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これでは、日本人は「戦争」を選ぶ

佐藤清文
Seibun Satow
2012年08月10日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「高学歴で無財産で核家族のひとりっこ、それが都市中流の四拍子だろうが、ぼくは今の少子化時代を半世紀以上も先どりしていたことになる」。

森毅『自由を生きる』



第1章 1920年代の慢性的不況

 加藤陽子東京大学教授は、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』において、15年戦争当時の国民世論が軍部に期待していく過程を描いている。国民の多くが生活苦にあえいでいるにもかかわらず、政党政治がそれに応えられていない。国民の政党に対する不満が高まっていたときに、第一次世界大戦の総力戦から学んだ陸軍統制派は「今後の戦争の勝敗を決するのは『国民の組織』だと結論づけ」、自分たちのスローガンを公表する。義務教育の国庫負担や肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作権などの借地権保護、さらに労働組合法の制定、適正な労使紛争解決機関の設置などをパンフレットに謳う。「政治や社会を変革してくれる主体として陸軍に期待せざるをえない国民の目線は、確かにあったと思います」。

 なお、「それ」は話者に対する相手のテリトリーに属しているものを指す場合に使われる。一方、「これ」は話者のテリトリーにあるもの、「あれ」はいずれにも入っていないものに向けられる。

 1920年代、日本の産業構造が膨張主義への依存を強めている。そこでは、一般庶民による暮らし向きをよくしようとする合理的な選択も膨張主義的社会傾向を招いてしまう。暮らしから戦争を考えるとき、しばしば戦時下の耐久生活が語られる。けれども、そうしたエピソードとして語るのではなく、暮らしをもたらした産業構造の変遷から戦争へと至る過程を振り返る必要がある。それによって戦争の性格を内側から捉えることができる。

 明治期から第一次世界大戦まで、農業と製造業は成長を続けている。しかし、戦間期に両者共に苦境に見舞われる。従来の農法による技術革新の頭打ちに直面し、生産性の向上が望めなくなる。1918年、米騒動が勃発、その後、再発を恐れた政府は米価安定のため、植民地の台湾と朝鮮から米の移入を政策として促進する。それに伴い、本土の農業は苦しくなる。近代における工業化は農業からの収奪がつきものである。技術革新による生産性の向上から生じた農村の余剰人口を工業に吸収する。あるいは、農産品を輸出して得た外貨(正貨)を工業化の原資にする。この時期、日本の農業にはいずれの余裕もない。加えて、農村の余剰人口は、戦前、徴兵や陸士・海兵を通じて軍隊にとられることが恒常化している。

 また、大戦中、特需に沸いた製造業も、戦後に欧州の産業が復活すると、国際競争に勝てず、輸出が停滞する。特に、深刻だったのが重化学工業である。この分野は民生部門における国際競争力の向上を軍需依存を強めることで怠っている。しかし、20年代は世界的な軍縮の時代である。膨張主義への依存体質のある産業は業績が低落する。ワシントン体制による国際協調が当時の日本の外交方針である。各国の軍艦の保有比率が決まり、海軍は八・八艦隊の整備計画を断念する。造船業は軍からの発注が減少、商船分野では英米との実力差が歴然としており、減った分を補うことができない。ローリング・トゥエンティーズに欧米がかつてない好景気を迎えるのに比して、日本は、重化学工業の膨張主義依存の体質が改まることがなく、慢性的不況に陥る。
 
 他国が復帰しても金本位制は停止のままだったが、20年代の為替レートは大戦前に比べて円安に振れている。通常、自国通貨の安い状態は輸出に有利な条件である。ところが、製造業部門は国際競争力がないので、これを十分に生かせない。それどころか、質のいい輸入品が割高であるため、国内重化学工業が事実上保護されている有様だ。

 不況のため、税収が伸びない。また、輸出が不調で、貿易収支は赤字続きである。これでは財政が苦しく、予算編成も窮屈にならざるを得ない。当時の政党政治の政府にも同情の余地がある。しかし、これでも、日本人は「戦争」を選ぼうとしていく。


第2章 都市の暮らし

 20年代、急速に都市化が進む。この頃になって、ようやく成人男子が近代労働を受容し始める。誰かに雇われて働くなどというのはそれまで屈辱でしかない。職人の徒弟制度はあくまで修行であって、賃労働ではない。女子労働が先行したのはそのためである。男性世帯主による性別役割分業の家族モデルが都市の労働者・サラリーマン家庭で受容される。「男は仕事、女は家庭」の考え方が浸透していったわけだが、実は、大半の都市の男性稼ぎ手世帯が自立して家計を維持できていない。

 自立した家計が成り立っていないのに、男性稼ぎ手・性別役割分業の家族形態が20年代に都市部で広まったのは奇妙である。70年代の不況期、夫の収入が足りないのであれば、妻がパートや内職をしたり、共稼ぎをしたりしてそれを補っている。伝統的な農村では、女も稼ぎ手である。そもそも、江戸時代、家政は、理に疎い女がすべきことではなく、家長の責任と権限で行う仕事とされている。男性稼ぎ手・性別役割分業は、近代労働的な新しい家族のありようとして受け入れられたのであり、おそらく、それを維持する欲求が新世代には強かったと考えられる。

 そうした都市世帯では、家事労働によって自給自足できる分を極限にまで拡大している。主婦の家事労働は11〜10時間にも及び、中でも針仕事は3時間も占めている。男性労働者の通勤も含めた就業時間を上回っている。当時の家事労働は機械化が進んでいないため、非常にきつく、ちょっといい家庭だと、「行儀見習い」と称する未婚の若い女性をお手伝いとして雇っている。都市家族は、それでも足りないのが普通で、故郷の小農直系家族からの食料品や金銭の支援を受けている。さらに、向こう三軒両隣の間での日常必需品や金銭の貸し借り、馴染みの店でのツケ、家主への家賃滞納なども常態化している。

 しかも、都市の家庭ではすでにエンゲル法則が成り立たない特徴が見られる。収入が減っても、食費を削り、教育費や住居費を維持しようとしている。都市住民は大半が持たざる者たちである。自分たちはともかく、いい学校に行って、いい職に就けば、子どもはもっとよい暮らしができる。そういった中長期的な展望から教育費は削れない。また、住居はこれまでの苦労の証であり、生活のステータスを指し示す。せっかく上がったのだから、下げたくはない。住居費も減らすわけにはいかない。

 ただ、こうした家計の自衛策は関連産業にとっては打撃である。繊維や水産・食料品の企業数は、1918年の31と22から29年には25と18にそれぞれ減少している。不況になれば、都市住民は衣料品や食料品の購入を控え、それによって国内消費が冷えこみ、民生部門の産業が苦しくなる。

 都市生活は地方に依存している。その地方が困窮に陥れば、口減らしも含めて、農村から都市へと人口が流入する。けれども、都市に住んでも自立できる生活状況ではない。おまけに慢性的不況により求人も少ない。重化学工業の大企業は、ロシア革命の成功を受けて盛り上がり続ける労働運動に恐れ、慄く。経営者は熟練工を労働運動から切り離し、企業内に温存するため、終身雇用・年功序列を採用する。こうした従業員の優遇制度は新規採用を抑制することになる。都市にやってきた人たちが大企業に入れることは稀で、二次・三次産業の中小企業に職を得るのがやっとである。こういったところの労働待遇・環境は劣悪であるが、他に選択肢はない。低収入の彼らに購買力の向上は望めず、民生部門の消費の伸びは期待できない。

 もちろん、都市化の進展に伴う新しいビジネスも出現している。私鉄が沿線に中産階級向けの土地付き分譲住宅を販売して、郊外衛星都市を形成する。その路線に動物園やテーマパーク、野球場などのレジャー施設を建設、ターミナル駅には百貨店を設置する。第一次世界大戦後、従来の呉服店から脱皮した大型小売店も競合し、都市大衆市場をターゲットにした多種多様な品揃えを売り物とする鉄筋コンクリートの大規模商業施設が活況を呈する。また、洋風の新商品が登場し、購買欲をそそっている。ウィスキーやポートワイン、カルピス、キャラメル、カレーライス、カメラ、化粧品、家庭用パンなど従前日本になかった商品を流通経路に乗せることが難しい。そこで、メーカーの代理店やチェーンストアなどで販売網を構築したり、消費者に直接訴える宣伝広告を重視したりしている。

 重化学工業の大企業は国際競争力に乏しいが、例外もある。それが電気機械である。1920年代から30年代にかけて急成長している。この分野は民生であり、早くから海外メーカーとの提携が進み、技術移転も行われている。1899年、日本電気が米国のウェスタン・エレクトリックとの合弁会社として設立、1902年、芝浦製作所がGEと業務連携している。第一次世界大戦中、輸入が途絶えたため、国産化が本格化する。10年代には国内メーカーも大量生産を始め、20年代後半に市場確保が進展、中小メーカーも次々と出現している。

 また、この時期、電気事業が急拡大している。東京電灯・宇治川電気・大同電力・東邦電力・日本電力の五大電力会社が激しい電源開発競争を繰り広げた結果、総発電量は1915年から30年の間に7倍に増加している。電気料金の引き下げが相次ぎ、製造業を始め各産業が電力を利用し始める。のみならず、安価な電力供給は新興産業の成長も促進させる。その一つが化学肥料である。30年代、日本は世界有数の窒素肥料生産国へと発展する。

 なお、戦間期の都市中流層の暮らしぶりや考え方については森毅の『自由を生きる』など自伝的作品でうかがい知ることができる。この1928年生まれのユニークな人物が名曲『泣く泣くかぐや姫』でお馴染みの河井防茶の遠縁に当たることを付記しておこう。

 20年代に好調な産業は、戦後の消費社会を牽引したものが多く見られる。軍需に依存することなく、民生部門での国際競争力の向上に努め、国内市場の購買力の刺激につながるアイデアを試みる。これなら、日本人は「戦争」を選ばない。


第3章 膨張主義依存の強化

 こうした新しい動向も起きたものの、戦間期に規模別賃金格差が拡大し、二重構造が生まれている。中小企業の労働者や農民に比べて、大企業の所得が著しく高くなる。大企業と中小企業、ならびに工業と農業の間で規模別の賃金や生産性の格差が構造的に存在する。スケール・メリットを狙って、M&Aや系列化が進む。中小企業は大企業の下請けに位置付けられ、後者の業績が前者に影響を及ぼす。ところが、大企業は膨張主義に依存している。それが売り上げを回復させるには、軍拡を始め帝国主義政策が不可欠である。鉄道関連産業も、膨張主義の象徴とも言うべき南満州鉄道とも関連している。15年戦争はこの期待の下で勃発し、重化学工業は活況を呈する。

 第一次世界大戦後に登場した世界は、日本が基づいてきた暗黙の前提を覆す。それは、一言で、言うと、20世紀である。ところが、日本は19世紀に固執する。君主を立憲主義に組みこんだと発布当時は欧米から評価の高かった大日本帝国憲法だったが、戦間期には国民主権がスタンダードになった世界の流れに取り残されている。滑稽にも、第二次世界大戦後でさえ、日本の指導部は天皇主権の維持に最も専心している。明治期に決められた制度は国際動向に往々にして非感応的である。これが産業構造にも見られる。政治・経済体制は軍縮が頭になかったとしか思えない。軍部も軍縮を装備の近代化の動機づけにしようとしたくらいで、暗黙の前提の抜本的な見直しにまで至っていない。

 暗黙の前提が崩れているのに、それに目をつぶり、現状維持を図る、これは、3・11をなかったことのように原発推進をしようとする現在の財界にも共通している。変えるべき時にそれをしないと、取り返しのつかない失敗をしでかすことを肝に銘じておくべきだ。

 膨張主義依存の産業構造を強化しながら、日本はそれと矛盾する動きもとっている。20年代後半の重要課題の一つに金解禁が挙げられる。日本も、欧米諸国同様、速やかに金本位制に復帰する必要がある。問題は為替レートを現時点の新平価にするか、かつての円高水準の旧平価にするかのいずれかである。しかし、実は、金本位制と膨張主義は相容れない。金解禁するのであれば、新平価だろうと旧平価だろうと、膨張主義を捨てなければならない。

 金本位制では、金の保有高に合わせて通貨を供給でき、また、それを基軸に為替レートが決定される。政治と経済を分離する19世紀の自由主義を具現化した制度である。金の束縛に従っている限り、通貨発行は抑制される。しかし、戦争には莫大な費用が要る。第一次世界大戦期、参戦国は金本位を停止し、通貨を過剰に供給、インフレを招いている。第一次世界大戦まで欧米諸国が金本位制を維持できたのは大規模かつ長期間の戦争がなかったからである。20年代、もう戦争はごめんだと欧米諸国は膨張主義を抑制する傾向を示している。金本位制に復帰するのであれば、膨張主義をとることができない。

 旧平価で復帰して失敗したところに、1929年に始まる世界恐慌の影響を日本も被る。高橋是清蔵相の判断によって不況から脱却するが、その中には日銀に公債を引き受けさせた軍事費増大も含まれる。産業構造が膨張主義に依存しているため、この政策は景気浮揚に効果を上げる。ただ、34年以降軍事費抑制に舵を切るが、軍部を筆頭に関係者から猛反発を受ける。是清のスペンディング・ポリシーは大企業の体質を変えることなく実施されたのであり、止めれば、禁断症状が起きることは想像に難くない。膨張主義に依存しない産業構造への移行が真の課題であったにもかかわらず、その逆に向かうなら、行き着く先は目に見えている。第二次世界大戦後、GHQが民主化政策の一環として財閥解体を指示したのは当然だろう。

 軍産複合体が戦間期の経済の足を引っ張っている。暮らし向きがよくなるには景気が改善する必要がある。産業構造が膨張主義に依存しているため、それには軍拡を始めとする帝国主義的政策の促進を必須とする。これでは、日本人は「戦争」を選ぶ。

〈了〉

参照文献
加藤陽子、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』、朝日出版社、2009年
中川清、『現代の生活問題』、放送大学教育振興会、2007年
宮本又郎、『日本経済史』、放送大学教育振興会、2008年
森毅、『自由を生きる』、東京新聞出版局、1999年