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日本変革のブループリント





第二章 福祉国家を超えて(8)


佐藤清文
Seibun Satow

掲載日:2007年1月元旦


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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。



全体目次



節 新たな平等主義とリスクの社会化

 連日「バブル以来」という形容が経済ニュースに踊る中、2005年12月29日付『中国新聞』が「国保『停止』の11人死亡 保険料払えず受診遅れ」という次のような衝撃的な事実を伝えました。

 国民健康保険(国保)の保険料を滞納して保険証を返還し、医療機関の受診の遅れから病状が悪化、死亡したとみられる患者が過去六年に少なくとも11人いたことが28日、共同通信の調べで分かった。

 患者のほとんどは不況の影響などによる低所得者という。滞納世帯は年々増加し、保険証を返還した世帯は昨年6月時点で約130万世帯。誰でも安心して医療が受けられるはずの国民皆保険制度の中で「格差社会」の一端を示した形だ。

 保険証を返還すると、自治体は代わりに「被保険者資格証明書」や「短期保険証」を交付。資格証明書では、窓口で医療費をいったん全額支払うため患者の負担は重い。

 後で給付を受けられるが、滞納分を差し引かれる場合もある。長期滞納者には2000年に資格証明書の交付が義務付けられ、医療機関離れを招くと指摘される。

 にもかかわらず、近頃、「平等」の評判は芳しくありません。いきすぎた平等主義が日本の活力を失わせているという意見が巷に溢れています。

 大量生産大量消費の高度経済成長時代には、マニュアル通り働く労働者が生産性向上にあっていたかもしれないが、グローバル化した現代では、独創性のある付加価値の高い製品やサービスを提供することが求められるのだから、平等など捨て去るべきだというわけです。

 ネオ・リベラリズムの普及と共に、競争原理の導入が日本社会を活性化するのであって、平等はお呼びでなくなりつつあります。

 しかし、それは平等ではなく、「画一」と呼ぶべきものでしょう。そういった平等観は結果の均等にすぎません。自由主義経済には固定化した階層では十分に機能し得ないという原則がありますから、それを存続されるならば、平等さを確保しなければなりません。

 「選択の自由」(ミルトン・フリードマン)は自由主義経済のモットーの一つです。けれども、情報公開がなされていなければ、それは有名無実となります。

 生産者と消費者では、その生産物についての情報は前者が後者以上に持っています。自分に都合の悪い情報を隠して販売したとしたら、消費者の選択は自由ではありません。

 食品や自動車、温泉、建築などさまざまな偽装問題からそれは明らかでしょう。生産者と消費者は、生産物の情報において、平等さを目指さなければならないのです。
PL法はその環境整備の一環です。

 小泉内閣は義務教育の国庫補助金を削減する意向です。これもまた自由主義経済のモットーの一つである「機会の均等」に反しています。

 政府の方針に対し、厳しく批判しなければなりません。それは各コモンズの固有性とは別であるだけでなく、労力・資金力を奪うことになるからです。

 フランスの社会学者ピエール・ブルデューは、文化資本が経済資本と同様に蓄積・再生産されていると統計的に示し、世界に衝撃を与えました。2002年に亡くなったこの思想家によると、文化資本の保有率が高いほど高学歴であり、またその子供も親の文化資本を相続し、高学歴になるのです。

 エコール・ポリテクニーク出身の高級官僚の家庭に生まれると、親と同じように高学歴・高収入になるのに対し、低学歴・低収入であれば、映画『レオン』のマチルダのような子供はその環境から抜け出すのが困難になってしまいます。

 ブルデューの説を裏付けるような研究が世界中で相次ぎ、日本も例外ではありません。政府の考えである教育水準を家庭で選べることは機会の平等には必ずしもつながらないのです。

 苅谷剛彦東京大学教授は、『階層化日本と教育の危機』
(2001)の中で、機会の平等が脅かされる事態がすでに教育現場で起きていると指摘しています。

 教育水準の高い「階層」ほど、教育への意欲が高く、また教育費をより多くあてられるため、教育環境に恵まれています。教育水準の選択を家庭に委ねてしまえば、この格差が次の世代にも再生産されてしまい、社会的な階層が固定化されて、流動化が失われ、『ハードワーク』の社会に陥ってしまいます。裕福な家庭に生まれた子供が高い教育を受けて官僚となり、そのシステムを維持・強化しているのです。

 日本における貧富の格差が拡大している実態はOECDによる「貧困率」に関するレポートからも明らかです

 このレポートでは、可処分所得の中央値の五〇%に満たない人の割合を「貧困率」として、OECD二七カ国の数値を算出・比較しています。OECD全体の平均は10.4%であり、日本は15.3%です。

 これはメキシコ(20.3
%)、アメリカ(17.1%)、トルコ(15.9%)、アイルランド(15.4%)に次ぐ第5位の値です。他方、最も低いのはデンマークの4.3%で、チェコ(4.3%)、スウェーデン(5.3%)、ルクセンブルク(5.5%)と続きます。加えて、日本は、90年代後半に貧困率が1.6ポイント拡大したと指摘されています。

 
OECD全体での平均は0.5ポイントの拡大ですから、日本は貧困率だけでなく、貧困率拡大の割合も大きいということになります。さらに、年齢別の貧困率を見ると、日本には若年層と高齢者で貧困率が高い特徴があります。

 こうした指摘に対し、反論もあります。NHK教育テレビ2005年2月22日放映の『視点・論点』において、八代尚宏日本経済研究センター理事長はこう言っています。

 日本は高齢者の就業率が先進諸国で最も高く、そのため、高齢者層における所得の差が大きいことにより、
OECDの統計上、貧富の格差が生じているのです。年々拡大しているという批判も、高齢者人口の増加に伴い、その点が広がっているせいということになります。

 けれども、小泉政権下、年間の自殺者が毎年三万人を超え、その中に多くの経済問題を理由にした自殺者が多くいるのは事実なのです。

 実際、「バブル以来」の好景気であり、少子化しているにもかかわらず、給食費を支払えない児童が130万人もいるのです。

 2006年1月3日の『asahi.com)は「年就学援助4年で4割増 給食費など東京・大阪4人に1人」と次のように伝えています。

「公立の小中学校で文房具代や給食費、修学旅行費などの援助を受ける児童・生徒の数が04年度までの4年間に4割近くも増え、受給率が4割を超える自治体もあることが朝日新聞の調べで分かった。東京や大阪では4人に1人、全国平均でも1割強に上る。経済的な理由で子どもの学習環境が整いにくい家庭が増え、地域的な偏りも目立っている。

 文部科学省によると、就学援助の受給者は04年度が全国で約133万7000人。00年度より約37%増えた。受給率の全国平均は12.8%。

 都道府県で最も高いのは大阪府の27.9%で、東京都の24.8%、山口県の23.2%と続く。市区町村別では東京都足立区が突出しており、93年度は15.8%だったのが、00年度に30%台に上昇、04年度には42.5%に達した。

 背景にはリストラや給与水準の低下がある。厚生労働省の調査では、常用雇用者の給与は04年まで4年連続で減り、00年の94%まで落ちた。」

 子供は生まれてくる境遇を選ぶことはできません。これではスタート地点がばらばらにもかかわらず、タイムだけは早い者勝ちというマラソンのようです。

 競争をするのであれば、スタート地点を平等にする必要があります。それは、ですから、社会で面倒を見るべきなのです。

 こうした運のリスクは社会化すべきでしょう。病気や障害、失業、災害などは、現実的に、個人ではどうにもならない運の部分があります。

 そうしたリスクには社会全体で備え、たまたまそれに遭遇してしまった人は社会が救済することにより、流動性の乏しい階層化社会を防げるのです。機会の均等は、結果の均等と違い、自由主義経済における平等主義です。

 競争原理や自己責任を絶対視してリスクの個人化を推し進めようとする勢力に対し、リスクの社会化を訴えなければなりません。

 この新しい平等主義は温情主義ではなく、経済の外部性に関係しています。市場経済には外部()経済という根本的な問題があります。

 ある経済主体の経済活動が、市場を通すことなしに、別の経済主体に影響を及ぼすことがあり、他にとって有利に働く場合を「外部経済」、不利の場合を「外部不経済」と呼びます。社会保障や教育は外部経済の典型です。

 貧困に喘ぐ家庭の子供が教育を受けられるというのは当人のみならず、社会的にも、犯罪発生率の低下や技術水準の向上、文化的寄与につながると考えられます。

 社会的な観点から、短期的な採算は度外視して、行政はその領域への補助金を支出する方が理に適っています。福祉国家はこの外部経済を意識化した国家体制です。

 人々にその外部性を論理的に納得させるため、外部を内在化する各種の経済学が考案されています。専門的に確立しているかはともかく、医療経済学や福祉経済学、介護経済学等数多くの種類があります。この状況を見ると、20世紀が経済の世紀と呼ばざるを得ません。

 ちなみに、外部不経済の最たる例が環境問題です。外部経済の顕在化はすでに実施されていますが、外部不経済に関してはまだ十分に認識されていません。

 社会保障制度が市場経済の原則の遵守として導入されたように、市場経済を存続させられるかどうかは、その外部をいかに内部に取り込んでいけるかにかかっています。

 しかも、環境問題は一国では解決できませんから、世界規模の連携が不可欠です。環境問題は21世紀最大の政治課題になるでしょう。

 21世紀の国家は、それに対応するため、「環境国家
(Environment State)」と命名され、その責務を怠っている国を「迷惑国家(Involvement State)」と鼻つまみ者扱いするかもしれません。

 言うまでもなく、こうした新たな平等主義はボーダーレス世界を念頭に置いています。平等もドメスティックではありえないのです。

 途上国には、満足な教育も十分な医療も受けられないでいる多くの子供たちがいます。貧しい国に生まれてしまったという運がその子の人生を決めてしまうのです。

 これは、世界にとって、大変なヒューマン・パワーのロスでしょう。しかも、グローバリゼーションの進展と共に、貧しい地域と豊かな地域の格差が拡大しています。

 そうした不平等さは政治的不安定を招き、国際秩序を揺るがし、結果として、日本に戻ってくるのです。世界的な再配分を迅速に進めなければなりません。平等は古びた概念ではないのです。

つづく