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過ちは繰り返しませぬから


佐藤清文

Seibun Satow

2011年8月16日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


“Truman did not understand what was involved. You can see that from the language he used. Truman announced the bombing of Hiroshima while he was at sea coming back from Potsdam, and his announcement contained the phrase - I quote from ‘The New York Times’ of August 7, 1945: ‘We have spent 2 billion dollars on the greatest scientific gamble in history - and won’".
Leo Szilard

第1章 碑文論争

 広島市にある原爆死没者慰霊碑の石室前面に次のような文章が刻まれている。

 安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから

 この英訳は次の通りである。

 Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil.

 自身も被爆者の雑賀忠義広島大学教授が英訳も含めてこれを撰文・揮毫している。それには、「この碑の前にぬかずく一人一人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ一つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」という浜井信三広島市長の見解が汲み入れられている。

 この碑文が決定したのは1952年7月22日のことである。49年に広島平和記念都市建設法が公布されている。原爆死没者慰霊碑の除幕式が執り行われたのが、投下から7年後の52年8月6日である。

 1945年8月6日からその日に至るまでの間に原子力をめぐる国際情勢は激変している。1945年、国連の原子力管理をアメリカ・イギリス・カナダが要請、翌年、原子力委員会が設置されたものの、米国の核の国際管理案をソ連が拒否、両国が対立する。この年の3月に、ウィンストン・チャーチルがアメリカのフルトンで「鉄のカーテン」演説を行い、モスクワの大使館に勤務するジョージ・ケナンが「長文電報」をワシントンに送る。

 47年3月、ハリー・S・トルーマン大統領はソ連の膨張政策を封じ込める「トルーマン・ドクトリン」を発表、稀代のコラムニストであるウォルター・リップマンはこの状況を「冷戦」と命名する。形而上学でしかありえなかった二項対立が世界を支配するという史上初の時代に突入している。

 1949年9月、合衆国政府はソ連の原爆保有を確認したと公表する。信頼感と外交手段が著しく制限され、鋭く敵対する両国がいずれも核兵器で対峙する情勢が始まる。核戦争の危険性が人々に意識されたそんなとき、50年6月、朝鮮戦争が勃発する。51年4月、トルーマン大統領は、戦局打開を目的に北京への原爆投下の許可を要求するダグラス・マッカーサー国連軍司令官を解任、7月には停戦会談が国連で始まり、2年後の53年7月、休戦が実現する。

 この時期、核抑止論はまだ確立していないものの、史上3度目の核兵器の使用が現実味を増している。その上、核の拡散も進んでいる。

 52年10月、イギリスが原爆保有、同年11月、アメリカが水爆実験に成功、翌年8月にはソ連も続く。もし今度使われたら、報復合戦の末、人類が絶滅する。そのとき、加害者も被害者もない。しかも、そのきっかけはまったくのアクシデントかもしれない。人類の歴史の有限性が好むと好まざると核兵器が意識させる。核をめぐる競争激化と拡散が進む中で、原爆死没者慰霊碑が除幕されている。

 2011年6月9日にカタルーニャ文学賞の授賞式で、村上春樹は、先の碑文に触れ、次のように解釈している。

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 この文章をめぐって論争が繰り広げられたことはよく知られている。「過ち」は誰が犯したものなのかとか、原爆を投下したのは米国であるのに、その責任を明確にしていないとか、被爆者がなぜ自責の念を表明しなければならないのかとか、「繰り返させませぬから」の方が適切ではないのか等々の反論が、序幕の前から始まり、しばらく続いている。これらを踏まえて、広島市は碑文の趣旨を「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。

 過去の悲しみに耐え憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」として1983年に日・英語で、、2008年から8つの言語による説明板を設置しでいる。

 村上春樹の解釈は必ずしも広島市の趣旨と同じではない。核の前ではすべての人が被害者であると同時に加害者である。この試験は最低限二点の見落としが認められる。一点は、核が人類の歴史の有限性を認知させていることである。次回の使用では、人類が全滅するので、加害者も被害者舞いなくなる。

 もう一点は個別性である。いつもながらの、東久邇宮稔彦首相の「一億総懺悔」を思わせる一緒くたが認められる。被爆しながらも、「ヒバクシャ」と一括りにされたくないと沈黙し続け、最近になって危機感を覚え。発言・行動するようになった人も少なくない。三宅一生や張本勲の告白はマスメディアを通じても伝えられている。人それぞれが背負ってきた原爆への思いに深く考えさせられる。こうした核時代の人間の条件と個別性に配慮しない文学者がいるとは驚きだ。

 この文章を日本語のリテラシーから読み解くならば、広島市の説明文は妥当で、反論や村上春樹の解釈が的外れであることは明らかである。論争自身は、核兵器や公共性をめぐる諸問題を意識し、考えるために、非常に有意義だったことは確かである。現代の民主国家において、公共の理念が多くの人々の参加した熟議の上で決まるのはあるべき過程である。

 ただ、ネイティブ・スピーカーは自分だけでその用法が正しいかどうかを判断できるが、往々にして理由を説明できない。暗黙知を明示知にして考え直してみると、見当違いの議論をしていたと気づくこともあるだろう。碑文を日本語の曖昧さに毒されていると非難する人が時々いるが、それは母語の姿を知らないだけである。そこで、英語と比較しつつ、日本語の背後にある発送から、この碑文を読解しよう。

第2章 碑文と定言命法

 文言の解釈に入る前に、この媒体が公共空間に設置された石碑だという点を認識しておく必要がある。この物理的条件を無視してはならない。後世に引き継がれるべき公共の理念として共有されることを目的としている。それはこの被爆地が率先して広めていかなければならないと表明している。共時性・通時性を持った普遍性が前提となっており、理解の基盤である。文言というものは特定の文脈に依存するが、それが20世紀後半以降の普遍性へとつらなっていることを意識する必要がる。この碑文をめぐる普遍性を欠く狭量な主張はここですでに斥けられる。

 「過ち」は誰の犯したものなのかという問いは、日本語では適切ではない。日本語には冠詞がない。そのため、普通名詞がプレーンのままで個体を指し示すことができる。他方、英語では不定冠詞・定冠詞と二種類の冠詞があり、単複の区別も厳密である。普通名詞がプレーンで用いられることはまずない。

 例を挙げて説明しよう。

 本が売られていた。
 本を買った。
 本をなくした。

 いずれの場合も「本」で事足りる。ところが、これを英訳すると、そうはいかない。

 Books were sold.
 I bought a book.
 I lost my book.

 冠詞や所有格が前につくか、複数形に変化している。このように、英語では普通名詞がプレーンで個体を表わすことができない。英語の場合、プレーンの普通名詞はそのイデアあるいは概念であり、事典や辞典の見出しとして用いられる。”Book”という個体は現実界に存在しない。

 一方、日本語の普通名詞は非常に柔軟である。これを曖昧と見なすのは適当ではない。プレーンの普通名詞で、個体も、全体も、その部分も、概念も表現できる。

 「過ち」は特に限定されていない。これを個体として規定する際には、文脈を意識する必要がある。この表現は常に文脈を忘れないことを印象づける。と同時に、その個別の「過ち」は同時に普遍的なそれにもつながっていることも気づかされる。

 先に述べた通り、この文章が公共空間に置かれた石に刻まれていることを思い起こさなければならない。「誰」の「過ち」なのかというという問いは個体にのみとらわれているだけである。日本語のプレーンの普通名詞は個体も全体も示す機能を持っている。すでに起きてしまった核兵器使用と共に二度とあってはならないそれを具現している。

 「過ち」は”the evil”と英訳されている。定冠詞の用法にはいくつかある。定冠詞は文脈に依存する、もしくは文脈をつくり出す機能がある。また、形容詞を抽象名詞にするように、抽象化する働きがある。この用法を同時に使っているとすれば、文脈から判断する「過ち」と抽象的で普遍性をおびた「過ち」を表わしていることになる。この訳語は原文のニュアンスを伝えようという苦心の跡が見られる。

 次に「過ちは」であるが、これは主語ではなく、SOV型言語に見られる「提題」である。よく知られている例が「象は鼻が長い」である。「象は長い」では何のことやらわからないけれども、「鼻が長い」は意味は通じるので、主語は「鼻が」である。「象は」の機能はこの文におけるテーマの提示ということになる。「象は鼻が長い」は「象に関して言えば、鼻が長い」という具合に言い換えられる。「過ちは」も「過ちに関して言えば」という意味で理解できよう。

 「過ちは繰り返しませぬから」では、主語が省かれ、それが誰であるかは文脈から判断する必要がある。詳しくは後に述べる。

 「繰り返しませぬから」を分析してみよう。まず、敬語の一種である丁寧語が使われている。敬語は話す側と聞く側、さらに話の話題の三要素の内外・上下・親疎という関係基準から使われ方が判断される。なお、これは時代や地域によって相違が見られる。丁寧語なので、尊敬語や謙譲語でと違い、話の話題ではなく、聞き手に対する話し手の配慮を示している。話し手と聞き手の間に上下関係はなく、基本的に、対等である。「安らかに眠って下さい」からもそれは協調される。「過ち」は敬うに値しないので、当然、敬語表現が用いられない。

 ここの動詞は現在形である。日本語では、近い将来に確実に起こることは現在形で示す場合が少なくない。動詞には動作動詞や状態動詞、瞬間動詞などの種類があり、どの動詞が現在形で近未来を指し示すのかの説明は割愛する。坂上二郎のギャグに「飛びます、飛びます」がある。現在形であるけれども、実際にはまだ飛行機は飛んでいない。

 しかし、「飛びかけている」や「飛びそうだ」というニュアンスがある。機体が離陸した瞬間に、坂上二郎は「飛びます」ではなく、「飛びました」と過去形で叫ぶ。「繰り返しませぬから」も同様に、近い将来に確実に実現するという意味合いがある。英訳では、この部分は”shall not repeat”となっており、原文のニュアンスが生かされている。

 この文章の主語の問題に戻ろう。主語は文脈から判断できるとして、省かれていると考えられる。「安らかに眠って下さい」を考慮すれば、一人称である。英訳では複数形が用いられているが、すでに明らかになった日本語の発想と媒体から考えると、単数であると同時に複数であると捉えるべきだろう。

 一人一人が当事者意識を持って、戦争を含めて核兵器をめぐる諸問題に向き合うことが同時に、人類に普遍的な課題であると認識される。ところが、「すべて」と一緒くたに議論を展開する村上春樹の解釈からは当事者意識が抜け落ちている。

 加えて、この碑文は、原爆の犠牲者に誓っていることから、倫理的である。それを支える倫理的基礎はイマヌエル・カントの定言命法である。この近代哲学のチャンピオンは、『実践理性批判』において定言命法の根本方式を「汝の意志の格律が常に同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」と言っている。原文ではこの倫理が認められるが、主語を一人称複数に限定してしまうと、それが希薄化する。

 一人一人さまざまな事情や思想信条、感情を持っている。今度核兵器が使われたら、人類は絶滅し、もはや加害者も被害者もない。「繰り返させませんから」とすると、区分の基準が争点化し、核なき世界への当事者意識に疑問がつく。碑文は、犠牲者への誓いである以上、指図しているわけでも、責め立てているわけでもない。しかし、主観的原理に基づいている個々人を普遍的な目標へと導く。ここに日本語ならではの表現を生かした碑文の素晴らしさがある。文脈に依存していると何度か言及してきたが、それが具体的に何を指すのかは碑文自身が語るものではない。
 
 東西冷戦下、反核運動の普遍主義に対する批判も国内外を問わず寄せられている。日本では、福田恒存や吉本隆明がよく知られている。しかし、鋭いものの、それらは代替案や将来ヴィジョンを提示せず、アイロニーの域を出ない。東西冷戦が終結した一方で、核拡散が進み、核抑止論の根拠が失われている。今や、かつて核抑止論を推進した米国の元高官たちが相次いで核なき世界を目指す提言を行い、行動している。この流れが反転することはない。碑文の普遍主義は世界に浸透する。

第3章 No more Hiroshimas, no more Nagasakis!

 碑文のニュアンスをうまく伝える英語ならではの表現は次の通りである。

 No more Hiroshimas, no more Nagasakis!

 馴染み深いこのスローガンは非常に英語固有の表現に満ちている。

 二つの固有名詞が複数形になっていることに注意しなければならない。「ノー・モア・ヒロジマ、ノー・モア・ナガサキ」と単数形で記されることがあるが、これは間違いである。“No more…”は数もしくは量の追加の拒否を表わす「これ以上の…はたくさんだ」という意味の慣用句である。これは比較級の否定形である。

 ”Hiroshima”や”Nagasaki”という固有名詞が”A-bomb city(被爆地)”の代わりに普通名詞として用いられている。”City”は可算名詞であり、代替も複数形にする必要がある。ヒロシマ・ナガサキはすでに起きており、新たな被爆地を加えるのはごめんこうむる。「第二台三のヒロシマ、第二第三のナガサキはたくさんだ」といった訳が相当である。

 ”A-bomb city”ではなく、固有名詞を普通名詞化して用いているが、これには、先に述べたように、普通名詞では個体を表わすことができないという英語の事情が反映している。この対策の一つとして固有名詞の多用が挙げられる。

 1945年8月6日、B29「エノラ・ゲイ(Enola Gay)」が広島にウラン型原爆「リトルボーイ(Little Boy)」、同月9日に同「ボックスカー(Bockscar)」が長崎にプルトニウム型原爆「ファットマン(Fat Man)」をそれぞれ投下している。いずれのB29や原爆にも名前がつけられている。日本語の世界ではこの感覚が理解しにくい。冠詞のある英語では、普通名詞が個体を指し示すことができない。個体を表わすために、それに固有名詞をいちいちつけることが行われる。英語の世界では、固有名詞が日本語と比べて頻繁に用いられる。

 ピアニストのグレン・グールドは愛車の黒のリンカーン・コンチネンタルに「ロングフェロー(Longfellow)」と名づけている。日本では相当のカー狂であっても、自分の車に固有名詞を与えるケースは稀である。愛してやまないフェアレディZ240を「240」や「Z」と呼んでも、「シンシア」とまではしない。プレーンの普通名詞が個体を示せるからである。

 しかし、固有名詞は自分自身を説明できない。「エノラ・ゲイ」も、機長のポール・ディベッツ大佐の母親の名前に由来しているように、それだけではいったい何を、または誰を指しているのかまったくわからない。固有名詞を共通理解するためには、文脈を必要とする。そのためにこそ、この場合、固有名詞が使われる。

 ”A-bomb city“はそれ自身で情報を示せるので、文脈に依存しない。。”Hiroshima”や”Nagasaki”という固有名詞を使うことで、人々にその文脈が強烈に意識される。

 日本語でも、文脈を認知させるために、「ヒロシマ」や「ナガサキ」とカタカナ表記する場合がある。カタカナ表記にはいくつかルールがあるが、その一つに特定の文脈に依存させる機能が挙げられる。「カネ」と記すと、利権や汚職、癒着、拝金主義といった金銭をめぐる悪いイメージを喚起する。「ヒロシマ」や「ナガサキ」というカタカナ表記は「被爆地」を一義的に示している。

 このスローガンの持つメッセージを主語や動詞のある構文で表現するのは適当ではない。主語がある場合、一人称複数が想定される。また、主語のない英語の命令文は、現在もしくは未来に向けて、一人称複数あるいは二人称の相手に行為・行動を促す用法である。

 しかし、核廃絶は当事者意識を持たなければならない。自分の問題として考え、行動すると共に、それは人類全体に関係しているというニュアンスが主語や動詞のある構文でも表現できない。ちなみに、このスローガンの「主語」をめぐって論争が起きたことなどない。

第4章 「フクシマ」の年の8月

 戦争をめぐる責任は、戦争責任・戦後責任・戦前責任に大別できる。戦争責任は戦争を経験した人々の責任である。責任をめぐる権限・行為・結果・内容などに着目することで、戦争犯罪や戦争協力などいくつかに分類できる。

 次の戦後責任は戦争を体験していないものにもありうる。戦後、国内外に対してその歴史認識の教育・啓蒙や戦後賠償・補償などを果たす責任である。最後の戦前責任は、今を将来に起きる戦争の戦前にさせないための責任である。しかし、戦争責任を明確にしなければ、以下の二つへの取り組みは困難である。

 戦争責任が問われた除幕の頃と違い、今の人々の大部分にとって、戦後責任と戦前責任が責任の主である。これは核兵器に関しても同様のことが言える。原爆投下に至る過程やその後の展開に関して新たな史料や証言が絶えず見つかっている。

 中には、信じがたいほど禍々しいものさえある。アメリカ空軍が核ミサイル担当の将校への教育に聖戦論を20年以上も続け、憲法の政教分離に抵触すると指摘を受けて、2011年7月末に取りやめている。

 大半のキリスト教会は反核を明確にしているのに、軍が恣意的な聖書解釈を使ってその正当化を図ってきたというわけだ。ヒロシマ・ナガサキの文脈をつねに意識しつつ、今度使われたら、加害者も被害者もない人類絶滅の事態に至ることを自分の問題として考え、核廃絶に向けて発言・議論・行動する。あのメッセージはそれを導いている。

 今年で66回目の8月6日と9日を迎える。毎回その年特有の社会的・個人的背景の下にそれぞれ訪れる。2011年は「フクシマ」の年としてその日と向き合う。「フクシマ」は原子力の問題を日本社会に再確認させているが、自らの思考がいかに暗黙のうちに核に規定されてきたかを思い知らされてもいる。被爆と被曝を考えつつ、改めてこう誓う。

 安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから

〈了〉

参照文献

伊藤笏康、『言葉と発送』、放送大学教育振興会、2011年
杉浦克己、『日本語学』、放送大学教育振興会、2009年
イマヌエル・カント、『実践理性批判』、波多野精一他訳、岩波文庫、1979年
"Leo Szilard, Interview: President Truman Did Not Understand", U.S. News & World Report, August 15, 1960, pages 68-71
佐藤清文、『核なき世界』、2010年
http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/wfnw.html
佐藤清文、『吉本隆明試論』、2010年
http://p.booklog.jp/book/9343
原爆慰霊碑
http://homepage.mac.com/misaon1/hamayuu/hibunronso.html
原爆慰霊碑碑文論争
http://homepage.mac.com/misaon1/hamayuu/hibunronso.html
広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/
『【カタルーニャ国際賞】村上春樹さん受賞スピーチ』、中国新聞、2011年6月10日
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201106100170.html