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日本変革のブループリント





第一章 官僚主義を脱して(2)


佐藤清文
Seibun Satow

掲載日:2007年1月元旦


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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。



全体目次


2 官僚制の二〇年周期変動

 近代日本の官僚機構が本格的に機能し始めるのは1920年代です。

 それ以前、政府が政策を発表しても、場当たりで、持続性に欠けていました。第一次世界大戦後、都市化=大衆化が急速に進み、新たな政治・行政の状況が求められるようになっています。

 この需要に応えるために生まれたのが政党政治であり、分立化・専門化した官僚制です。

 この官僚制の確立には、欧州の動向が影響を与えていました。ヨーロッパ諸国は、第一次世界大戦を通じて、総力戦が現実化し、人や物、情報を効率的に国家総動員体制へと導くことが課題になります。

 それには、計画的・総合的な政策を考案し、実行するテクノクラートが不可欠です。日本の官僚機構はこうして重要性を増していったのです。

 近代の官僚制はテーラー主義と呼ばれる労務管理システムから影響を受けています。

 これには「フォーディズム」の別名を持つ大量生産方式も基づいています。

 フィラデルフィア出身の叩き上げの技術者フレデリック・テーラーは、『科学的管理法』
(1911年)において、労働者を集団から切り離して工場内を民主化=均質化し、目標を設定することで、お互いに競争させれば、生産効率が向上すると主張しています。

 その際、計画室に、情報と権限を集中させ、そこで、仕事の手順を分析して最適化を図ることが不可欠だと強調しています。この計画室が官僚機構なのです。

 テーラー主義はベルギーの思想家アンリ・ド・マンによりヨーロッパに紹介され、1920年代のテクノクラート論の中心的理論として政治家や官僚、知識人の間で議論されています。

 最初に日本のテーラー主義的な官僚機構が手をつけたのが治水・利水・水資源を巡る政策です。

 利水自体は、明治時代に、近代化=産業化に伴い、問題化していましたが、内務省が各省の利益を調整しており、まだ牧歌的です。

 しかし、1920年代に入ると、社会的変化に伴い、計画的・総合的・機能的な水利政策が必要となり、生活水利・農業水利・発電水利・産業水利を巡って各省がそれぞれ政策を立案していきます。この水資源を巡る省庁間戦争は戦後も続き、一応の決着を見るのは1960年代前半です。

 このように水の問題こそが日本の官僚主義の原型であり、「脱ダム」宣言は、田中知事自身がその経緯を意識していたかどうかは別にして、それを根本から覆そうとする試みにほかなりません。

 以降、20年周期で官僚制は大きく変動していきます。言うまでもなく、その過程を詳細に見れば、錯綜して、停滞もあれば、断続もあり、それほど単純ではありません。

 象徴として挙げている政策にしても、その時代に考案されたものではなく、20年以上前に計画されながら、頓挫していたり、塩漬けされていたりします。ですから、以下はあくまで便宜的な図式です。

 1940年、泥沼化した日中戦争を遂行するために、国家総動員体制が敷かれます。

 当時の日本にとっての中国大陸は、60年代のアメリカにとってのベトナム、80年代のソ連にとってのアフガニスタンに相当します。

 戦争には莫大なエネルギーが要りますから、電力が国有化されます。権限が中央官庁にかつてないほど集中し、事実上、官僚が政治を仕切ります。官が公であると国民には強烈に意識させられるのです。

 食管法や年金制度が生まれるのもこの時期でることから、野口悠紀雄早稲田大学教授は「戦後体制」ではなく、「1940年体制」と呼ぶべきだとかねてより主張しています。

 実際、戦後においても、この国家総動員体制の官僚機構は維持されます。

 復興にはエネルギーの十分な確保が急務となり、占領が終わっても、機構が強化されることはあっても、解体されはしませんでした。1956年に着工された黒四ダムも、関西地区の電力供給を目的に建設されています。

 高度経済成長とその利益の配分が政治的課題となる1960年代になると、池田勇人や佐藤栄作など官僚出身で、戦後登場した政治家が政権を担当します。また、第一世代の官僚が定年を迎え、霞ヶ関の世代交代が始まります。

 第一世代の官僚は、旧制高校時代に、マルクス主義の洗礼を受けたこともあり、歴史的・地理的な認識に基づき、計画的な政策立案を得意としていました。

 中央官庁の暴走を抑え込むことこそ政治的手腕と信じていた河野一郎のような旧世代の政治家に代わって、田中角栄を代表として、官僚を利用する新しい世代の政治家が登場します。

 霞ヶ関と永田町の蜜月関係が始まった時代です。もちろん、象徴的な政策は国土開発です。日本列島は両者の連携により改造され、農村の伝統的な生産様式・生産関係は崩壊し、日本の風景は、公害と地価の高騰を伴いつつ、都市化=均質化していきます。

 1980年代、世界第二位の経済大国、世界最大の債権国となった日本は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と内外からもてはやされますが、「現状追認のペンタゴン」と呼ぶべき政・官・業・学・報の癒着による腐敗が表面化し始めます。

 従来の行政政策では日本社会が立ち行かなくなることは時間の問題となっていきます。バブル経済とその崩壊により、護送船団方式の金融を中心にして官僚主義の諸問題が一気に噴出します。

 メキシコの「ラ・レフォルマ
(La Reforma: 大改革)」よろしく、10年以上続く「改革の時代(Era of Reform)」の始まりです。

 官官接待やカラ出張など官僚の不祥事が連日ニュースになった90年代、官僚機構を政治主導によりいかに改革するかが政治課題となり、地方自治体から波及したニュー・パブリック・マネージメントの流れに沿い、1998年、橋本龍太郎内閣は行革に着手しますが、実際には──確かに、従来の機構改革と異なり、根本に踏み込む姿勢は認められるとしても──省庁の再編に終わり、日本を蝕む官僚主義の真の改善にはつながっていません。

 一度決まって計画は鉄砲玉のように前進するだけで、途中で撤回されることがないという弾力性のなさも十分に改善されることもありませんでした。

 漁民や環境保護団体などによる中止要請の中、1997年に諫早湾で潮受け堤防が閉鎖されましたが、この干拓事業の問題は未解決です。

 ただし、村山富市内閣の1995年、製造物責任法、いわゆる
PL法が施行され、事前規制という行政の権限を縮小する道筋が作られています。

 2000年に入って、官僚機構の権限の縮小への流れは不可避的になっていきます。

 国内外から、民営化や規制緩和、地方分権化が要求されます。2001年に情報公開法が、国政レベルでも、ようやく施行されます。

 しかし、既得権益を手放したくない霞が関は相変わらず抵抗を続け、肝心の部分の改革は遅々として進んでいません。

 また、安易な民営化が安全性を脅かす事態もしばしば起きています。行政機構を抑制する一環として、事前規制から事後解決のため、グローバル社会への対応を込めつつ、司法改革が進められることになります。

 官僚は「国僕(ナショナル・サーヴァント: National Servant)」として誕生・成長してきましたが、「公僕(パブリック・サーヴァント: Public Servant)」に徹するべき時代に突入しているにもかかわらず、まだ脱却できていないのです。

 「省僕
(デパートメント・サーヴァント: Department Servant)」と言っても過言ではありません。

 以上のように、日本の官僚制は戦後に限定されるわけではなく、二〇世紀を通じて、形成されてきたのです。それは戦争を経ても存続した恐るべきしぶとさを持っています。官僚主義の弊害を解決することは、当然、この歴史との戦いにならざるをえません。

 官僚制は、その形成経過が示している通り、資源や国土など量的なハード・パワーの面では、その威力を発揮しますが、技術や文化といった質的なソフト・パワーに対しては無力に近いのが実情です。

 文芸批評家の平野謙は、戦時中、情報局に勤務していたのですが、彼の回想がそれをよく表わしています。

 この情報局は検閲を扱う機関の一つです。検閲制度を官僚組織が行う以上、そこには官僚機構の弊害が反映していると彼は言います。

 陸軍報道部と海軍報道部、情報局、内務省検閲課などの間で、縦割りに縄張り争い、予算の配分、学閥、前例主義などが絡み合いながら、検閲制度が実施されているのです。

 平野謙は、『情報局とは』において、検閲にも「統制」と「指導」の二種類があり、自分が属していたのは主に指導の方だったと次のように述べています。

「情報局といえば、戦時中の一元団体たる文学報国会を所管した情報局内の一部課と情報局全体とを混同する嫌いさえ、文学者は持っているようにみえる。

 たまたま私は文学報国会を所管していた第五部第三課の嘱託だったので、少し内情に通じているから断言してもいいが、第五部第三課などは情報局全体のなかでは、最もウェイトのかるい微弱な部課に過ぎなかった。

 つまり、それは文化面の育成という部面を担当する、いわば抽象的な一課家にとどまる。その抽象的な役割をいかに役所ふうに軌道にのせるか、についてはじめはみんな困惑していたのが実情だろう。

 第五部第三課の課長は逗子八郎というペン・ネームを持つ歌人井上司朗だった。

 (略)

 生えぬきの官僚でなかったせいもあろうが、内部では少しバカにされていたのが、私などにもうすうすわかった。

 だから、文化藝術における指導育成という抽象的な役割を具体化するには、日本文学報国会とか大日本言論報国会とかいう一元的団体をやたらに作って、それに若干の助成金を与える、ということにならざるを得なかったのだ。

 新聞やラジオの統制、図書の発禁、配給紙の統制などをうけもつ部課とはどだいウェイトが違っていた。紙を握っているわけでもなければ、発売禁止にする権力を持っているのでもない。抽象的といわざるを得ない所以である。」

 文学者を統制する目的で、情報局が文学報国会を設立したと思われているけれども、それは「文化藝術における指導育成」という「抽象的な役割をいかに役所ふうに軌道にのせる」方策です。

 ソフト・パワーには官僚制は不得手なのです。

 統制は配給紙の制限・停止などの現実的な権力行使であり、有力な部署の既得権である。

 マイナーな部署は自らを維持するために、外郭団体をやたらと作って、助成金を与え、権益を確保するというわけです。この手法は現在でも続いている官僚の手口でしょう。

 しかし、ソフト・パワーの時代が到来しているのなら、官僚には慎ましく自らに能力の限界を認め、その歴史的役割の終焉を自覚するべきなのです。


  つづく