エントランスへはここをクリック   

同時代的時点
小林多喜二の『蟹工船』


佐藤清文

Seibun Satow

初出:2008年11月15日

初出:『北の文学』(岩手日報社刊)第57号

無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「労働者諸君! 君らもハンマーを捨て、ペンをとれ! 聞こえているか!」車寅次郎




 半ば忘れられていた作品が突如としてリバイバルすることは必ずしも珍しくはない。それが表象していた時代や社会から離れ、新たな読み方が提起されて甦る。

 一九七〇年代に起きた横溝正史ブームはその一例である。それは「ディズカバー・ジャパン」の時代の雰囲気をうまくすくい上げた角川春樹による販売戦略の結果であり、斜陽と言われて久しかった日本映画をメディア・ミックスによって活気づけるという新しい試みも示されている。

 しかし、二〇〇八年における小林多喜二の『蟹工船』のベストセラー化はそれとはまったく異なっている。確かに、このプロレタリア文学の代表作は文学史には必ず登場する作品であるため、年間四〇〇〇部から五〇〇〇部は売れている。けれども、六月までの二〇〇八年上半期だけで三六万部弱が出荷されたというのは、やはり一つの流行現象と考えるほかない。

 これは、古典的なマルクス主義を同時代的理論として訴えていた青木雄二の『ナニワ金融道』のヒットとも違っている。きっかけは二〇〇八年一月九日付『毎日新聞』の文化面に掲載された高橋源一郎と雨宮処凛の対談である。彼らは、現代日本でのワーキングプアに陥っている若者たちの状況が『蟹工船』の世界に通じていると指摘する。

 インターネット・カフェや個室ビデオ店などで夜を明かさざるを得ない若年層が街に溢れ、寄せ場が日本全国に拡大している。プリミティヴな自由放任の資本主義から脱却して、福祉国家の資本主義に移行したと持っていたら、『蟹工船』を読むと、実際には、八〇年前とさほど変わらない状況に舞い戻っていることに気づかされる。

 しかも、この小説は、途方にくれ、泣き寝入りするのではなく、団結して戦うことを示唆している。記事を読んだJR上野駅構内の書店「BOOK EXPRSSディラ上野店」の店員で元フリーターの長谷川仁美が『蟹工船』の販売促進を仕掛けると、多いときで週に八〇冊も売れるヒットとなり、他の大型書店も追随し、ティッピング・ポイントを迎えている。

 『蟹工船』の流行は、明らかに、通常のリバイバルとは違っている。『獄門島』(一九四七―四八)や『八つ墓村』(一九四九―五一)、『犬神家の一族』(一九五〇―五一)があくまでも古典として読まれたのに対し、『蟹工船』は同時代的作品として受容されている。

 『蟹工船』は古典として新たな読まれ方によって復活したのではない。まるで新作であるかのように、八〇年近く前の話題作を若者たちが手にしている。これは極めて稀なケースであり、ちょっと思いあたらない。

 『蟹工船』は、一九二九年、『戦旗』誌五月号に前半、六月号に後半が掲載される予定だったが、六月号が発売禁止処分を受けている。しかし、七月には、新築地劇団によって帝国劇場で上演されている。九月に、戦旗社から単行本が刊行されるが、一万六〇〇〇部出たところで発禁となり、一一月に改訂版が出版される。

 この状況にもかかわらず、半年間で総発行部数は三万五〇〇〇部に及んでいる。売れ行きだけでなく、批評家からも賞賛をもって迎えられる。平林初之輔は、シカゴの祝肉工場での労働実態をすっぱ抜いた『ジャングル』のアプトン・シンクレアになぞらえて、『蟹工船』の多喜二を「日本のシンクレア」と評している。しかも、いわゆる左翼的な作家たちからの評価だけではない。八月、『読売新聞』紙上で、多くの作家がこれを一九二九年度上半期の最高傑作に推している。

 なお、多喜二は、『蟹工船』発表直後、小樽警察に召喚され、以下の記述について取調を受け、翌年六月、治安維持法違反で投獄された際、不敬罪の追起訴を受けている。

「俺達には、俺達しか、味方が無えんだな。始めて分った」
「帝国軍艦だなんて、大きな事を云ったって大金持の手先でねえか、国民の味方? おかしいや、糞喰らえだ!」

 水兵達は万一を考えて、三日船にいた。その間中、上官連は、毎晩サロンで、監督達と一緒に酔払っていた。――「そんなものさ」
 いくら漁夫達でも、今度という今度こそ、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く意外にも!)どういう風に、お互が繋がり合っているか、ということが身をもって知らされた。

 毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹罐詰の「献上品」を作ることになっていた。然し「乱暴にも」何時でも、別に斎戒沐浴して作るわけでもなかった。その度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思って来た。――だが、今度は異ってしまっていた。

「俺達の本当の血と肉を搾り上げて作るものだ。フン、さぞうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起さねばいいさ」

 皆そんな気持で作った。

「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」

 「献上品」に「石ころでも入れておけ!」とは何事かというわけだ。

 この話題作のプロットは次の通りである。基地の函館から、蟹工船「博光丸」が帝国海軍の護衛に守られて出漁する。食いっぱぐれた土方や坑夫、百姓、漁師、人夫、学生らが斡旋屋の口車に乗せられて季節労働者として乗船しているが、お国のためという名目の下、劣悪の労働環境の中で彼らはこき使われている。

 当初はバラバラだった労働者もある漁夫の病死をきっかけとして、階級意識に目覚め、次第に団結していく。漁夫のサボタージュを発端として、労働者は全船でストライキに入る。一旦は成功したかに思われたが、経営者側が海軍に要請し、駆けつけた駆逐艦から乗りこんだ着剣の水兵によって鎮圧される。駆逐艦が見えたときには助け舟がきたと世と込んだ労働者たちだったけれども、軍隊は所詮自分たちから搾取する側の手先に過ぎないと気づき、再度、蟹工船内で階級闘争を挑むことになる。

 舞台となった蟹工船は、缶詰作業の設備を備えた工船を母船とし、備付け操業船の川崎船で捕った蟹をそこで缶詰加工する移動工場である。川崎船は母船の舷に吊るされ、漁場に到着すると、発動機船に曳かれて投網する。一二、三トン程度の小型漁船で、通常、一母船に八から一〇隻がつく。北洋漁業は、当時、ソ連との間で漁業権をめぐって対立しながら、国策企業として成長している。

 蟹工船は、ソ連に睨みをきかせるため、海軍が漁場まで護衛している。一九二七年のデータでは、四七万トンの北洋漁業関連の漁船が出漁し、約二万人の漁業労働者が従事しており、その内、「監獄部屋」と揶揄された蟹工船は四〇〇〇人超である。

 漁場となる海域は激しい嵐が頻繁に吹き荒れたり、霧が発生して視界が悪くなったりするなど天候が目まぐるしく変わるだけでなく、夏でも気温が一〇℃前後までしか上がらない。

 こうした気候条件の下での厳しい労働が長期間に及び、おまけに船内では船長や漁労長、監督官による労働者への暴行・虐待が頻発したため、待遇改善を要求する労働争議も少なからず行われている。また、操業を続けるのは危険だと推測できる状況でも強行されることも多く、漁船の遭難も珍しくなく、数百人規模の犠牲者が出る事故もしばしば起きている。

 プロレタリア文学は、従来、読者受けを狙って明るさが強調されていたが、プロットからもわかる通り、『蟹工船』は非常に暗い作品である。多喜二もそれは自覚している。彼は、一九二九年三月三一日付蔵原惟人宛書簡において、「プロ芸術大衆化のために、色々形式上の努力がなされている。それは重大な努力である。然し、実際に於て、それが結局『インテルゲンチャ風の』──小手先だけの『気のきいた』ものでしかない点がある。現実に労働している大衆を心底から揺り動かすだけの力がない。

 そんなインテル性に、労働者は無意識に反揆する。自分は、(イ)作品が何より圧倒的に、労働者的であること、(ロ)その強力な持ち込み、に、大衆化の原則を見出している。更に、プロ文学の『明るさ』『テンポの速さ』など、良き意図のものが、その良き意図にも不拘、モダン・ボーイ式であり過ぎないだろうか。

 この作には、モ・ボ式の『明るさ』も『テンポの軽快さ』もない、又その意味での小手先の、如何にも気のきいた処もない。何処まで行けているか知らないが、労働者的であることにつとめた。(『戦旗』には、ことにかけていはしないだろうか。)」と言っている。

 確かに、多喜二は視覚的・聴覚的な表現を次のように駆使し、非常に印象に残る文体でつづっている。

「おい地獄さ行ぐんだで!」

 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱《かか》え込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。

 赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖《かたそで》をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接に響いてきた。

 積取人夫は蟹工船の漁夫と似ていた。監視付きの小樽《おたる》の下宿屋にゴロゴロしていると、樺太や北海道の奥地へ船で引きずられて行く。足を「一寸」すべらすと、ゴンゴンゴンとうなりながら、地響をたてて転落してくる角材の下になって、南部センベイよりも薄くされた。ガラガラとウインチで船に積まれて行く、水で皮がペロペロになっている材木に、拍子を食って、一なぐりされると、頭のつぶれた人間は、蚤の子よりも軽く、海の中へたたき込まれた。

 ――内地では、何時までも、黙って「殺されていない」労働者が一かたまりに固って、資本家へ反抗している。然し「殖民地」の労働者は、そういう事情から完全に「遮断」されていた。

 苦しくて、苦しくてたまらない。然し転んで歩けば歩く程、雪ダルマのように苦しみを身体に背負い込んだ。
「どうなるかな……?」

「殺されるのさ、分ってるべよ」

「…………」何か云いたげな、然しグイとつまったまま、皆だまった。

「こ、こ、殺される前に、こっちから殺してやるんだ」どもりがブッきら棒に投げつけた。

 トブーン、ドブーンとゆるく腹に波が当っている。上甲板の方で、何処かのパイプからスティムがもれているらしく、シー、シ――ン、シ――ンという鉄瓶《てつびん》のたぎるような、柔かい音が絶えずしていた。

 こうした大胆な表現の独創性は認められると同時に、多喜二は既存の文学を大いに援用している。『蟹工船』は、周知の通り、葉山嘉樹の『海に生くる人々』を本歌取りとし、多くの論者が指摘しているように、そのわずかな相違点が決定的に重要である。



 葉山嘉樹の『海に生くる人々』はプロレタリア文学を代表する作品であるだけではない。初めて文学的価値も認められたプロレタリア文学である。葉山はこれを獄中で執筆し、一九二六年一〇月、改造社より単行本として刊行すると、それは当時の文学界に衝撃をもたらしている。

 葉山は作家活動に入る前に数多くの職に就いている。船員もその一つである。この作品にはそうした彼の経験が生きている。葉山は、いまだ組織を持たない海の労働者たちを顔のある存在としてそれぞれ描きわけ、彼らが階級意識に目覚めていく過程を生き生きとしたタッチで記している。

 葉山は『海に生くる人々』を次のような文体で記述している。

 室蘭港が奥深く広く入り込んだ、その太平洋への湾口に、大黒島が栓をしている。雪は、北海道の全土をおおうて地面から、雲までの厚さで横に降りまくった。

 汽船万寿丸は、その腹の中へ三千頓の石炭を詰め込んで、風雪の中を横浜へと進んだ。船は今大黒島をかわろうとしている。その島のかなたには大きな浪が打っている。万寿丸はデッキまで沈んだその船体を、太平洋の怒濤の中へこわごわのぞけて見た。そして思い切って、乗り出したのであった。彼女がその臨月のからだで走れる限りの速力が、ブリッジからエンジンへ命じられた。

 冬期における北海航路の天候は、いつでも非常に険悪であった。安全な航海、愉快な航海は冬期においては北部海岸では不可能なことであった。

 藤原は、そのいつもの、無口な、無感情な、石のような性格から、一足飛びに、情熱的な、鉄火のような、雄弁家に変わって、その身の上を波田に向かって語り初めた。

「僕が身の上を、だれかに聞いてもらおうなんて野心を起こしたのは、全く詰まらない感傷主義からだ。こんなことは、話し手も、聞き手も、その話のあとで、きっと妙なさびしい気に落ち入るものだ。そして、話し手は、『こんなことを話すんじゃなかった。おれはなんてくだらない、泣き言屋だろう』と思うし、一方では、『ああ、あんなに興奮して、あの男に話さすんじゃなかった。

 この話はあとあとの生活の間に何かの、悪い障害になるかしれない』と、思うに決まってる。ところがそんな結果をもたらすような話だけが、何かのはずみで、どうしても話さずにはいられない衝動を人に与えるものなんだ。あとで何でもないような話は、何かのはずみに、だれかを駆り立てて、話さずには置かないというような、興奮や衝動を与えはしないんだ。僕は、今日、僕が本をむやみに読んだという話から、僕は我慢できなくなったんだ。

 それほど、僕は『本を読んだ』ことが、僕にばかげた気を与えたらしいんだ。『本を読んだ』ことは、僕が起きるのにも、眠るのにも、ものをいうのにも『本を読んでる』ような感じを人に与えるらしい。つまり僕は本の読んでならない乾燥したものばかりを読んだんだ。(略)

 この『海に生くる人々』は林房雄や中野重治といった左翼に属する文学者のみならず、宇野浩二や千葉亀雄をも魅了する。それどころか、プロレタリア文学からおよそほど遠い横光利一や川端康成らが同人に名を連ねる「新感覚派」の雑誌『文芸時代』から葉山に執筆依頼が舞いこんだほどである。若き小林多喜二もすっかり惹かれ、『葉山嘉樹』の中で彼を文学上の「自分の親父」と敬愛している。

 社会主義思想に立脚した文学作品ならびに出口の見当たらない貧困や劣悪な労働環境などの社会問題を扱った小説は、プロレタリア文学登場以前から発表されている。木下尚江の社会主義小説は前者の代表である。他方、後者としては、一九一〇年代後半に出現した宮島資夫の『坑夫』(一九一六)や宮地嘉六の『放浪者富蔵』(一九二〇)など現場での労働経験を記した「大正労働文学」が挙げられる。

 しかし、ロシア革命の影響により、マルクス主義に基き、搾取される労働者階級の解放を目標とした体制転覆をテーマとするリアリズムに即した作品が試みられるようになっている。

 「革命」を目指している以上、本来は「革命文学」とすべきであるが、検閲を通るために、「プロレタリア」が使われるようになり、この呼称が定着する。小牧近江と金子洋文、今野賢三によって一九二一年に創刊された『種蒔く人』がプロレタリア文学を本格的に発信し始める。関東大震災直後の一九二三年にこの雑誌は休刊したけれども、二四年、『文芸戦線』が発刊される。

 当初は労働者による自然発生的な連帯を描いていたが、青野李吉が一九二六年に『自然生長と目的意識』において社会変革という目的意識を持たなければならないと説いて以降、政治目的に奉仕する性格が顕著になっていく。もっとも、ご多分に漏れず、革命運動は理念に固執するため、つねに路線対立がついてまわり、プロレタリア文学運動も離合集散を繰り返している。

 「全日本無産者芸術連盟((Nippona Artista Proleta Federacio))、通商「ナップ(NAPF)」が二八年に『戦旗』を創刊する。小林多喜二がこの『戦旗』に作品を発表し、その活動のおかげもあり、ナップが優勢となる。

 ただし、プロレタリア文学を主に読んでいたのは、労働者階級と言うよりも、新たに誕生した「大衆」である。彼らの代表が都市に住むサラリーマンである。一九二〇年代は、日本でも、急速な産業化・都市化に伴い、大衆文化が花開く。一九二二年二月に創刊された『旬刊朝日』が四月から『週刊朝日』へとリニューアルし、同時に『サンデー毎日』も発刊され、週刊誌時代が到来する。

 二三年の関東大震災もよって多くの書籍や新聞、雑誌が焼失したこともあり、人々が活字に飢え、空前の出版ブームが起こる。二四年一月、『大阪毎日新聞』と『大阪朝日新聞』が発行部数公称一〇〇万部を突破し、二五年二月、大日本雄弁会講談社が娯楽誌『キング』を始めると、第一号が七〇万部、第二号では一〇〇万部という空前の売れ行きに到達する。

 二六年一二月、改造社が『現代日本文学全集』全六二巻・別巻一を一冊一円の廉価で刊行を開始する。この成功に刺激を受けた他社も追随し、各種の文学全集を発行して、円本ブームが湧き上がる。さらに、二七年七月、岩波書店は、ドイツのレクラム文庫を参考に、古今東西の名著を収録した岩波文庫をスタートさせる。

 他にも、映画は大衆の娯楽の地位を獲得し、企業もキャッチコピーを入れた色鮮やかなポスターを宣伝に採用、加えて、二五年三月二二日、「JOAK」のコールサインと共にラジオ放送が始まる。文学はこうした大衆の目・大衆の耳を意識しなければならず、プロレタリア文学も例外ではない。

 先の引用が告げている通り、多喜二は大衆の時代を最も理解していたプロレタリア文学者である。しかし、『蟹工船』は『海に生くる人々』なくしては生まれ得ない。いずれの作品も凍てつく冬の北洋で海上労働者が能化に苦しめられる場面から始まっている。また、救難信号を発する船を無視して、通り過ぎる点も共通している。

 さらに、怪我をしたボーイ長と病死した漁師という違いはあるものの、遺体がカムチャツカの冷たい海に葬られるのを目の当たりにして、労働者は明日はわが身だと気がつき、団結して立ち上がり、一旦は勝利したかと思われたけれども、闘争の指導者が官憲に捕らえられるのも同じである。どちらの作品でも、苛酷な労働環境で酷使される労働者たちが自然発生的にて闘争を始めながら、次第に階級意識を自覚していく。冒頭から結末に至るまで両者は非常に似通い、リメークと言っても過言ではない。



 けれども、『海に生きる人々』と『蟹工船』の間には大きく二つの相違点があり、それらによって両者はまったく別の作品と見なし得る。
 第一に、『蟹工船』には特定の主人公がいない。これは意識的な方法である。多喜二は、一九二九年三月三一日付蔵原惟人宛書簡の中で、「この作品には『主人公』と云うものがない。『銘々伝式』の主人公、人物もない。労働の『集団』が、主人公になっている。

 その意味で、『一九二八・三・一五』よりも一歩前進していると思っている。短篇で、集団を書いたものはありますが、この位の長さのものでは恐らく始めてゞあり、色々な点で冒険であり、困難があった。とにかく、『集団』を描くことは、プロレタリア文学の開拓しなければならない、道であると思っています。

 その一つの捨石にこの作がなれゝば、幸福です。(略)で、当然、この作では『一九二八・三・一五』などで試みたような、各個人の性格、心理が全然なくなっている。細々しい個人の性格、心理の描写が、プロレタリア文学からはだんく無くなりかけている。

 (略)然し、そのためによくある片輪な、それから退屈さを出さないために、考顧した筈である」と書いている。葉山は、先の引用が示している通り、登場する労働者の個性を際立たせ、顔のある個人として扱っている。他方、多喜二は性格・心理の描写を排し、個々の労働者ではなく、集団として彼らを描いている。

 その意味で、『海に生くる人々』が労働者の文学であるのに対し、『蟹工船』は労働者階級の文学である。この方法はソビエト革命文学の傑作アレクサンドル・セラフィモーヴィチの『鉄の流れ』(一九二四)やフョードル・ヴァシリーヴィチ・グラトコフの『セメント』(一九二五)からの影響であろう。

 顔のない集団として海上労働者を描いたのは、『蟹工船』が初めてではない。有島武郎は、『或る女』(一九一九)において、船で働く労働者を暴力的で、アナーキー、非道徳的、卑猥なモッブとして次のように描いている。

 葉子はその老人に引きずられてでも行くようにどんどん水夫部屋の中に降りて行った。薄暗い腐敗した空気は蒸れ上るように人を襲って、陰の中にうようよと蠢く群れの中からは太く錆びた声が投げかわされた。闇に慣れた水夫達の眼は矢庭に葉子の姿を引っ掴まえたらしい。

 見る見る一種の昂奮が部屋の隅々にまで充ち溢れて、それが奇怪な罵りの声となって物凄く葉子に逼った。たぶたぶのズボン一つで、筋くれ立った厚みのある毛胸に一糸もつけぬ大男は、やおら人中から立ち上ると、ずかずか葉子に突きあたらんばかりにすれ違って、すれ違いざまに葉子の顔を孔の開くほど睨みつけて、聞くにたえない雑言を高々と罵って、自分の群れを笑わした。

 しかし、読者は主人公の葉子に感情移入できても、この水夫たちには顔のない集団として共感できない。ところが、『蟹工船』では、読み手は顔のない労働者たちの肩を持ちたくなる。読者に登場人物へ感情移入させるには、通常、性格や心理を描写し、明確な顔のある存在とするものだが、多喜二はまったく逆の手法をとる。

 『蟹工船』の画期性は労働者を顔のない集団として描いたことではない。それにもかかわらず、その集団に感情移入できる点にある。群像劇では、特定の主人公を置かない代わりに、場を主体とする。場の持つ強制力が登場人物を動かす。

 『海に生くる人々』と『蟹工船』のタイトルの違いが示している通り、多喜二は蟹工船という閉ざされた船内を主体とすることで、集団としての労働者に感情移入できるように描くのに成功している。読み進むに連れ、労働者は狭い船内で次第に圧縮され、読者はそれに息苦しさを覚える。しかし、彼らが立ち上がることで、急速に空間が開放され、読み手の圧迫感も激減する。

 この圧縮=開放は、ボイルの法則ではないが、閉ざされた空間でこそ効果的である。労働者だけではない。経営者側も、軍隊もすべては蟹工船の圧縮=開放をめぐって行動している。

 蟹工船によって表象される資本主義は人間を顔のない集団としてしまう。労働者を虐待する監督官も例外ではない。「それから監督や雑夫長等が、漁期中にストライキの如き不祥事を惹起させ、製品高に多大の影響を与えたという理由のもとに、会社があの忠実な犬を『無慈悲』に涙銭一文くれず、(漁夫達よりも惨めに!)首を切ってしまったということ。

 面白いことは、『あ――あ、口惜しかった! 俺ア今まで、畜生、だまされていた!』と、あの監督が叫んだということ」(『蟹工船』)。『蟹工船』は資本主義においてすべては顔のない集団として生きざるを得ないことを強く意識した初めての作品である

 第二に、『蟹工船』は国内治安を担当する警察ではなく、国防組織である軍が労働者の敵として登場する。『海に生くる人々』では水上警察のランチがやってきて労働者たちを取り締まるのに対し、『蟹工船』においては海軍の駆逐艦からサーベルを刺した軍人が船に乗りこんでくる。

 多喜二は、一九二九年三月三一日付蔵原惟人宛書簡の中で、「資本主義は未開地、植民地にどんな『無慈悲な』形態をとって侵入し、原始的な『搾取』を続け、官憲と軍隊を『門番』『見張番』『用心棒』にしながら、飽くことのない虐使をし、そして、如何に、急激に資本主義的仕事をするか、ということ。

 (略)プロレタリアは、帝国主義的戦争に、絶対反対しなければならない、と云う。然し、どういうワケでそうであるのか、分っている『労働者』は日本のうちに何人いるか。然し、今これを知らなければならない。

 緊急なことだ。たゞ単に軍隊内の身分的な虐使を描いたゞけでは人道主義的な憤怒しか起すことが出来ない。その背後にあって、軍隊自身を動かす、帝国主義の機構、帝国主義戦争の経済的な根拠、にふれることが出来ない。帝国軍隊──財閥──国際関係──労働者。この三つが、全体的に見られなければならない。それには蟹工船は最もいゝ舞台だった」と記している。帝国主義への闘争として蟹工船を格好の場として選んだというわけだ。

 しかし、蟹工船から帝国主義を小説上で扱うのは少々無理がある。と言うのも、ここで加工される蟹缶は主に輸出用であり、この劣悪な労働環境の放置は貿易収支の改善のためにはそれもやむなしとする政財界の意向が見え隠れしているからである。

 当時の日本経済の最大の課題は、金輸出解禁論争である。第一次世界大戦中の一九一七年九月、日本はアメリカに追随して金輸出を事実上禁止し、金本位制を停止する。それは固定相場制から変動相場制への移行を意味する。金本位制実施期において、日本の金平価は一〇〇円=四九・八一六ドルに固定されていたが、一九二四年には一〇〇円=三八ドルにまで下落している。

 一九一九年六月に、アメリカが金輸出を解禁し、他国も相次いで金本位制に復帰したけれども、日本は国内の混乱を理由にそれを引き伸ばし続ける。第一次世界大戦中、欧米諸国の輸出が落ちこんだため、その特需により無数の成金が生まれ、日本は未曾有鵜の繁栄を迎えたが、戦争終決に伴い、工業生産力が復活すると、急速に不況に陥ってしまう。

 国際競争力の想定的な下落により、日本は貿易収支の赤字に苦しむことになる。政財界は、金輸出を解禁し、日本経済を厳しい国際競争にさらさせて、企業の整理・合理化を断行、真の実力をつけさせるべきだと共通して考えている。

 ただ、金解禁を旧平価でするか、新平価でするかで意見が割れている。石橋湛山のような自由主義者を別にすれば、当時の政府や財界人は円価格の低下を国辱と恥じ、旧平価での金本位制への復帰を悲願とする。何としても為替レートを引き上げるためには、輸出を増やすことが至上命題である。蟹缶は貿易収支の改善に貢献できる品目の一つであり、その生産過程での労働環境がなおざりにされても、国家目標の達成のためにはこうした犠牲もやむを得ない。それを守るために、軍隊が動員されたとしても、不思議なことではない。

 労働争議自体は何も輸出関連産業に限ったものではない。しかし、その要求は労働環境の改善だけではなく、多岐に亘っている。二〇年代を代表する労働争議に、二二年から二八年にかけて頻発した「野田醤油労働争議」が挙げられる。元々は、製品封入に使用する樽の加工に従事する樽工一七〇人が樽棟梁によるピンはねをなくせと要求したのが発端である。

 次第に、その刎銭問題以外にも、賃金体系や福利設備、待遇改善などにも争点が拡大し、全工員一四〇〇名が参加する大規模なストライキに発展している。特に、二七年の争議では、会社に雇われた右翼と組合員の間で激しい暴力的抗争が繰り広げられ、殺人さえ行われたと言われている。

 そもそも北洋漁業は帝国主義政策によって成長したのではなく、むしろ、衰退している。一九〇五年、日露戦争後に締結されたポーツマス条約によって、ロシア領の沿岸地域における日本の漁業権が承認される。一九〇七年には、日露漁業協約が結ばれ、カムチャツカ半島や沿海州の日本海沿岸での北洋漁業が拡大する。

 急増する人口への食糧供給を背景に、この海域での水揚げ高は急騰し、船団の各母港は活況を呈する。第一次世界大戦が勃発すると、輸出用の鮭や鱒の缶詰の需要が高まり、北洋漁業は重要な外貨獲得産業として成長しはじめる。一九一八年、日本は各国と共に、ロシア革命後の混乱に乗じて、シベリアへ軍隊を派遣する、二二年のソ連成立後になっても、日本は国交を正常化しなかったが、旧漁業条約に基づいて漁船の操業を続けている。二一年に、『蟹工船』で描かれるカムチャツカ沖の母船式蟹漁が始まる。二七年に最盛期を迎え、輸出用の蟹缶は実に一〇〇万箱を生産している。各国がシベリアから兵を引いていったにもかかわらず、日本軍は進駐を続けたけれども、国内外からの非難に応じ、ようやく二四年に撤収を始める。二五年の国交正常化の翌年には、日ソ漁業条約が締結され、北洋漁業は再び国際法的根拠を獲得する。蟹の漁場は比較的沿岸に近いため、日ソの領海問題は非常にこじれ、漁業交渉が長引く一因となっている。このソ連との領海確定を帝国主義と絡めるのは当然ながら飛躍がある。けれども、一九三〇年代後半に、日中戦争が泥沼化すると、北洋漁業のための船舶や燃料が軍事優先となり、出漁も停止する。多喜二の見立てとは反対に、帝国主義戦争が蟹工船の操業を途絶えさせている。彼は考察のつめが甘いと言わざるを得ない。

 国際競争力を優先するための人件費抑制がワーキングプア問題を招いた一因だとすれば、『蟹工船』は多喜二の意図とは別に、そこに描かれた状況は同時代的な問題を感じさせる。『蟹工船』の同時代性は、国際競争力の強化という大義の下では、労働者の待遇の悪化が政財界から黙認されるという実態である。

 企業が生き残るためには、国際市場で優位に立たなければならない。自国の企業が国際市場を席巻すれば、政府は経済成長と生活水準の維持・拡充が期待できると考える。一九二〇年代は福祉国家概念はまだ政策として反映されてはいないが、自国の産業に国際競争力をつけることの重要性は当時も今も変わらない。

 国内市場と国際市場では独占をめぐる政治の対応が異なる。国内市場において、自然独占は市場の失敗の一例である。これは新規参入が発生せず、自然と独占に陥ってしまうことであり、電力事業などのように、初期投資が莫大だったり、特殊なノウハウが必要だったりする産業で生じる。自然独占は選択の自由という資本主義の前提に反しているから、それを放置することはその体制の正当性を脅かす。けれども、国際市場では自然独占は違法とはされていない。

 国家より上位にあり、それを取り締まる機構がない現状では、それを市場の失敗と認定し、処罰する術がないからである。こうしたトマス・ホッブズ流の自然状態では、自国の企業が自然独占を獲得できるように、国家は積極的に政策を講じなければならない。国際的な企業間の競争は、実は、国家間の代理戦争である。

 国際競争力強化のために、政財界が一体となって、労働者の待遇を悪化させる危険性は今後も起こり得る。『蟹工船』がこれから読まれていく可能性があるとすれば、それを描いているという点である。同時代的時点としていつも始まるとしたら、『蟹工船』のみならず、社会にとってもそのことは不本意である。



 文壇からも評価の高い『蟹工船』であるが、発表当初からいくつかの欠点も指摘されている。後半が急に駆け足になっているとか、蔵原惟人の『プロレタリヤ・レアリズムへの道』(一九二八)に忠実なあまり図式的すぎるとかいった批判が多くの論者からなされている。しかし、最も決定的なのは、『「蟹工船」の勝利』で勝本清一郎などが論じるように、蟹工船を舞台にしながら、蟹の捕獲や缶詰の生産工程、人員の具体的配置などに触れられていない点である。
 多喜二は、一九二九年三月三一日付蔵原惟人宛書簡において、その意図を次のように述べている。

 四、この作は『蟹工船』という、特殊な一つの労働形態を取扱っている、が、蟹工船とは、どんなものか、ということを一生ケン命に書いたものではない。
 A これは植民地、未開地に於ける搾取の典型的なものであるということ。B 東京、大阪等の大工業地を除けば、まだまだ日本の労働者の現状に、その類例が八〇パアセントにあるということである。C 更に、色々な国際的関係、軍事関係、経済関係が透き通るような鮮明さで見得る便宜があったからである。
 五、この作では未組織な労働者を取扱っている。──作者の把握がルムペンにおち入ることなく、描き出すことは、未組織労働者の多い日本に於て、又大学生式『前衛小説』の多いとき、一つの意義がないだろうか。
 六、労働者を未組織にさせて置こうとしながら、資本主義は皮肉にも、かえってそれを(自然発生的にも)組織させるということ。

 しかし、これでは作業内容や手順の記述を省いている理由としては説得力に欠く。散文フィクションは、具体的な記述を通じて、対象を他ならぬものとする。蟹工船が真の主体であるなら、なおのこと細部に亘って解剖学的とも言うべき説明をする必要がある。正直、文章のつめの甘さを理念で補おうとしている印象がある。平林は『蟹工船』をシンクレアの『ジャングル』に類比している。しかし、『ジャングル』は、『蟹工船』と違い、食肉加工の工程が詳細に記されている。それが『ジャングル』のような歴史を変えることに『蟹工船』がならなかった要因である。

 二〇世紀初頭のアメリカでは、政府は企業活動に介入すべきではないという信念が強くあり、そのため、絶望的に貧富の格差は拡大し、全米中に不正が横行する。しかし、誰もが現状に諦めを感じていたわけではない。義憤にかられたジャーナリストや作家は政治腐敗、大企業の横暴、児童労働、貧民街の実態売春、移民問題、人種差別をペンで告発し、社会の改良を訴えている。彼らの活躍の場が『マクルーアーズ・マガジン』を代表とするパルプ・マガジンである。

 それは安価な三文雑誌で、教育がない人にも読めるように、優しい文体で記されている。当時、急増する都市の人口を背景に、新聞や雑誌の出版ブームが起きている。発行人たちは、渦巻く不正に対する憤りから社会改良の機運が高まっているのを感じとり、これを前面に出せば、売れると考える。多額の調査費用を作家に提供し、書き手もセンセーショナルな記事を発表し続けていく。

 一九〇六 年,セオドア・ルーズベルト合衆国大統領が政財界の腐敗を暴き立てる彼らを「マックレーカーズ(Muckrakers)」と揶揄する。それはジョン・バンヤンの寓意物語『天路歴程』に登場する人物で,肥やしばかりを仰き続けて天上の神の恩寵に気づかぬ「肥やし熊手を持った男(The man with a muckrake)」に由来し、下ばかり見て、あら捜しをする連中という意味である。

 しかし、その偉大な大統領もショックを受けるマックレーカーズによる作品が発表されます。それがアプトン・シンクレアの『ジャングル』である。この小説は社会に衝撃を与え、アメリカの歴史を変える。

 舞台はシカゴの食肉工場で、労働者の多くは後発移民のリトアニア人である。その労働環境たるや、反吐をもよおすほど不潔である。労働者が肉を煮る大鍋に落ちたのに、そのまま処理され、人肉が市場に出回ってしまった、腐っているとクレームがついて回収されたハムやソーセージに薬品を注入して再出荷した、倉庫内の製品の上にネズミの糞が大量に溜まっていた等々の記述が作品を埋め尽くしている。

 これはルポルタージュではなかったが、丹念な調査に基づいており、決して誇張やでまかせではない、シンクレアは、このような労働環境で働かざるを得ない移民に同情を寄せ、労働者の待遇改善を訴える目的でこの小説を発表している。

 しかし、事態は彼の思いもよらぬ方向へ急速に進んでいく。『ジャングル』を読んだアメリカの人々は驚き、こんなものを食べさせられていたのかと怒りを爆発させる。ソーセージはホットドックには欠かせないが、それがとても口入れるものとしてはつくられていない。

 食肉産業と当局へ抗議や非難が殺到し、社会改良に熱心だったルーズベルトも怒り心頭で、食の不安に対し断固たる態度で臨む決意を表わす、怒り狂った大統領と世論に押された議会は食肉検査法と純粋薬品製造法を成立させる。

 前者は精肉業者への衛生規制ならびに精肉工場への連邦政府による検査の義務付けの法律であり、後者は粗悪および健康被害のある食品と薬品の製造・輸送・販売の禁止を定めている。これは『ジャングル』発表からわずか半年後の出来事である。結果として、工場の労働環境も改善されている。

 『蟹工船』ではこうした反響は起きていない。読者にとって、食の偽装は自身が直接的な被害者となるが、劣悪な労働環境は自らとは縁遠く、自分の問題として認識しにくい。

 これは現在でも同様である。食の不安には世論も政府も反応が早いけれども、非正規雇用の問題に関しては鈍い。
 工程が詳細に機銃され、そこに非衛生的な点があったとしたら、缶詰輸入国で問題となり改善要求がなされ、結果として、労働者の待遇のよくなったかもしれない。

 何しろ、この蟹缶の主要輸出先はアメリカである。しかし、多喜二にとって重要なのは、階級意識を持った労働者が連帯して帝国主義に戦いを挑む姿である。世論を喚起し、労働者の待遇を改善することは眼中にない。労働者が自ら立ち上がることが理想である。けれども、現状を訴え、不正を告発し、鼓舞するだけでは人々はそうそう動いてくれない。

 作品世界が読者の暮らしと決して無縁ではないと伝わるならば、日常の些事に追われる人々でさえ行動を起こす。ロシア革命の際に民衆を惹きつけたスローガンは「平和、自由、パン」だったし、一九一八年に富山の女性たちから始まった米騒動を思い起こすだけでも、それは明らかだろう。文学的に優れている作品が人々を行動に促すわけではない。

 事実、『ジャングル』は、文学的価値の面では、大恐慌時代の労働者の人生を描いたジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』(一九三九)とは比較すべくもない。プロレタリア文学は、政治目的に奉仕しなければならないという窮屈さが文学的な進展を阻害したのではない。政治が暮らしだということを見逃している点に限界がある。細部のつめの甘さもそれに起因している。

 しかし、今、『蟹工船』は社会を変えつつある。『蟹工船』が同時代的な作品として読まれていること自体によって、人々は自分たちの生きている社会がこんなにも荒んでいるのかを切実に思い、衝撃を受けている。暮らし向きは一向によくならないが、『蟹工船』が流行するような社会はいくらなんでもないだろうと世論は政治に声をあげている。同じ半年間で、二〇〇八年は一九二九年の一〇倍以上の『蟹工船』が売れている。

 と言うよりも、この作品が公表されて以来、短期間にこんなに刷られたことはない。しかも、かつて『蟹工船』を読んでいたのは大衆であり、彼らは円本を購入する経済的ゆとりを持っている。

 一円は今日の貨幣価値に換算すると、二〇〇〇円程度である。他方、新潮文庫の『蟹工船・党生活者』を四二〇円支払って手にしているのはワーキングプアの若者たちである。彼らは毎月二〇〇〇円以上も書籍購入費に割く余裕はない。その意味で、現代社会は深刻な状況にあることは間違いない。それは、おそらく、小林多喜二も想定していなかった事態であろう。

「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」
 それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、と深く入り込んで行った。――「今に見ろ!」

 然し「今に見ろ」を百遍繰りかえして、それが何になるか。――ストライキが惨めに敗れてから、仕事は「畜生、思い知ったか」とばかりに、過酷になった。それは今までの過酷にもう一つ更に加えられた監督の復仇的な過酷さだった。限度というものの一番極端を越えていた。――今ではもう仕事は堪え難いところまで行っていた。

「――間違っていた。ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、俺達の急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。俺達全部は、全部が一緒になったという風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てなかったろう。まさか、俺達全部を引き渡してしまうなんて事、出来ないからな。仕事が、出来なくなるもの」

「そうだな」

「そうだよ。今度こそ、このまま仕事していたんじゃ、俺達本当に殺されるよ。犠牲者を出さないように全部で、一緒にサボルことだ。この前と同じ手で。吃りが云ったでないか、何より力を合わせることだって。それに力を合わせたらどんなことが出来たか、ということも分っている筈だ」

「それでも若し駆逐艦を呼んだら、皆で――この時こそ力を合わせて、一人も残らず引渡されよう! その方がかえって助かるんだ」

「んかも知らない。然し考えてみれば、そんなことになったら、監督が第一周章てるよ、会社の手前。代りを函館から取り寄せるのには遅すぎるし、出来高だって問題にならない程少ないし。……うまくやったら、これア案外大丈夫だど」

「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生! ッて気でいる」

「本当のことを云えば、そんな先きの成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生きるか、だからな」

「ん、もう一回だ!」

 そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!
〈了〉
参考文献
小林多喜二、『蟹工船・党生活者』、新潮文庫、一九五四年
『小林多喜二全集』全七巻、新日本出版社、一九九二年
『日本文学全集36』、新潮社、一九六五年
『現代日本文學大系55』、筑摩書房、一九六九年
『日本現代文学全集70』、講談社、一九六九年
『日本の文学39』、中央公論社、一九七〇年
『現代日本文学全集63』、筑摩書房、一九七三年
『日本文学全集43』、集英社、一九七四年
『世界の文学95』、朝日新聞社、二〇〇一年
『小林多喜二読本』、三一新書、一九五八年
『私たちはいかに蟹工船を読んだか』、遊行社、二〇〇八年

阿部誠文、『小林多喜二』、はるひろ社、一九七七年
荒俣宏、『プロレタリア文学はものすごい』、平凡社新書、二〇〇〇年
有島武郎、『或る女』、旺文社文庫、一九七八年
池田寿夫、『日本プロレタリア文学運動の再認識』、三一書房、一九七一年
小田切進、『現代日本文芸総覧上巻』、明治文献資料刊行会、一九九二年
小田切秀雄、『小林多喜二』、有信堂高文社、一九六九年
蔵原惟人、『小林多喜二・宮本百合子論』、新日本新書、一九九〇年
手塚英孝、『小林多喜二』上下、新日本新書、一九八三―八五年
野村達郎、『新書アメリカ合衆国史2』、講談社現代新書、一九八九年
不破哲三、『小林多喜二時代への挑戦』、新日本出版社、二〇〇八年
増田弘、『牛橋湛山』、中公文庫、一九九五年
真山仁他、『私のこだわり人物伝 二〇〇八年六─七月』、日本放送協会、二〇〇八年
グラトコフ、『セメント』、岩波文庫、一九六〇年
ジョン・スタインベック、『怒りの葡萄』上下、大久保康雄訳、新潮文庫、一九六七年
セラフィモーヴィチ、『鉄の流れ』、西本昭治訳、光陽出版社、一九九九年

神長英輔、「戦争と漁業:『北洋漁業』を問い直す」、北海道大学スラブ研究センター・21世紀COE研究報告集17号
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no17/03kaminaga.pdf
Sinclair. Upton, The Jungle, Project Gutenberg
http://www.gutenberg.org/dirs/1/4/140/140.txt

asahi.com
http://www.asahi.com/
函館市
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/
毎日jp
http://mainichi.jp/
MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/
多喜二ライブラリー・ブログ
http://shirakaba-bungakukan.blog.ocn.ne.jp/takiji/