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カンニングの問題


佐藤清文

Seibun Satow

2011年3月3日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「それにしても、京大でカンニングが問題になったとき、数学の教授には甘い人が多いことに気づいた。たぶん高校時代に数学が得意で、自分は見なくとも友人に答案を見せていた人が多かったのだろう」。

森毅『自由を生きる』

 1960年、ドイツ連邦共和国首相コンラート・アデナウアーは、TVで、国民に向かって高校時代の秘密を告白する。この84歳の政治家は、ルードヴィヒ・エアハルト蔵相と協力し、敗戦国ドイツに経済の奇跡をもたらしている。

 「今でこそ平然とお話できるしだいですけど、またたしかによくないことなのですが、当時、私たち卒業資格試験の受験生は何らかの方法であらかじめ試験問題の情報をキャッチしていたのです」。

 郷愁に満ちた思い出どころか、前代未聞の現職の首相によるカンニング告白である。こんな話は古今東西聞いたことがない。

 手口は次の通りである。全学卒業試験対策委員会が入手した試験問題の模範解答を作成する。その上で、不自然だと思われないように、どの生徒がどこの問題をどう間違えるかまで割り振りしておく。この後のキリスト教民主党の創立者は委員会の幹事の一人である。さすがに後の偉大なリーダーだと言わねばなるまい。今回の若者の将来も、そう考えると、決して悲観的ではないだろう。

 ケルン・アポステル寺院付属カトリック中高等学校の卒業試験の成績証明書には以下のように記されている。

 「コンラート・アデナウアーは、品行方正にして規律正しく、非の打ち所がない。授業中の態度は、すべての学科目にわたって積極的であり、知識欲も王政である」。体育が「良」、音楽が「秀」である以外は、すべて「優」である。

 しかし、これで万事うまくいったわけではない。

 「けれども、ぶじ卒業してから数年にわたって、この試験を夢の中で何度となく受けなおさなければならなかったのです。それも、身の毛もよだつような苛酷な条件がつけられていました。不安のあまりぞっとして夢から醒めると、ぐっしょり冷汗をかいていました」。

 告白の三年後の1963年、アデナウアーは首相を辞任、67年4月19日、「泣くことは何もなし!(Da jitt et nix zo kriesche!)」と息を引きとっている。

 このカンニングのエピソードとよく似た体験談を平田オリザが森毅著『ものぐさのすすめ』の解説「カンニングペーパーのような答案」で書いている。ただし、主人公はこの青年団の主催者で、舞台は1978年の定時制高校である。夢でうなされたという件はない。

 その森毅は今回のカンニング発覚の発端となった京都大学の名物教授だったことで知られる。この1928年生まれの人物は、自伝『自由を生きる』の中で「自分のためのカンニング」を二度したと吐露している。「自分のため」とは奇妙な言い方だが、当時の旧制中学・旧制高校では試験中に頼まれた友人に答案を見せることは「普通」だったからである。一度目は旧制北野中学の頃で、答案を見せたところ、その友人に他の問題の間違いを教えられている、もう一度は、旧制三高の教練のとき、軍人勅諭の暗記である。

 とは言うものの、「試験をして学生に成績をつける身になると、カンニングはつらい」。しかも、「質が悪くなって、他人の答案をまるうつしする」ケースさえある。「これはうつされた人間に迷惑をかける」。そこで、この数学教授はこう積極することにしている。「まるうつしは、殺人現場に指紋のついたピストルを残すようなものよ」。カンニング自体よりも、その「質の劣化」が気にかかる。

 「質の劣化」を云々すれば、二時間ドラマまがいの推理を展開した日本のメディアにも言える。それはテレビや新聞だけでない。ウェブ上も大同小異である。エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』を読み返すべきだろう。もし森毅が健在だったら、今回の問題についてどう発言したかは興味が尽きないところだ。その存在の大きさを今さらながら実感させられる。
〈了〉
森毅、『ものぐさのすすめ』、ちくま文庫、1994年
森毅、『自由を生きる』、東京新聞出版局、1999年
ゲルハルト・プラウゼ、『天才の通信簿』、丸山匠他訳、講談社文庫、1984年