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日本変革のブループリント





第一章 官僚主義を脱して(5)


佐藤清文
Seibun Satow

掲載日:2007年1月元旦


無断転載禁
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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。



全体目次



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 官民を超える公


 公は官も民も超えています。

 それを理解するには、著作権を巡る考え方が参考になるのです。

 三権分立や社会契約説などで知られるジョン・ロックは、『市民政府論』において、近代の体制を理論化する時、「所有権」を基礎的な権利に置いています。

 資本主義=近代社会は所有権を明確にすることで、機能しています。さもなければ、生産物や土地を自由に売買できません。

 その所有権は土地や建物、家具など有形物に限定されることなく、後に、知的・美的生産物、すなわち無形物にも適用され、著作権が生まれます。著作権はソフト・パワーの所有権なのです。


 ジョン・ロックはアメリカのカロライナ植民地の基本憲法を起草し、1669年、採択されています。

 3000エーカーの土地を購入した者は「男爵」、12000エーカーなら「首領」、二万エーカーで「地方伯爵」の称号が与えられ、カロライナ議会は、領主が任命する総督と大プランターによって構成される評議会と一般の住民からなる代議会の二院制であり、代議会は評議会に対して承認・否決の権限を持っていました。

 アメリカは土地が安かったですから、貧乏人でも自分の土地を持っていれば、身分に囚われず、議会に投票でき、政治を左右したのです。

 所有権は近代民主政治への重要なステップだったのです。ただ、当時、民主主義は民衆の暴政と知識人から蔑まされていました。民主主義が好ましい意味で用いられるようになったのは、1829年、第7代大統領アンドリュー・ジャクソンが就任して以降のことです。

 しかし、この著作権の利用が法的に制限される場合が大きく二つあります。

 それは私的使用と公共の利益です。著作権法を考慮すると、公・私・それ以外の三つの領域に分かれます。官と公は、必ずしも、一致しないのです。

 著作権はデジタル機器の普及とグローバリゼーションの進展と共に、現在、最も論争が起きている権利ですから、詳細は変動していますが、その法の精神は不変です。

 作花文雄内閣法制局参事官によれば、文化的所産の公正な利用という観点に基づき、公共の利益から、さらに、その著作物の特性を考慮すると、著作物の円滑な利用を促進させるために、権利を及ぼすことが妥当ではないと判断された場合に、著作権は利用は制限されます。これが公的ケースです。

 公共性は、それを踏まえると、二つの特徴を持っていることになります。

 一つは所有者・管理者・利用者が重層的且つ複合的、すなわち共有性=公正性があるという点です。

 もう一つは、即時性=社会性の尊重という点であり、この場合の社会性は情報の公開性、つまり情報を知らしめることを意味します。

 教育・研究・報道には、多くの点で、著作権利用が制限されています。

 公共性・即時性が強いからです。そもそも大学の入試問題で、著作権者にいちいち断っていては、試験になりません。公開美術も、公共芸術ということで、条件付きながら、制限対象です。

 また、非営利且つ無料のコンテンツの上演・貸与も同様です。

 政治的・社会的活動に関しても、制限対象が設けられています。

 政治上の演説等、裁判手続き、情報公開法による利用、時事問題に関する論説──新聞の社説や雑誌の巻頭言等──、時事事件・出来事の報道、公的存在の人格権等で著作権利用が制限されます。

 この場合の人格権の対象は税金で生活しているか否かは問われません。内閣総理大臣には、当然、肖像権はありません。それは公共の存在以外の何ものでもないからです。

 著作権を参照すると、このように公共性が官も民も超えていることは明らかになります。

 公のためには、官も民もその活動が制約されなければなりません。官が公を代弁している、もしくは公は官の下僕であるなどと思い上がるのはもってのほかです。

 従って、「官から公へ」と掲げなければならないのでするのです。


つづく