任があると批判する。そうした反省をしていないから、戦後になっても、共産党は同じことを繰り返している。

 ただし、丸山は非転向者へ敬意を払っている。軍国主義化していく社会の流れに積極的に抗うことをせず、見ていただけだからである。その後悔の念からたとえ愚かであったとしても、非転向を続けた彼らを完全に否定することができない。

 その限界を踏み越えたのが吉本隆明である。吉本は、1956年、丸山よりも先に、武井昭夫と共著で『文学者の戦争責任』を発表する。彼は、戦時中の戦争協力を再検討することで、共産党に入ったことで禊がすんだと思っている文学者を批判している。程度の差こそあれ、文学者の多くは戦争協力をしている。吉本が問題にするのは彼らの主体性のなさである。

 新日本文学派から「抵抗詩人」と認めらた壺井繁治は、戦争中、次の『鉄瓶に寄せる歌』という戦争協力史を書いている。
お前もいつまでも俺の茶の間で唄を歌つてはゐられないし、
俺もいつまでもお前の唄を楽しんではゐられない。
さあ、わが愛する南部鉄瓶よ。さやうなら。行け! 
あの真赤に燃ゆる熔鉱炉の中へ! 

そして新しく熔かされ、叩き直されて、
われらの軍艦のため、不壊の鋼鉄鈑となれ!
お前の肌に落下する無数の敵弾を悉くはじき返せ!
 その彼が戦後になって次の『鉄瓶のうた』を表わしている。
長い日本の冬の夜ばなしは
なかなかつきず
まっ赤な火に尻をあぶられて
沸騰する湯気の中から
木々をゆさぶる木枯らしの中から
ぼくらの長い冬の夜ばなしの中から
やがて春がやってくる
 二つの詩の間には、精神的な深化が見られない。戦中に共産主義から転向して戦争協力詩を書き、戦後になると、復党して、他の戦争協力を糾弾する。いずれも安易に行われたとしか思えない。吉本はこの無責任な変節を非難する。「戦争体験を主体的にどううけとめたか、という蓄積感と内部的格闘のあとがないのだ。極論すれば、壺井には転向の問題も、戦争責任の問題もなく、いわば、時代とともに流れてゆく一個の庶民の姿があるだけである。また、もしこういう詩人が、民主主義的であるなら、第一に感ずるのは、真暗な日本人民の運命である」。

 理論的認識が現実とずれているために、いかなる経験をしようとも、その深まりが起きない。そう考えるならば、非転向=善という図式は成り立たない。現実から乖離したイデオロギーに固執して転向しなかったとしたら、それは日和見的な転向と認識の点で何ら違いがない。

 吉本は、『転向論』において、日本における転向を次のように定義している。
 わたしの欲求からは、転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考転換をさしている。したがって、日本の社会の劣悪な条件に対する思想的な妥協、屈服、屈折のほかに、優性遺伝の総体である伝統に対する思想的無関心と屈服は、もちろん転向問題のたいせつな核心の一つとなってくる。

 習慣的な意味で、転向というとき、共産主義者が、共産主義をすてて、主義に無関心となることや、すすんで他の主義に転ずることをさしており、もっと狭義には、共産党員が組織から離脱して、組織無関心になることを意味している。このような転向の定義は、昭和八年、佐野学、鍋山貞親が「共同被告同志に告ぐる書」を公表して、政治思想上の転換を声明したとき使用され、それにつづくマルクス主義政治運動家、文学者の錯綜した屈服と屈折に対して慣用されてきた。しかし、これらの転向は、けっして別種のものではなく、転向のなかの特殊な一つのケースにすぎない。ただ、日本の社会構造をつかまえることが必須の課題である革命的な自己意識のあいだにおこり、しかも、長期間の投獄か、死か、という権力からの強制によって自己意識の変換を迫られたため、日本的転向の特長が、このケースにもっとも鋭い形で、象徴的に集中せざるをえなかったのである。転向論が、ここを中心に展開されたのは当然だが、転向のカテゴリーをここに限定することは、それほど意味があるとは、おもわれない。わたしのかんがえでは、「非転向」的な転向も、「無関心」的な転向もありうるのだ。

 (略)わたしは弾圧と転向とは区別しなければならないとおもうし、内発的な意志がなければ、どのような見解をもつくりあげることはできない、とかんがえるから、佐野、鍋山の声明書発表の外的条件と、そこにもりこまれた見解とは、区別しうるものだ、という見地をとりたい。また、日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである。生きて生虜の恥ずかしめをうけず、という思想が徹底してたたきこまれた軍国主義下では、名もない庶民もまた、敵虜となるよりも死を択ぶという行動を原則としえたのは、(あるいは捕虜を恥辱としたのは)、連帯認識があるとき人間がいかに強くなりえ、孤立感にさらされたとき、いかにつまずきやすいかを証しているのだ。
 海外の共産主義運動の動向に敏感になりつつも、日本の実情を考慮した選択・受容が不可欠である。しかし、当時の共産党にそれが見られない。小林多喜二や宮本顕治のいわゆる非転向は、本質的に考えれば、佐野・鍋山の転向と違いはない。日本社会の現実や大衆の動向を無視して、イデオロギーに固執することは、それらについて深く検討しないままの転向とコインの裏表の関係でしかない。いずれも同じコインであることに変わりはない。非現実的なイデオロギーからは転向が不可避であり、重要なのはその際に認識を深められているかどうかである。表面的には転向に見えながらも、現実的認識が進化を遂げた本質的な非転向があり得る。それが、吉本によると、中野重治に相当する。

 吉本に言わせれば、徳田球一の「獄中十七年」など道徳的に尊くなどない。彼はそれだけで共産党の指導者に上りつめ、運動を指導している。しかし、日本は1931年の満州事変から15年間戦争を続けている。その間、人々は自分の死を予感し、それに何らかの意味づけをしたり、無常観に自らを納得させたりしている。1943年の国家総動員体制により勤労動員・学徒出陣が始まり、すべての国民が戦時体制に組みこまれている。42年6月のミッドウェー海戦の敗北以来、制海空権を失い、戦局は悪化する。アッツ島、ガダルカナル、インパール、マリアナ、サイパン、レイテ、硫黄島など悲惨な戦闘が続き、各地で玉砕が相次ぎ、特攻も組織的に開始される。44年7月に発足した小磯国昭内閣は一億玉砕・一億国民総武装による本土決戦へ備えよと国民に訴える。8月から学童疎開が進められ、11月以降の本土空襲は銃後を消失させる。45年3月に始まった沖縄戦では、守備隊10万人が玉砕した他、郷土防衛隊や男女生徒も参戦し、10万人の県民が犠牲になっている。同年3月10日の東京大空襲は一夜にして10万人の命を奪い、東京の4割を焼き尽くす。8月6日に広島、同月9日に長崎に原子爆弾が投下される。彼らが獄中にいる間、戦闘員だけでなく、民間人も多くが命を落としている。誰にとっても死は身近である。吉本においてもそれは同様だ。

 吉本は自分は軍国主義者だったと語っている。大東亜共栄圏もアジアの植民地からの解放だと信じるファシストである。しかし、それは露悪ではない。彼の略歴では珍しいことではない。

 吉本隆明は、1924年11月25日、父順太郎・母エミの三男として、東京市京橋区佃島東仲通4丁目1番地に出生する。他に兄二人姉一人妹一人弟一人がいる。祖父吉本権源次は熊本県天草市船大工の棟梁として小さな造船所を経営していたが、かの孫が生まれる少し前に一家そろって上京している。祖父と父は雇われ大工から始めて、隆明が小学校に上がる頃には造船所の他、門仲町や州崎、銀座裏の三吉橋にボート店を持つまでに成功する。隆明は、このような叩き上げで成功した技術畑の経営者の家庭に生まれている。

 1931年4月、吉本は佃島尋常小学校に入学、4年生の頃から深川門前仲町の今氏乙治の私塾に通い始める。男女がほぼ同数で、自由な雰囲気の今氏塾での7年間は自分の「黄金時代」だったと述懐している。勉強の基礎的知識を学んだだけでなく、文学書や『ファーブル昆虫記』などを読み、試作も試みている。なお、今氏乙治は、1902年生まれ、東京府立三中から早稲田第一高等学院、早稲田大学文学部文学科英文学専攻を卒業している。東京大空襲により戦災死ししたと見られている。

 1920年前後に義務教育が完全就学に近づき、高等科への進学率が50%に達し、1930年には中等学校進学率も20%を超えている。進学熱が急激に高まり、社会・経済の新たな状況に対応する人材の育成が・配置が教育課題として顕在化する。20年代、人格形成を教育の目標とする新教育運動が勃興し、都市部のみならず、農村地域でもその実践が勧められる。ところが、1929年に起きた世界恐慌がこの動きにブレーキをかける。不況の進行の中で、新教育は役に立たないとして斥けられ、二宮金次郎像に代表される「滅私奉公」の報徳主義が農村部で受容されていく。ただし、たんなる国策同調だけでなく、地域の現状に即した読み書き能力や判断力を育成する綴り方教育も一方で出現している。この童心主義教育は「文集づくり」を奨励している。しかし、30年代後半になると、皇国イデオロギーの指導が初等・中等教育で著しく強化される。滅私奉公が強調されながらも、立身出世への進学熱がさらに高まる。

 吉本が受けた学校教育はこのまがまがしい反動化が進んだ時期に当たる。半面、新教育運動の影響が見られる塾での学習も体験し、こちらの方に心地よさを覚えている。それは時代とそれほどかけ離れていない教育歴だと言える。

 1937年、東京府立化学工業学校(現東京都立科学技術高等学校)に入学、41年12月、日米開戦に伴い繰上卒業する。1942年4月、米沢高等工業学校(現山形大学工学部)入学。43年から宮沢賢治や高村光太郎、小林秀雄、横光利一、保田与重郎 、仏典等の影響下に本格的な詩作をはじめ、翌年5月、詩集『草莽』自家版発行する。同年9、米沢高等工業学校応用化学科繰上卒業、東京に戻る。45年3月10日、東京大空襲、4月、東京工業大学電気化学科入学するも、5月頃に、富山県の日本カーバイト魚津工場に動員される。しかし、農村の徴用動員がかかり一旦埼玉県大里郡で働いた後、富山県魚津の動員先へ戻る。8月15日をその魚津で迎える。

 大学は、その名が示す通り、実学を教育する場ではないという伝統が西洋には強かったが、近代日本は技術者養成の重要性に早くから気づき、1870年代に工学を目的とした高等教育機関が設置されている。富国強兵・殖産協業には技術者が欠かせない。1886年の帝国大学令により帝国大学工科大学、その後、1919年の分科大学制の廃止に伴い、東京帝国大学工学部に再編される。また、現場を支える職工も必要であり、1887年にはその育成を目的とした工手学校(現工学院大学)が創立されている。吉本の進学先はこの職工養成の教育機関に属する。

 吉本は旧制工業専門学校の卒業生であるが、旧制高校と比べて、必ずしもリベラルな空気が強いわけではない。旧制専門学校は各種の専門職養成を目的にし、旧制高校とは読書傾向にも差が見られる。昭和13年および16年の読書調査によると、旧制高校生は半分が思想書や教養書で占められているのに対し、他校では2割程度にとどまっている。三木清の『哲学入門』が高校生の必読書であったが、他方、専門学校生の間では吉川英治の『宮本武蔵』やアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』、寺田寅彦の『天災と国防』などが読まれている。1945年8月15日、勤労動員中の横浜工業専門学校(現横浜国立大学工学部)の生徒が卒業生の佐々木武雄陸軍大尉(横浜警備隊長)に扇動され、ポツダム宣言受諾に反対する「国民神風隊」を編成、重臣殺害を目的に、首相官邸や鈴木貫太郎首相私邸などを襲撃している。彼らと比べれば、吉本は軍国主義者としても穏健である。
 あるがままの過去を、ないように見せかける必要から、わたしは遥かに遠ざかっているし、ことさら体裁をとりつくろわねばならぬ根拠も、もっていない。これは、わたしが虚偽から遠いからではなく、わたしの思想が、「自然」にちかい部分を斬りすてず歩んできたし、いまも歩んでいるからである。
 すべての思想体験の経路は、どんなつまらぬものでも、捨てるものでも秘匿すべきものでもない。それは包括され、止揚されるべきものとして存在している。もし、わたしに思想の方法があるとすれば、他のイデオローグたちが、体験的思想を捨てたり、秘匿したりすることで現実的「立場」を得たと信じているのにたいして、わたしが、それを捨てずに包括してきた、ということのなかにある。
(吉本『過去への自註』)
 言うまでもなく、吉本は自らに戦争責任がないとは言っていない。自分にも責任がある。それは認識を深めることのない無知だったという点にある。

 柄谷行人は、『倫理21』において、吉本が自分自身に認める戦争責任について次のように述べている。
 吉本隆明にとって許しがたかったのは、自分の無知です。(略)戦中世代の人たちは。我々は知らなかった、教わらなかった、欺されていた、ということができました。しかし、吉本がとったのは、無知にも責任があるという態度です。では、無知に責任があるとするならば、どのように責任をとればよいのか。自分をふくむ世界を、徹底的に認識するほかないのです。
 勤労動員中に敗戦を迎えた選挙権もない20歳の若者なら、「知らなかった、教わらなかった、欺されていた」と弁解もできただろう。何しろ。一般国民どころか、近衛文麿でさえも「欺されていた」と言い訳をしている有様だ。太平洋戦争末期の1945年2月14日、元首相近衛文麿が昭和天皇に対して上奏文を提出する。彼は、敗戦必至であるとして、ソ連と共産主義革命への警戒と共に、国体護持のために英米との早期和平を提言している。この戦争は軍内の革新派の一味による陰謀であり、和平の妨害や敗戦に伴う共産主義革命を防がねばならず、それにはこの一味を粛清して、皇軍を立て直すべきだと主張する。昭和天皇はこの上奏文を相手にしない。近衛はかつて『英米本位の平和主義を排す』において国際協調の外交方針を批判して、首相に就任してから政党を解散させ、日独伊三国同盟を推進した人物である。その彼は「欺された」と弁解している。おまけに、敗戦後は、占領軍に積極的に協力を申し出をし、A級戦犯として逮捕されそうになると服毒自殺してしまう。思いつきと思いこみのままに変節を繰り返し、自分の戦争責任など頭の片隅にさえない。

 吉本に戦争責任があるとすれば、情況を考え抜いたつもりで判断していたと思っていたけれども、実際には不十分だったという点である。既存のイデオロギーに依存していたのではなかったろうかという反省が彼には大いに残っている。無知から派生した戦争責任を果たすには、既成の権威から自立して、自分の置かれた情況を徹底的に認識するほかない。吉本は、敗戦体験を受けとめ、現実認識を深めていく。

 60年代後半の学生運動に際しても、吉本は、『大学論』において、学生たちへ共感を寄せると言うよりも、自分と同じ世代に属する当局側の思想の強度を問いつめている。戦争体験を思想的に租借して20年をかけて構築してきたものが問われているのに、彼らは小手先で事態を乗り切ろうとしている。戦争体験を徹底的に内省していなかったのではないかと吉本は問いただす。

 吉本のテキスト読解は、従って、「情況」を解明することに焦点が当てられる。柄谷は、『ライプニッツ症候群−吉本隆明』において、それを次のように述べている。
 吉本が表出概念によって主張したのは、第一に文学作品の自立性である。しかし、この自立性は、文学が現実から離れた独立した領域を形成するという意味であってはならなかった。逆に、それは吉本の言葉でいえば「情況」に根ざしている。この点が、テクストの自由な意味生産性を強調するテクスト論者やその意味の決定不能性を主張するディコンストラクション派との違いである。吉本にとっては、作品の自立性は、それが「情況」を「表出」するかぎりにおいてある。というよりも、「表出」とは、対応づけ(関係づけ)にほかならないのである。

 したがって、彼はつねに作品から情況を読み、情況がいかなるものかを問いつづける。結果的にみれば、それは作品の自立性を奪い、それを情況という名の一義的な意味に還元することになってしまう。しかし、それはやはり時代状況から作品を説明することとは違っているし、ヘーゲル的な「時代精神」というのとも異なる。個々の作品(モナド)においてしか「情況本質」なるものはうかがうことができないのである。

 だが、吉本にとって、作品が「表出」であるということは、それ以上の意味を持っている。それは、個々の作品が一つの関係性におかれているということを意味するのである。一つの作品は独立してあるのではない。といっても、吉本はインターテクチュアリティー、つまりテクストの相互関係性を認めない。その意味では、各作品は絶対的に孤立していると考える。しかし、それらはある相互関係性におかれる。それは、ちょうどライプニッツのモナドが「窓がなく」互いに独立しているにもかかわらず、「あらかじめ宇宙の各実体(モナド)において規定されている相互間系」において「交通」しているのと似ている。吉本がいう「情況」は、個々の作品に「表出」される他の作品との相互関係性そのものだといってよい。
 少々わかりくい説明だが、国際政治を譬えに使うと、認識しやすい。主権国家はそれぞれ独立している。そのアクターたちは、だからと言って、自由に動いているわけではない。国内外の「情況」によって判断・発言・行動する。吉本のテキスト読解は、この比喩のアクターを作品に置き換えれば、容易に理解できる。

 こうした吉本の考え方は理学的と言うよりも、工学的である。理学が理論を実践に応用するのに対して、工学は実践を抽出して理論化する。正確に言うと、体系的な知識・技能を身につけた技術者ではなく、現場で長年に亘って積み重ねられた経験と勘に立脚して仕事する職工のようだ。これには家庭環境や教育歴も幾分影響しているだろう。余談ながら、吉本が好むコメディアンは、萩本欽一やビートたけしなどアドリブが利くタイプなのも、思想傾向からうなずける。

 吉本の提供する「転向」をめぐる三つの分類は、決断を迫られる問題の吟味の際に、非常に有効である。転向=非転向では混乱するので、佐野・鍋山型を「変節」、徳田小林多喜二・宮本顕治型を「固執」、中野重治型を「発展」と言い換えよう。今回のイラク戦争に当てはめると、マイケル・ウォルツアーやフランシス・フクヤマが「変節」、トニー・ブレアや日本の推進派が「固執」であり、「発展」はいない。ウォルツアーやフランシス・フクヤマは自身を「発展」だと主張するだろう。けれども、彼らのブッシュ政権への肩入れはマルティン・ハイデガーやカール・シュミットのナチス傾倒と離反に瓜二つである。対象を自分に引き寄せて理解し、そうでないと感じたから離れる。彼らには自分への執着しかない。固執という点ではトニー・ブレアと同じである。指導層に認識の深まりがないという点で、イラク戦争は何の意義もない。

 なお、ニュルンベルク裁判と東京裁判に対して、勝者の裁きであるとか、罪刑法定主義に反するなどの反論が当時から寄せられている。今日、ドイツではその受け入れによって戦後の発展があったとの認識が広く共有され、事実上、決着済みである。と同時に、裁判所が戦犯10万人を起訴、6500人程度が有罪判決を下したとされている。他方、ポツダム宣言の受諾交渉の際に、戦犯は自分たちで裁くことを陸軍などから主張されていたが、日本の裁判所が自国の戦争犯罪を裁いたケースはない。
(略)加担の因果は、秩序というものを支点としてめぐるのである。加担の意味が現実の関係のなかで、社会倫理的にとらえられなければならないのはこのときである。ここで、マチウ書が提出していることから、強いて現代的な意味を描き出してみると、加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択のなかに、自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。律法学者や、パリサイ派が、もしわれわれが父祖のときに生きていたら予言者の血を流すために、かれらに加担しはしなかったろうと、言うときそれはかれらの自由な選択の正しさを主張しているのだ。

  だが、人間と人間との関係が強いる絶対的な情況のなかにあってマチウの作者は、  「それなのに諸君は予言者であるわたしを迫害しているではないか。」と主張しているのである。これは、意志による人間の自由な選択というものを、絶対的なものであるかのように誤認している律法学者やパリサイ派には通じない。関係を意識しない思想など 幻にすぎないのである。それゆえ、パリサイ派は、「きみは予言者ではない。暴徒であり、破壊者だ。」とこたえればこたえられたのであり、この言葉は、人間と人間との関係の絶対性という要素を含まない如何なる立場からも正しいと言うよりほかはないのだ。秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。

現代のキリスト教は、貧民と疎外者にたいし、われわれは諸君に同情をよせ、救済をこころざし、且つそれを実践している。われわれは諸君の味方であると称することは自由である。何となれば、かれらは自由な意思によってそれを選択することが出来るから。しかしかれらの意思にかかわらず、現実における関係の絶対性のなかで、かれらが秩序の擁護者であり、貧民と疎外者の敵に加担していることを、どうすることもできない。加担の意味は、関係の絶対性のなかで、人間の心情から自由に離れ、相対のメカニスムのなかに移されてしまう。

 マチウの作者は、律法学者とパリサイ派への攻撃という形で、現実の秩序のなかで生きねばならない人間が、どんな相対性と絶対性との矛盾のなかで生きつづけているか、について語る。思想などは、決して人間の生の意味づけを保証しやしないと言っているのだ。
 人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な律法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における矛盾を断ちきれないならばだ。
(吉本『マチウ書試論』)

つづく