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荻窪と政治

佐藤清文
Seibun Satow
2011年12月08日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「炭焼きもわが家では主人」。

ブレーズ・ド・モンリュック『回想録』


 JR中央線・東京メトロ丸の内線の荻窪駅南口を出て、迷いながらも、15分も歩けばそこに辿り着く。

 南口商店街に入り、最初の角を東に曲がる。その道を5分ほど直進する。信号機のある交差点も渡り、とにかくまっすぐ進む。すると、その先に、1930年開業の西郊に突き当たる。この老舗旅館を左手にガードレールのついた歩道を南に2、3分も進むと、大田黒公園がある。これは、もともと、日本の音楽評論の草分けである大田黒元雄の邸宅で、中に入ると、1933年に建てられた洋風建築の仕事部屋が記念館として保存されている。この公園から5分も南に歩けば、それが見えてくる。

 石垣のある白壁、広い門構え、樹齢70年を超す大木の広大な屋敷は、たいてい、ひっそりとしている。貸し出されている駐車場は以前はゴルフの練習場だったから、この邸宅の広さが想像つくに違いない。ここがかつて日本の政治の中心として機能していた歴史を知る人は多くないだろう。

 日本の政治指者は、しばしば、霞ヶ関・永田町から離れた邸宅で決断について熟慮を重ねている。彼らは、自分が管理できる時空間の屋敷の中で、雑音を遮断し、責任の伴う決定の妥当性を吟味する。吉田茂を始め、歴代の首相が都心から距離のある別宅を持っていた一つの理由がそれである。邸宅の持つ時空間感覚と政治決断の関係を軽視すべきではない。

 しかし、近衛文麿にとって「荻外荘(てきがいそう)」は熟慮ではなく、交渉の場である。

 1937年、公爵近衛文麿は政治家としての居を東京の荻窪に構える。彼に期待を寄せる元老西園寺公望はそれを「荻外荘」と命名している。意味は故事に由来するわけではない。そのままである。そこは現在の杉並区荻窪2丁目43番にあたる。

 荻外荘は南斜面の高台に位置し、善福寺川河谷を一望に収め、当時は富士の霊峰を眺められる立地条件にある。もともと、この物件は、大正天皇の侍医だった入沢達吉が1912年に中田村右衛門から松林一町歩を反あたり700円で購入して建てた別荘である。それを近衛が自宅使用の目的で買い求めている。

 37年6月に第一次近衛内閣が発足すると、荻外荘に各種の要人が訪れ、重要な話し合いや会議が開かれる。荻窪は国政上の要所の地位を獲得する。当時の新聞の一面は政治記事が掲載されるのが慣習である。そこで、連日、「荻窪」や「荻外荘」が言及される。近衛の国民的人気のおかげもあり、荻窪には高級住宅地のイメージが生まれる。

 第二次近衛内閣組閣中の1940年7月26日、首相は、陸相候補東条英機、海相候補吉田善吾、外相候補松岡洋介を荻外荘に集める。これは後に「荻窪会談」と呼ばれる。近衛はそこで、彼ら三人と「基本国策要綱」につながる国政上の基本方針を確認する。この一致の後、荻外荘が組閣本部となり、近衛等は四日間に亘って閣僚人事を選考している。

 これ以降も近衛は荻外荘を要人との政治交渉の場として活用する。フランス領南インドシナとタイトの国境紛争調停の最終案の検討も、1941年3月2日、荻外荘における連絡会議で行われている。仏領南印進駐問題は日米関係を悪化させた最大の要因の一つである。今後の日本の命運が荻外荘で決まったと言っても過言ではない。

 しかし、近衛内閣の終焉と共に、荻外荘をめぐる状況も変容していく。1941年10月、日米開戦が迫る中、近衛は政権を放り出し、代わって東条内閣が成立する。また、同年9月からゾルゲ事件が発覚、関係者の中に、近衛内閣に食いこんでいた尾崎秀美朝日新聞記者も含まれていることが明らかになる。しかも、近衛は反東条・和平運動を画策し始める。こうした変化により、荻外荘は憲兵にとって監視・盗聴の最重要対象の一つに数え上げられるまでなってしまう。

 この時期、時折、荻外荘に文化人が集まり、時勢に関する議論の場が催されている。安倍能成や和辻哲郎、小泉信三、岩波茂雄らが日中戦争に始まり三国同盟、日米交渉などについての意見交換を行っている。時局は変わろうとも、荻外荘が近衛を中心に吸えた話し合いの場であることは続いている。

 戦後、近衛は国務大臣に就任、荻外荘も再び国政の交渉の場に復活するかに見られている。けれども、45年10月、戦犯問題が浮上、11月6日、近衛に占領軍からA級戦犯の一人として逮捕令が出される。彼は12月16日までに当局に出頭しなければならない。自殺の危険性があると感じた親族は彼を四六時中監視し始める。15日、近衛は終日荻外荘にいて多くの来客に対応してすごしている。その後、次男の通隆と夜中の11時頃まで寝室で語り合い、今の心境を便箋に息子に口述筆記させ、床に就く。翌日、近衛が出頭することはない。青酸カリで服毒自殺した姿が家人により発見されている。

 戦前の日本の家屋は、床の間が端的に示しているように、来客中心に設計されている。しかし、私邸は主人が時間・空間を管理できる。その場で展開される議論や交渉では主が最も優位である。出て行くのはゲストであって、マスターではない。

 近衛はそういう環境で重要な政治決断のための意見集約を行っている。そこで繰り広げられる討議や導き出される結論は主人にとって都合のいいものとなる。近衛はこの機能を大いに利用している。けれども、それは政治的決定の際に危ういシチュエーションである。主人の願望的思考に場が支配されやすいからだ。近衛は荻外荘と共に政治家として生き、そこで最期を迎えたが、彼の逡巡壁がその館を必要としたとも言える。決断の最終責任を明確にするためではなく、政治的交渉で優位に立つ目的で私邸を使うのは保身と非難されても仕方がない。荻外荘の内弁慶の下した決断がことごとく当てが外れていくのも当然である。

 荻外荘は、近衛の死後、吉田茂が短期間借りて住んでいる。しかし、ワンマンにこの邸宅はふさわしくない。唯我独尊の政治決断を繰り返す彼には大磯がよく似合う。

 荻外荘は現在も近衛家の所有であり、内部の一般公開はされていない。ただ、「今も近衛が自殺した部屋は、そのままの形で残されている。まことに近衛の『権力の館』は、権力。政治の栄光と悲惨をものの見事に象徴している」。(御厨貴『宮中と政治』)。夕方4時頃、佐藤清文という文芸批評家が健康管理のための散歩の際に通り過ぎるのが最近の荻外荘の光景である。
〈了〉
参照文献
天川晃他、『日本政治外交史』放送大学教育振興会、2007年
荻窪寺社史跡マップ
http://home.att.ne.jp/air/jobcci/info-suginami/ogikubo/temple.html