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17万人のONGAKU

佐藤清文
Seibun Satow
2012年07月27日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「私はまだ、諦めていません。自らの存在をかけて、声を上げます」。

坂本龍一


 それは17万人の声によるONGAKUである。けれども、指導者に従って一斉に歌っているわけではない。みんな同時に歌っているが、それぞれ独自の旋律だ。アマゾンのシュアール族の音楽を思い起こす。参加した坂本龍一にとっても初めての経験だったろう。

 音楽は他の人との関係なしにはあり得ない。独唱や独奏であっても、他と共有したものを前提にしている。音楽行為とは誰かと合わせることである。それには、いかに合わせるかを踏まえつつ、他の声や音を聞かなければならない。みんなで同じ旋律に従う必要はない。岩手県遠野市に「御祝」という音楽様式が伝承されている。男女に分かれて別々の民謡を同時に歌う。こんな音楽も日本にはある。歌うために共にそこにいること自体がすでに音楽である。

 「さよなら原発」は今まで日本ではなかったONGAKUである。脱原発という思いを共有してそこに集まり、それぞれが自分の声で独自の旋律にのせて一緒に歌う。バラバラのようにも聞こえる。でも、お互いに仲間の存在を必要としている。だから、それはONGAKUだ。17万人だけでない。そこに来られなかった人たちも一緒に歌っているONGAKUである。

 「もうお上やマスコミは信用できないと、自分たちで放射線量を計測し、地図上に落としてデータベースをつくる。あるいは若い人たちがインターネットを通じてつながり、新しいスタイルのデモを繰り広げる。日本でこれほど個人の力が発揮されたことは、かつてなかったのではないでしょうか」(坂本龍一)。

 脱原発派は事故や放射性廃棄物のもたらす社会への負債を心配している。再稼働の賛成者にも、電力不足による仕事や生活への悪影響を懸念して消極的にそうしているケースが少なくない。いずれにも恐怖がつきまとっている。

 実は、原子力は、国際環境法上、「高度危険活動(Ultra Hazardous Activities)」に分類されている。非常に専門的であるため、科学的予見が難しい。莫大なエネルギーは社会にとって有益でもあり、有害でもある可能性がある。そこで、予見性とは関係なく、事故が起きた場合、無過失責任が原則である。原発の安全性はこんな前提上にある。

 原発には恐怖が絡む。恐怖はリスクに対応する。リスクは、最も単純には、発生確率とその社会への損害規模の積によって表わされる。原発が供給するのは恐怖の電力である。核兵器はかつて核抑止論による恐怖の平和として正当化されている。政府や電力会社らは恐怖によって原発再稼働を図っている。しかし、経済的イマジネーションはインセンティブによって向上するものだ。それを欠き、つねに恐怖の下にある社会に明るい展望は育たない。

 「原理や原則についてきちんと議論がなされないまま、『論理』ではなく『空気』で物事が決まっていく。そんな国のありように、ずっと違和を感じてきました。野田さんってその違和を体現したような存在なんですよね」(坂本龍一)。

 恐怖の電力政策は科学技術の認識の流れに逆行している。エコロジーの伸長は科学技術の認識を改めている。公害の発生は科学が社会に利益だけでなく、損害ももたらすことを人々に知らしめる。また、オゾン・ホールの問題は科学が想定外の被害を与えると共に、その危険を発見したのも科学自身だということを示している。さらに、地球温暖化は正しいかどうかは科学的にも判断が分かれるが、もしその通りだったら、取り返しのつかないことになると予防原則がとられている。

 「日本だって1960年代末から70年代くらいまでは、ロックミュージシャンが政治的発言をしていた時代もあったんですよ。それがいつしか、チャリティーですら『偽善だ』という批判に強くさらされるようになり、とてもやりにくい時代が続いた。音楽家は音楽だけをやっておけ、政治的な言動はとるなと。しかし3・11を受け、これも変わりつつあります。音楽家や芸能人、さまざまな立場の人がそれぞれのやりかたで被災地を支援し、それが当たり前になってきたのは歓迎すべきことです」(坂本龍一)。

 その日は朝から暑かったが、会場はさらなる熱気に溢れている。その熱で今稼働中の原発くらいの発電はおそらくできたことだろう。いや、そんな程度ではない。

 1963年8月28日、合衆国のワシントンDCで人種差別撤廃を求めるデモが行われる。それは、マーティン・ルーサー・キング牧師による”I Have a dream”演説の伝説で語り継がれる「ワシントン大行進」である。アメリカの差別の構造転換における画期的な出来事の参加者は約20万人である。

 2012年7月16日、17万人が「さよなら原発」に共鳴して集まる。しかも、諸般の事情によって加われなかった人のために、リアルタイムでネット中継もされている。日本の脱原発も公民権運動級へと発展している。

 その集会で登壇した坂本龍一を見たとき、「教授」の名曲を替えて、こう歌う参加者もいたに違いない。

 ぼくはアジサイ手にして ONGAKU
 きみはさよなら原発 ONGAKU
 待ってる 一緒に歌う時 ハハ
 待ってる 一緒に踊る時 ハハ

 調子っぱずれだってかまわない。つたない言葉でも大丈夫。大切なのはそんなことじゃない。「声を上げる。上げ続ける。あきらめないで、がっかりしないで、根気よく。社会を変えるには結局それしかないのだと思います」(坂本龍一)。

〈了〉

参照文献
坂本龍一、「存在かけて声上げ続ける」、『朝日新聞』、2012年6月15日