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吉本隆明試論 第四章


佐藤清文

Seibun Satow

2010年9月13日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


第4章 白線二条から遠く離れて

 吉本の教育歴を見て気がつくのは、旧制高校とは無縁だったという点である。それはたんに進学しなかったというだけではない。旧制高校が射程に入った教育コースを辿っていない。吉本より一つ年上の司馬遼太郎は大阪の私立上宮中学を卒業後、40年に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格、42年4月、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学している。また、吉本が影響された宮沢賢治にしても、家庭の方針はそうではなかったけれども、本人としては旧制高校受験を念頭に旧制盛岡中学に入学している。しかし、吉本はそれとは違う。

 戦前の学校教育システムは、戦後と違い、複線である。戦前、受験と言えば、高校受験である。旧制高校に入学してしまえば、帝大への進学コースが約束されている。東京帝国大学法学部のような人気学部への進学には選抜試験が課せられていたが、高校入試に比べれば、はるかに容易である。旧制高校への進学率は、最も高いときでさえ、同年代の男子の1%に達していない。黒羅紗地に白線二条の学生帽は今日の受験エリートと違い、将来の政官財学界を担う「学歴貴族」(竹内洋)のシンボルである。昭和初期には、旧制高校の進学者は都市のミドルクラス以上がほとんどで、貧しい階層からは1割程度である。旧制高校の多くが官立であるので、学費は安かったが、今と違い、当時の日本は発展途上国あり、また兄弟も多く、金銭的に対応できる家庭は必ずしも多くない。しかも、非常に難関だったため、二浪、三浪が当たり前で、大学卒業年齢が平均して24、5歳である。当時の男子の平均寿命は50歳に達しておらず、この時点で人生の半分が過ぎてしまったことになる。

 主に、地方の経済的に恵まれない優秀な生徒は学費が無料の師範学校や軍学校、すなわち陸軍士官学校や海軍兵学校に進学する場合が多い。前者は卒業後に教職につくことを条件に学費免除のみならず、生活費も保証されている。ただ、教員の給与は安く、離職率も高い。皇国史観イデオロギーを青少年に叩きこむ仕事でもあるため、概して、非常に学風は保守的である。戦前の教員は大きく正教員・准教員・代用教員の三種類に分けられる。正教員は師範学校を卒業した有資格者である。准教員は旧制専門学校などの出身で、年数制限等の条件付有資格者である。代用教員は准教員の代用で、無資格者である。石川啄木や坂口安吾などユニークな人材が代用教員を経験している。正教員だけでは息がつまりそうだが、彼らのような代用教員が風通しをいささか良くしている。後者は、卒業後、国家公務員である高等吏に任用されるチャンスが与えられている。軍内部での昇進を目指すのであれば、陸軍大学・海軍大学への進学が必須であるが、それは軍学校での上位優秀者に限られている。師範学校を卒業後に軍学校や帝国大学受験を目指す学生も見られる。その意味でも、大学ではなく、旧制高校に入学したかどうかが学歴のステータスである。多くは義務教育修了を以って学校教育から離れたが、上記学校以外に私学や旧制専門学校への進学という選択肢もある。

 旧制高校自体は1950年まで続くが、戦後は。戦前とは雰囲気が変わっている。軍学校の廃止に伴う編入があったり、少数ながら、女子も在籍している。なお、女子入学に関しては、昭和10年代に検討され、戦時色の強まりと共に立ち消えとなっている。

 吉本は東京出身で、家庭が極貧だったわけでもない。私塾に通わせているように、親も教育の意義も認めている。しかし、高校受験を視野に入れた普通中学ではなく、府立化学工業学校に進学している。

 吉本以前の主要な文芸批評家は、実は、旧制高校出身である。小林秀雄や中村光夫は旧制一高、平野謙は旧制八高、福田恒存は旧制浦和高校、花田清輝は中退しているものの旧制七高、武井昭夫も旧制東京府立高校、谷川雁も旧制五高出身である。丸山真男も旧制一高、近代文学派も荒正人と佐々木基一が旧制山口高校、本多秋五が旧制八高、小田切秀雄は放校されたけれども旧制東京府立高等学校に入学している。吉本は旧制高校クラブを共有していない。1932年生まれの江藤淳でさえも。1946年に旧制湘南中学に入学、在学中に学制改革を経験し、旧制高校を知らない。吉本は、文芸批評家として、最後の戦前の教育システムでの高等教育経験世代であると同時に、旧制高校とは無縁だったマイノリティである。

 吉本の愛読者には戦後教育で育った世代が多い。彼らには吉本が育った戦前の教育システムや旧制高校が社会においていかなる機関であったのかなかなか理解し難い。旧制高校から歴史を見ると、戦前戦後の学生とマルクス主義運動の関係ならびにそこでの吉本の意義が明らかになる。

 1970年代くらいまで学閥は大学閥ではない。旧制高校閥である。旧制高校での日々こそが青春であり、そこで同じ釜の飯を食った間柄は余人が立ち入ることができない。全共闘は戦前からのアカデミズムの慣例を解体したが、その一つに講座制がある。講座制は、言ってみれば、研究室を師団とする制度である。師団とは陸軍における独立した作戦基本部隊である。教授を師団長として、助教授以下はその命令指示には必謹であり、同じ大学内であっても他の研究室との人的交流は厳に慎まねばならぬ。しかし、旧制高校の同窓は例外である。旧制高等学校は、「学生」と呼ばれていたように、新制の大学の教養部に相当する。カリキュラムや学習内容は一般教養に重点が置かれている。理科で教養語学科目が半分以上、文科に至っては8割が割かれている。教養主義は、旧制高校を考える際に、重要である。ドイツの官僚や弁護士、ジャーナリストなどは「教養市民層」と呼ばれ、新たな近代社会の担い手と自負している。旧制高校生にとっても、教養は世襲でも財産でもない「精神の上での貴族」(吉田熊次)の証である。教養主義的教育を受けた自分たちはジェネラリスト、すなわち将軍であり、専門学校生などの実用主義は専門バカにすぎず、自分たちが彼らの上に立たなければならない。

 旧制高校は、中でも、語学教育に力を入れていたため、「語学学校」の別名まであったくらいである。これには、英語やドイツ語、フランス語ができないと、勉強にならないという事情がある。旧制高校の授業では、いわゆる教科書を使わない。また、今日と違い、書籍の数が非常に少ない。そこで、よく知られた原書に直接当たり、とにかく読むほかない。知的スノビズムもあり、手に入る原書の文学・哲学書を乱読する。高校生はまだ自分が確立されていないため、さまざまな思想と付き合う必要がある。それをするにも、語学力が必須である。旧制高校と無縁だった吉本隆明が語学を苦手とし、翻訳を用いるのと好対照である。

 旧制高校での体験がどれほど強いかは、そういう郷愁と無縁であるかに見える人物の回想を読むとよくわかる。吉本よりも四歳下の森毅は旧制三高に入学し、その後、東京大学に進学している。自伝『自由を生きる』において、三高から東大に来て、呼称のルールの違いに戸惑ったと述懐している。三高では、学生同士は、先輩であれ、後輩であれ、呼び捨てで、教師に対しては面と向かっているときは「先生」、話題にしている際には、「さん」、教師が学生を呼ぶ場合は「君」とするのが慣例である。ところが、東大においては、教師にはいかなる場面でも「先生」、学生同士は、同輩なら「君」、先輩には「さん」、後輩だと呼び捨てという言い方をしている。エッセイなどを書く際に、今でも三高のときの敬称のルールが気分に合うので、採用していると言う。秋月康夫など旧制高校で世話になった教師とのつきあいに関しては、終生その気分が抜けなかったと回想している。

 吉本が「知識人」と「大衆」という対立項を持ち出すとき、前者が旧制高校の学歴貴族、後者がそれ以外の市井の人々を指している。

 吉本は、『情況とは何か─知識人と大衆』において、「大衆」について次のように述べている。
 大衆は社会の構成を生活の水準によってしかとらえず、けっしてそこを離陸しようと しない理由で、きわめて強固な巨大な基盤のうえにたっている。それとともに、情況に着目しようとしないために、情況にたいしてはきわめて現象的な存在である。もっとも強固な巨大な生活基盤と、もっとも微小な幻想の中に存在するという矛盾が大衆のもっている本質的な存在様式である。

 しかし、わたしが大衆という名について語るとき、倫理的なあるいは政治的な拠りどころとして語っているのでなければ、啓蒙的な思考法によって語っているのでもない。あるがままに存在する大衆を、あるがままにしてとらえるために、幻想としての大衆の名を語るのである。

 大衆の存在様式の原像は、これをどんなに汲みとろうとしても、手の指からこぼれおちてしまうものをもっている。どんなに考えても考え過ぎることはないといったふうに存在している。しかも大衆はまたどんなに意味をつけようとしても、意味のつけようがないといった矛盾をも裏面にはらんでいる。
 「大衆」は、もともと、「だいじゅ」と読み、僧侶の集まりを意味する仏教用語である。それと対をなし、一般庶民を指すのが「衆生」である。本来の意味から反転したのには歴史的経緯がある。幸徳秋水ら明治の社会主義者は、近代によって誕生した新たな衆生を「平民」と呼び、第一次護憲運動の際に、それが「群集」へと転換する。ロシア革命の影響を受け、『資本論』を翻訳した高畠素之は彼らを「大衆」と命名する。彼は、1920年、『大衆運動』を発刊、翌年、大衆社を組織している。「大衆」は社会主義運動の担い手として使命を与えられた存在である。しかし、その期待は1923年の関東大震災によって裏切られる。大衆は、自警団と称して、朝鮮人を虐殺して回る衆愚にすぎない。この光景を前に、裏切られたという思いと共に、前衛が大衆を指導しなければならないという意識が左翼知識人の間に生まれる、こうして大衆と知識人の問題の枠組みが形成される。なお、高畑は、後に、国家社会主義に傾倒し、右翼と連携している。

 吉本は学歴貴族と共有するものを持っていない。そのため、彼は自分を知識人ではないと言い切ることができる。と同時に、大衆のことも彼らよりもわかっていると確信もしている。吉本は大衆に対する知識人の態度に我慢がならない。大衆を汲みとろうともせず、ただバカにしているだけだ。

 1948年、丸山眞男は、『日本ファシズムの思想と運動』において、知識人の属する「岩波文化」と大衆が愛好する「講談社文化」を対照させて批判している。この対比は、実際には、共産党の蔵原惟人が前年に発表した『文化革命と知識層の任務』からの援用である。講談社文化への批判事態は、戦前からすでに唱えられている。大宅壮一や戸坂潤がその代表である。しかし、丸山は、それを岩波文化と対比させ、大衆と知識人の問題として把握し、戦争責任と関連させて考察している。

 丸山は日本ファシズムの推進者を「講談社文化」、抵抗者を「岩波文化」に類型し、次のように主張する。
 岩波文化があつても、社会における「下士官層」はやはり講談社文化に属しているということ、そこに問題があります。そこでこういう層を積極的な担い手として日本のファッショ・イデオロギーはドイツやイタリアに比しても一層低級かつ荒唐無稽な内容をもつやうになったのは当然のことであります。
 講談社文化と岩波文化が断絶し、さらに両者の間に立つ社会の「下士官層」までも前者の側に親近感を覚えている。「下士官層」は学歴貴族以外の中等以上の教育歴のあるものたちであり、吉本も含まれる。愚かな大衆はまだしも、教育を受けた彼らがそんなことだから「日本のファッショ・イデオロギーはドイツやイタリアに比しても一層低級かつ荒唐無稽な内容」に陥っている。後に吉本は丸山を激しくこき下ろすが、こうしたお高くとまった意見を見る限り、いずれそうなるだろうことは予想がつく。

 「講談社文化」は講談社が出版する娯楽雑誌に代表される文化であり、大衆から圧倒的な支持を得ている。この大衆には、子どもや女性も含まれる。低俗な娯楽や薄っぺらな実用主義、義理人情といった通俗道徳、忠君愛国の御用イデオロギーに覆われたている。一方、「岩波文化」は岩波書店の刊行する教養書に見られる文化で、知識人から受容されている。西洋の最新の思想や事情を紹介しているものの、まさに教養にとどまり、大衆に普及・浸透させる気がまったくない。その頃の岩波書店は、子どもや女性を読者層として想定しておらず、学歴貴族のための出版社と言ってもよい。

 この丸山の論法は、「岩波文化」の知識人を戦争責任から免罪させてしまう。ところが、1942年初頭、岩波書店は創業以来の販売部数を記録している。戦争になると、出版産業を始めとしてマスメディア全体が好況を迎える。このときも例外ではない。すでに検閲制度は強化されている。自由な思想を標榜する岩波書店は、体制・大衆迎合的な講談社が売り上げを伸ばしたとしても、低迷するはずである。しかし、戦前の知識人は、概して、大陸ヨーロッパ志向で、その奥深さに敬意を払いつつ、大衆好みのアメリカの物質文明を軽薄と見下している。当時、大陸は全体主義勢力に占領され、国家として戦っていたのは英米ソである。文化面における親欧州・反米という知識人の姿勢は、体制や大衆と決して対立していない。森毅の『ゆきあたりばったり文学談義』によると、三国同盟のおかげで、独伊の本は手に入れやすく、特に、イタリア文学は、戦争中でさえ、マッシモ・ボンテンペルリやルイジ・ピランデッロの翻訳も出ている。なお、森毅は岩波文庫よりも、春陽堂文庫の世界文学がお気に入りだったと述懐している。積極的に戦争協力をしなくとも、岩波書店が日米戦争が始まってから売り上げを伸ばしたとしても、不思議ではない。けれども、岩波文化は、アメリカ文化や大衆文化を嘲笑することで、自身のアイデンティティを見出している。それは軍国主義の到来に無力であっただけでしかない。

 吉本に言わせれば、岩波文化と講談社文化の断絶や両者の読者層の間での非対称性が問題なのではない。彼の『前衛的コミュニケーションについて』や『自己とはなにか』を援用するなら、お互い共に置かれた「情況」を「自立」して十分に考え抜いていたのかが問われることになる。

つづく