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演説の使い回し

佐藤清文
Seibun Satow
2014年8月16日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


   「言葉は心の使い」。
 
 安倍晋三首相は、広島・長崎・沖縄で戦没者追悼演説に際し、過去のそれを使い回している。発覚のきっかけは今年の広島平和式典のスピーチである。昨年のそれと事実上3か所しか違いが見られない。「68年前」が「69年前」に変更、「蝉しぐれが今もしじまを破る」が土砂降りの天気だったために削除されている。他には、原爆症認定の取り組みなどこの一年間の政権の成果のPRが付け加えられている。

 使い回しはテキスト比較ソフトdiffによって明らかになっている。これは、元々、論文を共同執筆する際に、共著者による修正個所を見やすくするためのツールであるが、コピペを判定することにも応用されている。ウェブで無料公開されており、ブラウザ上で利用することができる。

 さらに調べていくと、安倍首相が演説の使い回しをしたのは今回が初めてではないことが発見される。14年8月8日付『日刊ゲンダイ』(電子版)の「長崎沖縄も…安倍首相『戦没者スピーチ』コピペの常習だった」によると、この怠惰で侮辱的な行為を第一次安倍政権の時から続けている。

 昨年の長崎の演説は広島のそれと瓜二つである。違いは地名と犠牲者数の二箇所だけだ。この使い回しは07年でも行われている。広島における「焦土から立ち上がり、『国際平和文化都市』として、大きく成長しました」を長崎では「歴史がいきづく観光都市」に変更した程度である。また、沖縄野での演説も13年と14年の相違点は、事実上、年月と政権の成果くらいである。

 この記事の後の8月9日の長崎でのスピーチでも、安倍首相は使い回しを行っている。発覚してなお続けるのだから、どこが悪いのかと開き直っていると受け取らざるを得ない。

 日本は唯一の被爆国としてヒロシマ・ナガサキの体験に基づき、核なき世界を国際社会に訴えるべき立場にある。また、本土は、民間人を巻き込む本格的地上戦を経験したのみならず、今日においてなお米軍基地の大半が集中している沖縄の思いに応えなければならない。しかも、第二次世界大戦は世界的には兵士以上に民間人の犠牲者が多い初の近代戦である。広島・長崎・沖縄はこの特徴の象徴でもある。

 その一方で、安倍首相は政権の宣伝を忘れない。この式典に求められている演説は追悼や平和への誓いであって、自慢ではない。社会性に乏しく、自己愛に耽溺している。

 国内外の情勢は毎年変わるものだ。その変化を踏まえた上で、広島・長崎・沖縄を現代的問題として取り組むのなら、新たな課題が見出される。また、同じ被爆地と言えども、広島と長崎は。地域的背景や被爆から現在に至るまでの経過などが異なり、固有の事情がある。演説でそれを語らねばならないのであって、使い回しなどあり得ない。

 演説の使い回しはその歴史的出来事に関する理解の粗雑さの現われである。それらには複雑な事柄だ。認識を深めるなら、ありきたりの言い回しに頼ることを拒み、自分なりの適切な表現を選ぶ。雑な把握しかなければ、新たな言い回しを見つける必要性を感じない。

 しかし、使い回しが明らかにしているのはそれだけではない。安倍首相自の自分自身に対する理解の粗っぽさも顕在化させている。その歴史的出来事に向き合い、自分の問題として考えるなら、それに対する感情や思考の細やかな動きを捉えようと言葉を探す。自身はそんなに粗雑にできていないと自分を見つめ、それを表わす言葉を発しようとする。自分を見つめていないから、安倍晋三は使い回しを意に介さない。

 安倍首相の演説の使い回しをたいしたことではないとか何が悪いのかと感じる人には同様の認識の傾向がある。歴史も自分も見つめていない。

 さまざまな思いを抱き、自分お問題として問い続けながら、沈黙する人も少なくない。その理由に「被爆者」や「沖縄」に一括りにされたくないという抗いがあるだろう。それを使うと、心がその言葉に縛られてしまう。細やかな自己省察が一言で大雑把に捉えられるのは耐えられない。

 政治指導者はこうした沈黙の人々の思いも汲んで、演説しなければならない。官僚や裁判官は演説をしない。政治家だけがそれを行う。その知見・知識・意識・信条はそこに込められる。ところが、安倍首相は悪びれることもなく、使い回し演説をする。戦没者追悼式典の演説を使い回す政治指導者は、世界広しと言えど、安倍晋三だけだろう。民主国家で辞職せずにいるのも日本くらいだ。近代史における恥と言わざるを得ない。人々は怒らなければならない。

 安倍晋三が首相になったというのは粗っぽい状況の表象である。自分たちの思いを気にもかけず、粗雑な理解が世間に蔓延してきたと沈黙を破る人も増えている。張本勲もその一人である。最愛の姉を原爆で亡くし、被爆手帳を持つ彼は体験を決して語ろうとしなかったが、現状に危機感を覚え、口を開いている。

 張本は、08年11月16日付『しんぶん赤旗』において、次のように思いを述べている。 
2年前、私はある新聞にこう書きました。
「8月6日と9日を暦から外してもらいたい」
 いまわしい記憶をよみがえせないためにという気持ちからです。そしたら、長崎の小学生の女の子から手紙をもらいました。
 「それは逆だと思います。広島と長崎を忘れないために、なくしてはいけないのでは」
 ハットしましてね。今年4月、長崎原爆資料館にいってみました。8月には広島平和記念資料館にもね。私はそれまでどちらにも行ったことがなかった。広島では近くまでいったけど、結局は入れなかった。怖くてね。でもその子に背中を押されて、やっと。
 核兵器を持つ国が、その力で自分の主張を通そうとするのは、やってはならないことです。しかも、核を持つ国が廃絶といっても説得力がない。だから日本は廃絶の先頭にたつべきです。
 人間の所業とは思えない核兵器の使用は、繰り返しちゃいかんのです。純粋無垢な子どもの命を奪う核兵器は、世の中から無くすべきなんですよ。
 すべてを語り得ぬことでも沈黙してはならない。体験は言葉を通じて共時的・通時的に共有されるからだ。そんな言葉が人の心を打つ。

〈了〉