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日本変革のブループリント





第三章 グローバルな小日本主義
「ミニマ・ヤポニア」(3,4)


佐藤清文
Seibun Satow

掲載日:2007年1月元旦


無断転載禁
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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。



全体目次



2 人権

 社会の階層化を斥け、多様性の確保のため、社会法的観点に立脚しなければなりません。

 生存権を尊重し、ジェンダーやセクシャリティ、障害、病気、宗教、出自、富、地域、言語、エスニシティなどを理由にした一切の差別と戦わなければなりません。

 政治はすべての人の社会への公正なる参画を務めなければなりません。

 また、諸外国と比べて、日本は難民の受け入れを制限し、先住民族に対する配慮にあまりにも欠けていましたが、この状況は克服される然るべきです。人間の尊厳は冒すべからざるものです。

3 教育

 近代日本における教育の最大の問題点は、政治的課題が教育政策に還元され続けたことです。

 これは戦前戦後を通じて違いはありません。教育勅語を起草した井上毅も社会問題を教育のせいにする風潮を厳しく批判しています。

 教育が社会的要請に応える側面はありますが、政治の不手際の結果を教育に押し付けるとしたら、あまりに無責任です。

 確かに、子供は大人の鏡だとも言えます。自分自身の関心事についてのアンケートをとっても、科学を一番に挙げず、それがどれだけ影響を及ぼしているかを省みず、景気や経済的繁栄に興味があると答える人が少なくありません。

 子供の理香離れを憂いながら、当の大人が一般的に科学を敬遠する傾向があります。子供は大人の社会を敏感に反応するのです。

 従来の教育は、「詰め込み」と冷笑された通り、量的な学力を重視してきました。けれども、ソフト・パワー時代では、質的学力が求められます。

 「学力低下」が叫ばれていますが、その提言の多くに素朴な懐古趣味が見られます。真に必要なのは多様性・グローバル性・個人性の認識に基づく教育です。

 二〇〇四年末、OECDの国際的な学習到達度調査(Programme for International Student Assessment: PISA)で最高の成績を挙げたのはフィンランドです。それは、学力向上として提案されている日本の政策とは全く異なっています。

 多様性・グローバル性・個人性を重点に置き、質の教育が実施されています。詳しくは、2005年2月25日付『
asahi.com』の「比較・競争とは無縁 学習到達度『世界一』のフィンランド」ホームページで知ることができます。

 また、佐藤学東京大学教授は、『教育の方法』において、PISA調査とフィンランドの学習方法について次のように述べています。

 PISA調査によってフィンランドの優秀性に世界の教育関係者の関心が集中しています。フィンランドは、平均点でトップであっただけでなく、優秀な学力の生徒の比率がもっとも高く、学力格差と学校間格差と地域格差の少ないことにおいてもトップでした。

 フィンランドは世界でもっとも貧富の格差の少ない国であり、教育政策においても平等の原則をもっとも徹底した国です。
OECDとフィンランドにPISA調査の関係者は「平等(equality)」と「質(quality)」の両方を達成した国として、フィンランドを高く評価しました。

 一般に「平等」を追及すると教育の「質」は低下し、教育の「質」を追及すると「平等」は壊されると考えられてきました。しかし、PISA調査の結果は「平等」と「質」が対立しないことを示しています。事実、第1位から第8位までは、すべて15歳までの差別や選別を行っていない国々です。

 それとは対照的に、小学校
4年生の段階でエリート教育と大衆教育を分離するドイツなどの国々は、平均点において下位であっただけでなく、皮肉なことにエリート教育による上位グループの成績においてもエリート教育を行っていないトップ・レベルの国々の上位グループよりも下位にとどまっています。

 PISA調査において、フィンランドだけでなく、カナダやオーストラリアなど上位の国では、複式教室が採用されています。複式教室では同じ内容を2年に亘って二度学習することになります。日本の学校現場では、二度同じことを学ぶのは非効率だとして使われていません。

 けれども、「学びの経験の質においては高度になりますし、学びの経験の発展性が生まれます。ポスト産業主義社会は、学びの知識の『量』よりも『質』が問われる時代です。このことが
PISA調査の高得点の秘密の一つかもしれません」(『教育の方法』)

 また、フィンランドでは、プロジェクト学習を積極的に行っています。例えば、中学校一年生の世界地理の授業で、「中南米の国々は貧困に苦しみ、経済が不安定なのか」というテーマを与えたとします。生徒数人でグループを組織し、中南米のどれか一つの国を選び、自然環境・歴史・産業を調べます。

 教師は、口出しせず、その疑問に答える一つのヒントとして、中南米諸国の
GDPの一覧表を配布し、生徒は各国の輸出入品の概要を検討していきます。データを暗記するのではなく、それが何を意味するかを生徒に考察させるのです。

 生徒は調査結果と議論を通じ、一次産業品目に依存していると、天候の変動や市場の動向に左右されやすく、経済が安定しにくいという中南米諸国に共通の傾向を発見するのです。『教育の方法』で紹介されているこの学習内容は、日本なら、下手をすると、大学生レベルです。

 研究所にしろ、起業にしろ、官公庁にしろ、実社会では、プロジェクトで活動を行います。こうしたフィンランドの教育方法は極めて実践的です。

 フィンランドのケースを見ると、教育基本法改定を含め、日本の教育論議がいかに見当違いであるかはっきりするでしょう。

 多くのジレンマに囲まれ、顔の見えないコミュニケーションを含むネット社会では従来の道徳をそのまま適応できません。時代に即応できない道徳教育に代わって、モラル・ジレンマ方式をより活用し、相互の関連性を理解するミニマ・モラリアの教育が必要です。

 また、大学進学率がより上がると同時に、目まぐるしいスピードで情報・知識・技術が更新されていきますから、生涯教育並びに大学院教育の拡充が必須です。学校社会から学習社会へと移行しつつあるのです。

 近代教育は文字を媒介にし、学校が教育を独占していました。しかし、情報革命による電子メディアの発達は活字メディア中心の教育を根本から覆しつつあります。それが学習社会です。でも、江戸時代も学習社会だったのです。

 教育はよりよい社会への投資と考え、教育費の個人負担は大幅に軽減するべきです。能力がありながらも、経済的な理由で、勉強を諦めなければならないとしたら、大変な人材の喪失です。少子化の一因に高すぎる教育費の問題があるのは自明ですけれども、それは未だ見ぬ可能性の誕生を社会が阻害していることでもあるのです。

つづく