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長期連載
Democratic Vista

第四章 小日本主義による
政策論争


 佐藤清文
Seibun Satow

2009年2月1日

Copy Right and Credit 佐藤清文著 石橋湛山
初出:独立系メディア E-wave Tokyo、2007年10月16日
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。
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第二節 労働問題
第三項 経営民衆化論

 1915年から18年の間、日本は大戦景気に沸く。第一次世界大戦によって需要が増大し、総力戦のために余力を失った列強に代わってアジア市場をほぼ独占できたからである。内田汽船の内田信也のような多くの成金が登場する。日本は債務国から債権国に転じ、工業が飛躍的に発展し、財閥による産業支配が確立していく。

 1917年3月、ロシアで3月革命が勃発し、ロマノフ王朝が倒れ、さらに、11月、ボルシェビキによる10月革命が起き、ソビエト政権が成立する。

 1917年以降、このロシア革命に刺激を受けたこともあって、日本で労働争議が急増する。政府や企業家たちが求めるのは従順で勤勉な労働者である。しかし、劣悪な条件で働かされている労働者の現実を無視している。その自分勝手な態度に対して、労働者の怒りが爆発する。労働運動の勃興に対し、寺内正毅内閣は、1918年6月、救済事業調査会を設置し、内務省などに大戦後の社会政策を調査・検討させる。1918年8月、富山県で、米価高騰に対して漁村の主婦たちが蜂起する。米価引き下げ・廉価販売を要求するいわゆる米騒動は、これを発端に1道3府38県似に拡大し、参加者数は約70万人に及ぶ。シベリア出兵や社会主義弾圧を行い、非立憲的で藩閥政治と反動的な寺内正毅内閣も、この民衆運動によって、総辞職に追いこまれる。代わって成立した原敬憲政政友会内閣も、頻発する労働争議に対処するため、資本労働問題協議会を置く。いかに政権が交代しようとも労働問題は無視できない政治課題の一つとなっている。

 こうした社会的な状況において、労働組合を公認すべきだという意見が強まる。湛山も、言うまでもなく、その急先鋒の一人である。彼は労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権を認める。しかし、湛山の組合についての認識は一風変わっている。労働組合は階級闘争の組織や体制転覆の実行部隊ではない。とは言うものの、雇用主とのたんなる交渉団体でもない。湛山は組合を一種の社会的教育機関と捉えている。『新報』のいくつかの社説に展開された彼の組合は、端的に言って、学校である。労働組合は自己収容と相互扶助の精神を育み、社会教育を学び、実践する積極的・建設的な機能を持っている。組合も、労働運動に過剰な期待を抱かず、等身大を見極め、成長していかなければならない。労働者は組合を通じて公共性・道徳性への意志を学んでいく。湛山の念頭にあったのは、穏健な英国の労働運動である。

 そのためには、労働組合等に関する法の作成には、労働者に言論・行動の自由を十分に保障しなくてはならない。と同時に、組合も自らを律しえず、制度的・法的な一連の手続きを無視した場合には、罰せられることを認知すべきである。その上で、団体交渉の際に、決裂を避けるために、両者の要求を調停する第三者機関「労働紛議仲裁機関」の設置を提言する。

 経営者も公共性・道徳性への意志を強く意識し、持っていなければならないのは当然である。劣悪な労働環境を放置したり、低賃金や安易な解雇によって金儲けをしようとしたりするのは、経営者としての責任と義務を放棄している。企業家の傲慢な態度と労働者抑圧が革命を惹起するのではないかという危惧は、ある程度まで資本主義諸国の間で共有されている。しかし、他国と比較して、日本政府に対応は時代錯誤と言っていいほどである。

 1902年、アメリカで、無煙炭坑夫14万人のストライキが勃発した際、セオドア・ローズヴェルト大統領は労使の代表をホワイトハウスに呼び、調停を試みる。ところが、経営者側は一切の妥協を拒否するのみならず、逆に、軍隊を派遣して、ストを鎮圧して欲しいとこの史上最年少の合衆国大統領に懇願する。会談後、激怒した革新主義者を自認する大統領は、政府が高山を没収し、軍隊を石炭生産のために派遣する用意があると言明する。恐れをなした経営者たちは、慌てて、調停案の受け入れに応じる。

 この共和党の大統領は、社会的・経済的問題について、公共の利益のために政府が積極的に関与しなければならないと主張し、それを公平政策、すなわち「スクエア・ディール(The Square Deal)」と命名している。こうした公平たらんとした動機は、社会不満の高まりが革命を誘発するのではないかという懸念である。

 「スクエア・ディール」は、テディ・ベアの遠縁のフランクリン・D・ローズヴェルト大統領が自身の政策を名付ける際に、拝借される。それは後に「ニュー・ディール(New Deal Policy)」として知られ、さらに、現在ではバラク・オバマ大統領の打ち出す「グリーン・ニュー・ディール(The Green New Deal)」にまで引き継がれている。

 ところが、日本政府はこうした世界の流れを見ようともしない。1919年、「国際労働者代表会議(ILO)」が創設される。これは、国際的に協調して労働者の権利を保障していくことを趣旨とした国際連盟に属する機関である。しかし、その日本代表の人選をめぐって労資が激突する。何と、政府が推した候補者は鳥羽造船取締役の桝本卯平である。当然、湛山は、資本家を労働者の国際会議に送りこもうとする態度を厳しく批判している。次に政府が用意したのは、信じがたいことに、京都帝国大学教授の戸田海市である。またも、湛山は、この人物が官僚の御用学者であって、労働者と無関係ではないかと語気を強めている。

 そこで、同年9月、農商務省と内務省は、人選を協議員会議の採決に委ねることに決める。しかし、性懲りもなく、政府が協議員の大多数を資本家寄りの人物に裏工作したため、桝本卯平など傀儡の候補者が選出されてしまう。協議員の一人だった鈴木文治友愛会会長は、このヤラセに対し、退席を持って抗議している。さらに、鈴木は、ILOの創立に尽力したアメリカ労働総同盟会長サミュエル・ゴンパーズに、桝本らを拒否して欲しいと働きかける。しかし、この行動は、国の恥を他国に知らしめるなどもっての他だと井の中の蛙のようなジャーナリストから批難される。

 湛山は、協議員による選出された候補者を無資格と切り捨て、鈴木の行動にエールを送っている。大海を知らない島国根性の持ち主に反論する。労働者のリーダーが資格を国外で争う姿勢を示せるというのは労働問題を真に理解しているからであり、それは国辱どころか、国の誇りでさえある。

 湛山は、1919年9月から、『新報』の社説において、「サンケー報告」や「ホイットレー報告」など英国でまとめられた労働問題に関する各種の報告書を紹介し、独自の労使協調論を展開する。特に、労使協調委員会の提出した後者から多大な影響を受けている。

 ハーバート・ヘンリー・アスキス自由党内閣は。1916年、ジョン・ヘンリー・ホイットレー下院議員を委員長とする「労使協調委員会」を設置する。同委員会は、17年3月、10月、18年1月、7月の四回にわたり、五つの報告書を作成し、政府に選択させている。労資双方の代表の意見を交換する組織の設立の必要性が唱えられている。それは「全国労資産業会」・「地方産業会」・「工場委員会」の上下関係を持つ三つの組織によって形成されているという特徴がある。

 湛山はホイッとレー報告を参考にしながら、それを拡張する。同等の権利義務を有した雇用者の組織と労働組合を同時に発展させ、労働者の労働条件・経営状況に関する監督権ならびに団結権を保障する。これはホイットレー報告を踏襲しているが、湛山はそこでは曖昧なままの労働者への経営権開放を付け加える。

 第一次世界大戦下の総動員体制によって、ウッドロー・ウィルソン大統領のアメリカでは連邦政府への権力・権限の集中とその効率化が進む。政府は戦争遂行のための統制を強化する。と同時に、アメリカ労働総同盟などの労働団体や女性団体、黒人支援組織といった社会集団を代表する組織と連邦政府との間で協調関係が築かれる。ただし、アメリカ社会党や世界産業労働者組合などの急進的労働者組織には破壊的な弾圧を加えている。合衆国憲法修正第18条が発行された禁酒法の施行された1919年11月、鉄鋼ストが勃発すると、労資は激しく対立した挙げ句、連邦政府は武力鎮圧に踏み切っている。

 湛山はこうした衝突を避けるべく、1920年1月、「如何にして此労働不安を除くべき」と題する社説を5回に亘って連載する。彼は、子の中で、労働者も経営参加するための「経営委員会」を認める産業民衆化論を唱えている。

 湛山は経営権の解放はもはや不可避であると指摘する。けれども、それは経営権を労働者への譲渡を意味しない。経営のノウハウは経営者の方にやはり蓄積されている。経営委員会に経営権を持たせることが労働者への経営権の開放である。経営権の開放には「営業に関する技術上の事項」と「従業者の従業条件に関する事項」の二つが含まれる。ホイットレー報告は後者に主に焦点があてられているが、湛山は前者も重視すべきだと主張する。営業方針・計画や業務の分担、採用ならびに解雇の決定、原材料の選択、イノベーション、商品販売など「技術上」の項目の管理権限を経営委員会に委任する。

 労働者が経営に参加し、情報を雇用主と共有することで、責任と義務を負うことになる。労働者の強い動機付けは企業活動にとって非常に有益である。また、それによって、公共の福祉への自省心が喚起され、階級対立を止揚でき、暴力革命を回避できると考える。経営委員会を通じて、労資の信頼関係が構築され、意思決定はボトムアップ型とトップダウン型が弁証法的止揚された極めて民主的なものになる。

 さらに、湛山は労働問題に関する海外の情報を入手・分析し、有志を募って「労働問題研究会」を開催して研究している。英国での週休五日制の実験結果を紹介したり、市電など公益性の高い分野の労働者のスト権を容認したり、労働争議仲裁裁判制による労働争議の防止策・解決策を説いたりするなど積極的に誌面を通じて意見を表明している。

 現代の労務管理思想はフレデリック・テーラーの『科学的管理法』に由来する。1856年にフィラデルフィアの資産家の息子として生まれながら、たたきあげの技師の道を選んだテーラーは労働者を集団から分離し、抽象的な目標に向かって競争させる。また、工場内秩序を均質化し、計画室に権限・情報を集中して、すべての仕事の手順を分解して最適化を図り、簡単にする。この中央集権的な管理システムは湛山の経営民衆化論とは正反対である。

 実は、1919年から内務省などの主導により軍工場や官営工場を中心に工場委員会制が始まっている。しかし、これは、労働組合の合法化が避けられないとしたら、今のうちにその機能を工場委員会に吸収させ、組合を骨抜きにするのが目的の組織である。ホイットレー報告のものとは似ても似つかない。湛山はこのまやかしを糾弾する。結局、資本家とその味方の政府は労働組合を承認する気などなく、守りたいだけだ。工場委員会は資本家の考えを追認する儀式であって、労資双方による議論を通じた意思決定の場ではない。しかし、労使の地位はあくまでも対等でなければならない。こういう頑迷な態度が労働争議を誘発し、こじらせてしまう。労働争議を円滑に解決するのは、湛山によれば、労資双方が社会的制裁力を考慮し、道徳的な自省を持つことである

 1920年代に入り、戦後不況を迎えると、労働運動をめぐる動きが湛山の意見とは違う方向に進む。経営者たちの頑迷な態度は改まらず、労働争議が頻発し、次第に、労働運動は直接行動へと急速に傾斜していく。1920年2月、八幡製鉄所で労働者1万数千人が参加した労働争議が勃発し、4月、要求がほぼ貫徹されて終了する。この年の5月、第一回メーデーが開催される。また、翌21年7月、神戸の2箇所の三菱・川崎造船所において、3万5000人が加わった大争議が起こる。その後、足尾鉱山、釜石・日立鉱山、三菱長崎・石川島造船所などでも労働争議が沸き起こる。1922年7月、コミンテルンの指導の下、堺利彦や山川均等が中心となって日本共産党を結党する。9月、日本労働組合総連合創立大会において、大杉栄らアナーキストの唱えるアナルコ・サンディカリズムと山川均らのボルシェビズムの間で、激しいアナ=ボル論争が繰り広げ、結成は失敗に終わる。以降は、直接行動のアナ派が衰退し、階級闘争を掲げるボル派が急進的労働運動の主導権を握る。21年、日本労働総同盟に発展し、社会民主主義路線から階級闘争主義へと転換している。湛山は、この間に、労働問題から距離をとり始め、『新報』での言及も激減する。

 嵐山は労働問題への関心を失ったわけではない。以降の労働運動は急進化と保守化の二分を反復するだけに終始し、展望に乏しく、湛山が発言をすること自体あまり意義のある状況ではなくなっている。1925年、日本労働総同盟は左派を除名処分とする。追い出された共産党系は、同年、日本労働組合評議会を設立し、大争議を指導するが、28年、当局の弾圧によって解散に追いこまれる。日本労働総同盟も分裂を繰り返し、その度に、体制の御用組合の色彩が濃くなっている。40年、大日本産業報国会の成立に強調し、日本労働総同盟は解散する。労働組合も完全に大日本主義を推進める戦時体制に協力し、大政翼賛会に加わっていく。これが戦前の労働運動の到着点である。

 今日から見て、湛山の労資協調論は、第二次世界大戦後に欧州の国々で実施されたネオ・コーポラティズムといくらか共通している。しかし、彼の主眼は労働問題が経営者と労働者のコミュニケーション不足から生じているという点にある。労働者からのコミュニケーション・チャンネルが閉ざされているから、ボルシェビズムの暴力革命やアナルコ・サンディカリズムの直接行動に労働者が傾斜してしまう。労働問題は経済的・政治的ではなく、コミュニケーション的問題である。ユルゲン・ハーバーマスは公共性の問題をコミュニケーションから再検討したが、後に討議民主主義を提唱する湛山ならではの労働問題観だと言わねばなるまい。労資双方がコミュニケーションを重ねて習得した公共性・道徳性への意志を持ち、それが労働争議の防止・解決に働く。労働問題をそうしたコミュニケーションとして考察する試みは、現代においても再考すべき発想であろう。