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日本変革のブループリント





第一章 官僚主義を脱して(4)


佐藤清文
Seibun Satow

掲載日:2007年1月元旦


無断転載禁
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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。



全体目次



2節 官から公へ

1 先進国最小の政府を持っている日本

 小泉政権は「構造改革」をするために、行政の効率化が不可欠であるので、公務員数を削減し、「小さな政府」を目指すと主張しています。

 この「小さな政府」の正当性を民主党の大勢も疑っていません。

 けれども、実は、数多くの専門家がしばしば批判するように、日本は、数字上では、すでに先進国で最も小さい政府です。

 人口1000人あたりに対する公務員数
(国家公務員・地方公務員・政府系企業の従業員・防衛関係者)の比率は、あえて古い数字を示しますが、橋本行革時の1998年の段階で、アメリカは75人(67人)、イギリスは81人(76)、フランスは97人(87)、ドイツは65人(59人)、そして日本は僅か38人(36)です。

 
()内は防衛関係者を除いた値で、通常、公務員数の国際比較ではこちらが使われます。日本の値は突出して低いのです。

 アングロ・サクソン的な「小さな政府」を志向すると政府は訴えていますが、そもそもアメリカやイギリスの方がドイツよりも公務員数比が高い実情を示しています。

 付け加えるならば、租税負担及び社会保障の国民所得比の国際比較でも、日本は先進国最低です。

 日出処国は、こうした統計においては、先進国で最も小さい政府であり、これ以上の量的縮小は事実上無理があります。

 しかし、そうした実感は一般にはないでしょう。

 イメージでは、日本は先進国最大の政府を持つ国です。それは、霞が関の手法を指す際に「裁量行政」が用いられる通り、行政の大きさが量的ではなく、質的だからです。

 非公式な行政指導を除いても、発表されている公式な許認可数を調べてみると、一目瞭然です。その上、天下りという権限の蓄積・再生産機構があります。

 規制の多さや需要を無視した大規模事業の供給、情報公開への消極さが日本の官僚制の大きさの実態にほかなりません。

 予算がないと言いながら、一般会計の2.5倍ほどもある特別会計の実態は極めて不明瞭です。

 霞ヶ関が「赤字」と口にする時、本体が赤字でも、彼らの天下り先であるファミリー企業は黒字というのがいつもの手です。

 しかも、官僚は膨大な数の法案を国会に提出し、その中に自分たちに都合のいい法律をさしはさんでおき、通過させてしまうのです。

 社会保険庁が職員の福利厚生に集めた年金を使っていましたが、それも合法です。

 そこで、彼らは、そうした無駄遣いを批判されると、こう反論してきます。「しかし、私共は、国会で議員の先生方が御議論なさって通過させた法律に則っているのですが」。


 1999年、ホロコーストに深く関わったナチス親衛隊の中佐アドルフ・アイヒマン裁判に関するドキュメンタリー映画『スペシャリスト 自覚なき殺戮者』が日本でも公開されましたが、この「スペシャリスト」は官僚主義者をよく言い表しています。

 日本語では、「エキスパート
(Expert)」と「スペシャリスト(Specialist)」、「プロフェッショナル(Professional)」が混同されやすいのですけれども、それらは体系性と倫理観の点で明確に区別されます。

「エキスパート」は職人を意味します。個人的な天分と長年にわたる経験や修練によって会得した技能はあるものの、理論的・体系的裏付けを欠いている場合が多いのです。

 一方、「スペシャリスト」は研究者や技術者、官僚によって代表されます。学問的裏付けのある専門技能を持っているけれども、倫理がないため、技能を磨くこと自体が目的となってしまうことさえあるのです。

 アイヒマンは、当然、「スペシャリスト」と呼ばなければなりません。

 アイヒマンは、裁判中、自分は命令に従っただけだと弁明しています。彼は、確かに、「自覚なき殺戮者」です。

 アメリカの心理学者スタンレー・ミリグラムは、ドイツの哲学者テオドール・
W・アドルノの「権威主義的パーソナリティ」を実証する「権威への服従」研究を「アイヒマン実験」と命名しています。

「プロフェッショナル」はスペシャリストの要素に倫理が加わります。スペシャリストは危機に際して組織防衛に走りますが、プロフェッショナルはたとえ自分の所属している組織がつぶれることになろうとも、倫理を優先するのです。スペシャリスト、すなわち権威主義的パーソナリティが官僚主義者にほかなりません。

 小泉流の量的な霞ヶ関の縮小は見当はずれなのです。それでは、天下りと裁量行政によるありとあらゆる規制の雁字搦めから脱却できません。

 少数の官僚を頂点としたピラミッド型のヒエラルキーが日本の事実上の支配構造です。量的に少ない官僚が曖昧な裁量によって規制している実態を変更しなければ、真の改革にはなりません。

 さらに、社会の変化と要請に応えた公務員の編成をいかにするのかという点が小泉改革には希薄です。

 その歴史的役割は終了したからサンセットさせた事業から、将来を見越した新規事業への人員の効果的且つスムーズな異動がなければ、膠着した官僚機構の弊害を改善したとは言えません。

 やるべきことは「官から民へ」ではなく、「官から公へ」なのです。

 野放図な民営化の問題が顕在化したのが耐震強度偽装問題でしょう。

 霞ヶ関は、一般へ情報を与えないままに、今の日本の建築審査があたかもグローバル・スタンダードな民営化だと言わんばかりです。

 しかし、2005年12月30日付『岩手日報』の「論説」は「米国に審査方法を学べ」と提言しています。

 合衆国の建築関連法規には、州法や各市条例があり、地域によって微妙な違いがあります。

 けれども、「米国方式を要約すれば、巨大災害にもつながりかねない建築許可は行政責任でそれ相応の対価を徴収し直接審査する、利害が相反する関係にある者が契約上親子のような関係になることは厳禁、提出書類には偽証罪のリスクをつける、ということになる」。

 同紙は、ロサンゼルス市で20階建のビルを建設するケースを挙げて、次のように説明しています。

 「建築許可は市の建築安全局の所管であるが、この役所は米国には珍しく巨大組織だ。無論、消防局による厳格な審査もある。建築申請にはかなり高額な審査手数料を徴収される。建築許可書発行時に納める建築許可料も高額であり、あれこれ合わせれば建築費の0・5%程度にはなるだろう。

 建築許可は建築安全局の外部専門委員5人の公開審議による議決で決定される。建築中の中間検査も厳重である。土留め、擁壁、基礎コンクリート打ち込み、鉄筋立ち上げ検査など棟上げまでの構造検査はため息が出るほど厳しい。続けて設備・消防検査が頻繁に行われ、最後に厳しい入居検査をパスしなければ使用できない。

 独立性条件の設計者

 すべての改善指示、命令は必ず書面で事業主あてに出される。米国では設計者が株式会社であることに大きな制限があるのも特色である。

 州により多少の差異はあるが、設計者は原則個人または無限責任組合でなければならず、技術過誤に対しては責任を負うよう定められている。一方で、その危険担保の保険もあるが、建設業者の製造物責任(PL)とは異なる。

 デザイン・ビュルダー(建設業者が設計者を雇う、またはその逆)は州によっては禁止され、他の州でも大きな制限がある。設計者はあくまでも独立性を保つことが要求される。

 主設計者に構造・設備設計者が協力する形は日本と同様だが、チーム編成は主設計者の専権事項である。付随するコンクリート・スランプ・テスト、鉄筋引っ張り強度テストなどはそれぞれ専門の検査業者が行う。しかし、契約は事業主でなければならず、設計者や建設業者経由であってはならない。たとえ小さくても技術責任は独立が求められる仕組みだ。

 重罪に問われる偽証

 公的機関(時には民間同士でも)への提出書類はすべて宣誓供述書でなければならない。公証人の面前で法人なら役員2人が、真正であることを宣誓して署名するものだが、これが虚偽と判明した場合は偽証罪に問われる。

 偽証は重罪だ。わが国の今回の偽装事件が米国で起きたなら、関係者は宣誓供述書偽証だけでも長期禁固は堅い。加えて複数の罪の刑期が累計されるから恐ろしい。

   2005年12月30日付『岩手日報』 論説

 この建築審査には、日本と違い、責任を明瞭にし、公共性への配慮があります。

 1990年代の金融機関への公的資金投入の場合にも、アメリカでは何人が刑務所に入れられたかが紹介されながらも、金融機関のトップや官僚、政治家は責任を問われませんでした。

 責任主体の明確化と公共性への意志がなければ、官であろうが、民であろうが、日本は殺伐となるだけです。

 と同時に、アメリカでは、一定規模以上の企業の多くは従業員にモラル・ジレンマ方式の各種の倫理テストを課しています。

 それらは解決を迫るモラル・ジレンマ資料を提示して、チャレンジャー事故やチェルノブイリ、
JCOなど過去の重大な事故や出来事の関係者がとった行動を参考に作成された多くの選択肢を選ばせるというものです。

 技術者は組織の中で生きざるを得ませんし、新たな技術がもたらす価値を社会性と照らし合わせながら判断しなければなりませんから、技術者倫理に絶対的な解決策はありません。

 現代の技術者は専門的知識・能力を持っているだけでなく、それ以外との関連性も理解していなければならないのです。

 札野順金沢工業大学教授は、『技術者倫理』において、

「技術者とは人類の利益という『価値』のために、数学的・科学的知識と能力を使って貢献する専門職であるとするならば、科学技術の価値とそれ以外の価値のバランスをとりながら最適な『行為』を『設計』し、それを実行する能力、すなわち、『技術者倫理』は自らの本質に関わる『中核的能力(core competence)』といえる。」

とした上で、技術者は「哲人技術者」たるべきだと提唱しています。

 日本での「中核的能力」の欠如は非常に深刻だと言わねばならないでしょう。

 こうした情報を一切知らせることもなく、政府は野放図な民営化を邁進しています。特に、小泉政権は理念もなく、思い込みと思いつきを無批判的に施行しています。

 彼は「官か、民か」の二者択一しかなく、公共性への眼差しを欠くその設定の短絡性を指摘すると、魔女狩りを始める始末です。変えることそれ自体が目的で、その後は知ったことではないのです。

 真の改革は定着しなければ意味がありませんから、草の根の声に耳を傾け、そのアイデアを汲み上げる必要があります。

 カール・マルクスの有名なテーゼを捩るなら、九〇年代以降、政治家たちは改革を口にしてきましたが、重要なのは定着させることです。

 小泉首相は、郵政民営化の際にもそうでしたが、各国の現状や歴史的文脈を無視して恣意的に概念を弄ぶ傾向がありますが、「構造改革」もその一つです。

「構造改革」は「小さい政府」と必ずしも結びつく概念ではありません。これは、本来は、マルクス主義に属しています。

 イタリア共産党の理論家パルミロ・トリアッティが『イタリアと世界で進行中の転換の中における社会主義へのイタリアの道のための闘争』(通称『社会主義へのイタリアの道』)の中で用い、一九五六年の党大会で採択されたのが「構造改革路線」です。

 その内容は、現在のイタリア社会が抱える諸問題はたんなる制度に原因があるのではなく、非合理的な社会構造に起因しているのであり、それ自体を改革しなければ、社会は改善しないという政策です。

「構造改革」を断行するのに、政府を小さくする必然性は、概念上も、ありません。

 そもそも「構造改革」というスローガンは今日の日本の現状に即していません。

 産業構造の高次化や少子高齢化による人口構成の変化、東西冷戦構造の解体、グローバリゼーションの進展に伴い、国内外の社会構造がすでに変容しているのです。

 むしろ、それに対応する「制度改革」を志向しているというのが実情です。

 小泉首相はこのように著しく論理性に欠け、修辞法に頼る政治家です。

 そのため、レトリックが通用する範囲でしか人を説得することができません。彼の外交が孤立化に向かうのは必然的です。


つづく