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脱地下資源社会へ

佐藤清文
Seibun Satow
2012年04月15日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「夢を語れ、技術を語るな」。

福田収一『自己発展経済のための工学』


 今も甚大な被害が続いているフクシマを経験しながら、現政権は、安全性を二の次に、軽々しくも大飯原発を再稼働させようとしている。まったく将来のヴィジョンを示しておらず、構想力のなさを露呈している。菅直人内閣はしばしば停滞と揶揄されたが、現政権は後退しているのだから、始末が悪い。

 夏の電力不足が懸念されるので、大飯原発の再稼働を進める。これは問題解決、すなわち戦術的思考である。戦略的思考は、新たな問題設定を行うことである。与野党問わず、2000年代に入って、「国家戦略」と口にする政治家が目につくようになったが、まったくそれが何たるかを理解していない。戦術は既存の問題に対して”how”からのアプローチであり、戦略はその本質を”why”と考えるアプローチである。そこから新たな問題設定が生まれる。

 原発の稼働がなくても、電力不足に陥ることはまずないだろう。関西電力の提示データの信頼性やバックアップ発電所の存在、節電・省エネ効果、電力市場の縮小傾向などを理由に、これは多くの論者が指摘している。今回、戦略的思考を問う都合上、それに深入りする気はない。ただ、大飯原発の再稼働は戦略的思考を停止させてしまうことにおいて最悪である。

 垢抜けない原発再稼働の方針には、3・11以前への回帰があるだけで、今後の見通しが感じられない。高度経済成長期はたまたま大規模自然災害が少なかった時期であり、原発建設はそれを前提に進められている。だが、3・11以後は地震活動が活発化したと見られ、これだけでも戦略の見直しが不可欠だ。

 そもそも、原子力関連への人材不足はこれまで一向に改善されていない。それは政府も認めている。70年代後半から、実質的に、高等教育機関での志望者数は減少している。人が集まらないのに、原子力に未来があるわけがない。未来を語れぬものが政府にいるべきではない。

 しかし、脱原発が目標ではない。それでは不十分だ。原発は地下資源に依存する社会が修正主義的に求めたものだからである。現行社会のはらむ矛盾を抜本的に再考することなく、導入されている。温室効果ガスの抑制には効果的だという意見はその一例である。地下資源依存の社会から脱却する必要がある。地上資源を利用した社会へとシフトするべきである。

 この地上資源には、潮力や海洋温度差、波力、海流、水中植物によるバイオマスなど海洋のそれも含まれる。

 地下資源依存社会は非常に軋轢が生じやすい。地下資源は有限であるから、ゼロサム状況を生み出す。誰かが得をすれば、誰かが損をする。資源ナショナリスムや資源ポリティクスが発生し、国家間の争奪戦が激化する。

 一方、脱地下資源社会は、資源による国際的緊張が起きにくい。バイオマス等を除く大半の地上資源は無限であるから、ノンゼロサム状況をもたらす。誰かが得をしても、誰かが損をするわけではない。太陽光や風力の国家間の奪い合いなどあり得ない。地上資源は世界中に遍在し、枯渇の恐れがない。対立が発生するとすれば、地下資源で潤っていた勢力が既得権益を失うと、利己的に振る舞った時くらいである。

 地下資源社会は、熱エネルギー依存社会と言い換えられる。石炭や石油などの化石燃料を大型発電所で燃やし、それを電気エネルギーに変換する。原発もこの延長線上にある。熱エネルギーは仕事への変換効率が悪い。そのため、規模の経済の観点から大規模集中型のエネルギー・ネットワークが採用される。

 世界には、現在、約17億人の無電化人口がいると推測されている。これが、現行のシステムを前提にしたまま、電化していくとすれば、莫大な量の地下資源がさらに必要となる。原発も地下資源に依存している。ウランもいずれ枯渇する。小型の非熱系の発電設備を共同体の必要に応じて設置する方が効果的である。保守・補修も地元の人に担当させれば、雇用も生まれる。

 また、エネルギー・セキュリティの問題もある。産出地から消費地への石油や天然ガスなどの地下資源の運搬は、国境を超えるため、国際情勢の変化の影響を受けやすい。加えて、原子力には、それを隠れ蓑にした好戦国家の核兵器開発ならびにテロリスト等への核兵器拡散の危険性がある。おまけに、原発の数が増加すれば事故の可能性が高まる。原発の事故は高度に専門的で、被害が甚大であるため、国際環境法では、「高度危険活動(Ultra Hazardous Activities)」に分類されている。これは科学的知見による予見性の有無にかかわらず、事故が起きたという事実で当事者が責任を負う「無過失責任」が原則になっている。とは言っても、その被害の回復は極めて困難である。

 再生可能エネルギーに対して、天候により供給が不安定だという批判がある。これは、20世紀的な工学の思考習慣に浸っている。20世紀の工学は、コンテクスト・フリーを前提に設計している。もっとも、変化に対応したくても、それだけの技術もない。そのため、コンテクストを無視し、画一的な再現を目指している。

 一方、21世紀の工学はコンテクストに即応することを念頭に置く。それを可能にするのがITである。エネルギー分野も例外ではない。スマート・メーターから集められたストリーミング・データをクラウド・コンピューティングで解析し、需給の変化を管理する。こういった仕組みを一例とした「スマート・エネルギー・ネットワーク・システム(SENS)」を構築し、変化に対応する。

 従来、電力の供給は電力会社から利用者への一方向でしかなかったが、ITによって制御、すなわちスマート化すれば、それが双方向になる。このスマート・グリットが整備された地域が「スマート・コミュニティ」である。この内部には、スマート化された建築物や各種のインフラ、商業施設、公共施設、住宅などが配置され、地上資源エネルギーの発電・蓄電施設が整備されている。それには、企業や自治体、大学、各種の団体、個人の強いコミットメント、すなわち協働が不可欠である。エネルギーに対して受動的ではなく、能動的に向かい、それを通じてコミュニティの新たな物語を協創する。

 日本は、3・11から物語の共有がいかにかけがえのないことかを学んでいる。それを協創を意識していくのが3・11後の社会でなければならない。原発は、これまで、建設に際して、地域を分断してきたが、フクシマに至って、いかに人の絆を引きちぎるかを露見している。脱原発は、むしろ、当然である。

 スマート・コミュニティ構想は、実は、実証段階に入っている。経済産業省は2009年に「次世代エネルギー・社会システム協議会」を設置している。また、横浜や京都、豊田、北九州などで実験的取組が実施されている。この試みは大いなるビジネスのチャンスである。国内の雇用創出も見込める。さらに、スマート・コミュニティの成果は海外市場への輸出も期待できる。

 スマート・コミュニティは、電力の効率的な活用を目指している。節電・省エネも含まれているのは言うまでもない。それには、排出権取引を参考にした電力の取引市場の創設も考えていい。余剰電力もさることながら、節電・省エネも取引の対象になれば、意欲も高まる。節電は苦痛の伴う耐久ではなく、利益をもたらす快感である。

 スマート・コミュニティを構成する「スマート・ハウス」は商業的にすでに実現している。屋根の上にソーラー発電システムを置き、電気自動車の充放電を活用する。太陽光発電は、光電効果を利用しているため、生まれてくるのは直流である。直流の電気エネルギーは化学エネルギーに変換できるので、蓄電が可能である。また、数メートルのケーブル程度の送電であれば、電気抵抗を考慮した高電圧にする必要もないので、直流のままで十分である。家庭の電気エネルギーはこれで自給可能である。日射があるときにソーラー・エネルギーを利用し、太陽が隠れているときには、自動車等に蓄電しておいた電力を使う。日産のリーフがスマート・ハウスに対応した代表例である。

 日本の住宅の3、4軒に1軒をスマート・ハウスに変えたとすると、それは約2800万kWの太陽電池に相当する。この量は大手電力会社一社分の平均的な発電能力である。

 ちなみに、東京は、先進諸国の都市の中で、年間を通じて最も日射がある。東京の緯度はモロッコに当たる。しかも、冬期間、先進諸国の主要都市で最も乾燥する。かつて公団住宅の建設の際の条件の一つに「南面4時間」、すなわち南向きの部屋は冬でも晴天の日に1日4時間の日射を確保することがあったが、パリもロンドンもローマもこれをクリアできない。

 何らかの危機を想定して原発の再稼働を主張するのは、戦術的思考にすぎない。彼らは、その先に漸進的に原発を減らしていくべきだという意見しか持ち合わせていないだろう。そういう近視眼的な人物に限って、リアリストだと自称する。稼働するほど増え続ける放射性廃棄物の問題に対する答えも用意していない。日本の省エネならびに再生可能エネルギー活用のための技術は非常に発達している。けれども、それが十分に生かされているとは言い難い。こうした事態は戦略的思考の乏しさに起因する。戦術的思考では既得権益の温存が優先される。来るべき社会を構想して、新たな問題設定をすれば、それらの技術は体系的・総合的・有機的に位置づけられる。今必要なのはそんな戦術的意見ではない。戦略的見通しだ。

 福田収一首都大学東京名誉教授は、『自己発展経済のための工学』において、日本が歴史的に専修的思考に偏重してきたと指摘する。この工学博士は大戦中のゼロ戦とF6ヘルキャットを例に挙げる。当時の空中戦は敵機の背後に回りこみ、機銃で撃ち落とすスタイルである。ゼロ戦はこの戦術に非常に適した設計をしている。小回りが利き、機銃の命中精度も高い。一方、F6の設計思想は違う。目的は勝つことであり、この戦術にこだわる必要はない。高高度から銃撃すれば、簡単に撃ち落とせる。高高度に達するだけであれば、高い技術力は要求されない。しかも、敵は編隊を組んで飛んでいるから、上から撃てば、どれかに当たるので、機銃の精度もさほど高くなくてよい。製造も、そのため」、容易である。おまけに、旋回半径も大きくてかまわなければ、防御装置も充実でき、かつパイロットにかかるGも小さい。ゼロ戦と違い、未熟なパイロットでも扱える。製造・操縦の技術的高度化を狙ってはおらず、戦略目標を練り、それに基づく運用を考えている。名誉教授は、日本もこうした戦略的思考をとるようにすべきだと提言している。

 現首相は、2011年9月22日、国連で「日本の原子力発電の安全性を世界最高水準に高める」と発言し、フクシマを経験しながら、依然として戦術的思考から抜け出せない愚かさを世界にさらしている。この思考習慣がフクシマを招いた自覚さえない。

 これほどエネルギー問題に当事者意識を持って日本で議論が沸騰したことはない。脱原発へのヴィジョンは人々の心を熱くさせている。原発をめぐる戦術的思考は、結局、これしかないと強制するが、戦略的思考はオプションを用意するからだ。ただ、脱原発は過渡期である。目指すは脱地下資源社会だ。その大きな流れで見るとき、脱原発はたやすい。何が資源となり得るかは知識と技術によって決まる。さあ、未来を協創しよう!

〈了〉

参照文献
柏木孝夫、『スマート革命』、日経BP社、2010年
福田収一、『自己発展経済のための工学』、養賢堂、2011年
佐藤清文、『原発と学生』、2011年
http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/npgs.html