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江戸・南品川短訪
 
 
品川歴史博物館⑦ 
品川の生活と文化の歴史


青山貞一
Teiichi Aoyama  
池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年10月20月
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
総合目次
①品川歴史館   ②品川宿  ③中世の品川  ④中世の寺院 天妙国寺1  
⑤中世の寺院 天妙国寺2  ⑥中世の寺院 天妙国寺3  ⑦品川の生活と文化
⑧庭園・茶室・書院1  ⑨庭園・茶室・書院2  ⑩庭園・茶室・書院3

⑪今の天妙国寺を視察  ⑫天妙国寺の庭園と茶室  ⑬天妙国寺の歴史・寺宝
⑭鈴ヶ森刑場跡1  ⑮鈴ヶ森刑場跡2  ⑯鈴ヶ森刑場跡3  ⑰鈴森山大経寺 
⑱旧東海道品川宿まち歩き  ⑲<参考>安田善次郎


◆原始から古代の品川

縄文・弥生時代

 東五反田5丁目付近にある、縄文時代早期から前期の遺跡である池田山北遺跡や、西五反田の桐ケ谷遺跡が区内で最も古い人々の営みにあたります。

 その後、縄文時代前期になると、居木橋遺跡など目黒川沿いで集落が営まれ、貝塚や住居址が発掘されています。縄文時代後・晩期の遺跡には大森貝塚があります。弥生時代後期に、目黒川左岸の池田山北遺跡に大規模な環濠集落が営まれていました。


住居跡
大井鹿島遺跡の住宅跡地を型取りし、館庭園に移したもの。
出典:品川歴史館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


弥生式土器
出典:品川歴史館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

池田山北遺跡出土の縄文土器 深鉢


古墳時代から古代

 現在の大井3・4丁目付近にはかつて6世紀後半の古墳群が存在していました。古代になると、現在の大井6丁目付近一帯には大井駅が存在していたといわれています。

 この駅は駅家(うまや)と呼ばれており、役人に人馬や食料を供給した施設です。現在、明確な資料は残っていませんが、品川歴史館の場所には、発掘調査で古墳時代から奈良時代にかけての集落(大井鹿島遺跡)が営まれていたことが判明しました。現在、周辺から同時期の集落が見つかっていないことから、この集落は大井駅との関連性が考えられています。


品川区の大森貝塚
出典:Wikimedia Comons

 1877年(明治10年)6月17日に横浜に上陸したアメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、6月19日に横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、政府の許可を得た上9月16日に発掘調査を行いました。助手ら3人とともに土器、骨器、獣骨を発見し、9月29日にも訪れ、10月9日から本格的な発掘を行いました。

 1955年(昭和30年)3月24日には、国の史跡に指定されました。モースらの発掘した貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片などの出土品は東京大学に保管されており、1975年(昭和50年)に全て国の重要文化財に指定されています。


「大森貝塚とモース博士」と「東海道品川宿」の2つのテーマを柱に、
原始・古代から近現代までの品川区の歴史を分かりやすく展示しています。
モース貝塚
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


◆中世の品川

平安時代末から鎌倉時代の品川

 品川区域のことが文献資料に現れるのは、平安時代末の12世紀後半からです。大井氏とその一族の品河氏がいまの品川区域を支配していました。両氏は源平争乱を経て、鎌倉幕府の御家人となりました。品川区域の大井氏の所領は13世紀末には執権の北条氏一門の手に移りました。

室町時代から戦国時代の品川

 室町時代になり、品河氏の所領は鎌倉公方のものとなります。さらに関東管領上杉氏の支配を経て、小田原の後北条氏が品川区域を治めます。

 このように時代の有力者が品川区域を支配下に置いた理由のひとつは、品川が江戸内湾(東京湾)有数の湊だったためです。目黒川河口付近にあったと考えられる品川の湊は、紀伊半島・東海地方と関東を結ぶ太平洋海運と江戸内湾を経て、旧利根川水系・常陸川水系経由で北関東や東北へ続く流通路の結節点でした。

 品川は港町として栄え、品川のまちには、関東への布教拠点として、各宗派の寺院が建てられ、有徳人(うとくにん)と呼ばれた裕福な商人・海運業者は、寺社に土地や建物を寄進しました。現在、北品川・南品川にある寺院のほとんどはこの時期に建立されたものです。江戸時代の品川宿の骨格はこの時期に出来上がったものです。


説常滑焼の大甕
区内北品川の御殿山から発見されたもので、15世紀前半、愛知県常滑で
作られたものです。当時、このような甕が海運で日本各地に運ばれていたた
め、品川の湊との関連が考えられています。
出典:品川歴史館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



出典:品川歴史館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



「品川 日乃出」 歌川広重 『東海道五十三次』 より 御殿山の麓を通過する
大名行列の最後尾を描いている。
出典:Wikimedia Commons


◆近世の品川

 天正18年(1590)、後北条氏が滅び、徳川家康が江戸に入りました。以後幕末まで品川区域は徳川氏が支配します。品川の宿は東海道第一番目の宿場として栄え、農村部は江戸に野菜などを供給する近郊農村となりました。また海岸部は、江戸内湾の魚介類を獲ったり、海苔を養殖する漁村となりました。

東海道品川宿

 品川宿は東海道第一番目の宿場として整備され、参勤交代の大名や旅人、朝鮮通信使など多くの人々が行き交う場所でした。

 一方で宿場には多くの飯売旅籠屋が立ち並び、「北の吉原 南の品川」と並び称されるように、遊興のまちとしての側面もありました。

 また、品川宿周辺には御殿山の桜、海晏寺の紅葉、品川沖の潮干狩りなどの行楽地があり、その様子は浮世絵に多く残されています。


元禄年中江戸図
出典:品川歴史館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


農業

 近世の品川は東海道品川宿や猟師町を除く大半が農村でしたが、目黒川・立会川流域の平坦地以外は大部分が台地であり、干ばつに悩まされていました。

 しかし寛文4年(1664)に三田用水が、寛文9年(1699)に品川用水が整備されると耕地が広がり、居留木橋南瓜、戸越の筍、大井の人参、品川蕪といった江戸野菜(江戸近郊で栽培されていた在来種の野菜)が多く栽培されました。

品川用水模型の写真

品川用水模型

 いまの区内小山2丁目にあった 「地蔵の辻」付近の模型です。


出典:品川歴史館

 たけのこ掘りの道具 ヘラ(左)とノミ(右)の写真です。

 土をヘラで掘り、たけのこを根から切り離す時にノミを使いました。


たけのこ掘りの道具 ヘラ(左)とノミ(右)
出典:品川歴史館


漁業

 江戸内湾で本格的な漁業が行われたのは江戸時代以降のことです。品川区域には南品川猟師町(品川浦)と大井御林猟師町(大井御林浦)の2つの純漁村ができ、江戸城に魚を納める「御菜肴八ヶ浦」として発展しました。

 また18世紀はじめには海苔の養殖が始まりました。品川で作られた海苔は浅草の海苔問屋に運ばれ、「江戸名産浅草海苔」として全国に知られました。海苔ひび(海苔を育てるために海中に立てる木の枝)が海に立ち並ぶ様子は、浮世絵の題材としても取り上げられています。


桁船(けたぶね)模型の写真
出典:品川歴史館


桁船(けたぶね)模型
出典:品川歴史館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


鯨塚

 利田神社は、江戸前期に沢庵和尚が弁財天(洲崎弁天)を祀ったことが始まりと伝わっています。もともとは旧目黒川の河口の海に突き出た砂洲に祀られていた弁天社で、江戸名所図会や歌川広重の浮世絵にも描かれています。明治に変わり利田神社となり、現在の祭神は市杵島姫命。利田の名は、当時この辺りの開発に尽力した利田利兵衛の姓から取ったものです。

 境内にある鯨塚は、江戸を驚かせた三大動物の一つ「寛政の鯨」の骨を埋めた上に建てられた供養碑です。寛政10年(1798)5月1日、品川沖で体長九間一尺(約16.5メートル)、高さ六尺八寸(約2メートル)の鯨が現れ、品川の漁師たちが捕獲しました。この大鯨は江戸中の評判となり、11代将軍徳川家斉が浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で上覧されたほどの大騒ぎとなりました。

 鯨塚碑の正面には谷素外の俳句「江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨」が刻まれています。東京に現存する唯一の鯨碑です。

 出典:しながわ観光協会


撮影;青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-10-28


撮影:池田こみち iPhone 2019-10-28


出典:YK グーグルマップストリートビュー


撮影;青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-10-28


撮影:池田こみち iPhone 2019-10-28


撮影;青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-10-28


出典: 西谷廣 グーグルマップストリートビュー



鮫洲(さめず)の名の由来

 鎌倉時代に、ある漁師が観音様を懐にいれ、品川の海で漁をしていたところ、鮫に襲われたが一命を取り留めましたた。しかし、ふところにいれた観音様がなくなっていました。その後、死んだ鮫の腹の中から観音様がでてきました。時の、執権の北条時頼がこれを聞いて、安置せよと寺領を与えて開基したといいます。

 出典:【東京23区の地名の由来 金子勤 幻冬舎】

 江戸時代の俗称地名。建長3年(1251年)に品川沖に大きな鮫が浮いていました。ある漁師が近づいてみると鮫は死んでいました。その鮫を陸に引き揚げて腹を割いたら木製の観音像がでてきたことに由来します。

 出典:【お江戸の地名の意外な由来 中江克己 PHP研究所】  

 「さみず」という言い方が一般的でした。観音様の木像を腹中にした鮫の頭を埋めたから、鮫頭(さめづ)と言った説や、海岸に真水の吹き出すところがあったので砂水(さみず)と言ったなどの説があります。

 出典:【江戸東京地名辞典 芸能・落語編 北村一夫】


青物横丁の名の由来

 「青物横丁」は、江戸時代にこの地に農民が野菜(青物)を持ち寄って市場を開いたことに由来します。

 江戸時代、東海道五十三次の一番宿として旅人に親しまれていた品川宿。品川は、大井・大森・蒲田と共に、半農半漁で栄えてきた村落で、収穫された野菜は農民が自分で持ち寄って取引していました。
それが市場として発展し、「青物横丁」と呼ばれるようになりました。

 この市場は規模を広げ、大きな八百屋が軒を連ねるまでに展開し、昭和の初期まで賑わいました。

 元々この地域の歴史は古く、平安から室町時代にかけて建てられたお寺が現在も多数存在しています。弘法大師空海が開山し平安時代創建の「品川寺(ほんせんじ)」、鎌倉時代創建の「天妙国寺」は有名です。他にも、江戸六地蔵に数えられる高さ約3mの巨大地蔵や、樹齢三百年超の大銀杏、四代将軍徳川家綱寄進の大梵鐘なども名所になっています。また、新撰組の土方歳三が定宿としていた茶屋「釜屋」跡地もあり、江戸を偲ぶ文化遺産が今も沢山残っています。

 出典:東京散歩


出典:Wikimedia Commons


幕末の品川

 嘉永6年(1853)6月にアメリカのペリーが江戸湾浦賀に来航したことを機に、幕府は新たな江戸湾防備の拠点として西洋式の海上砲台・品川御台場を築造しました。また、安政5年(1858)のアメリカをはじめとする諸外国との修好通商条約締結を機に幕府が派遣した、安政7年の遣米使節団と文久元年(1861)の遣欧使節団の発着地は品川沖でした。

 その後、攘夷派浪士による品川御殿山英国公使館の焼き討ち事件、慶応2年(1866)の品川宿での打ちこわしなどが起こり、品川は幕末動乱の舞台となりました。


近代の品川

品川と工業・都市化


 明治時代に入り、明治政府は中央集権体制を確立するため鉄道の建設や次々と産業を興しました。品川では、明治5年(1872)に新橋~横浜駅の鉄道開業に伴い、品川駅が建設されました。一方、近代産業ではガラス工場が明治6年(1873)品川硝子製作所として誕生し、数多くの製品や職人が生まれました。明治後期以降、目黒川沿いに工場が次々に建てられ、人口は急速に増加し、様々な産業が品川で誕生しました。

 一方、大井付近は、大井町駅開業と大正時代に新橋から鉄道の整備工場が移転してきたことにより、人口や都市化が急速に進み、現在の街の原型が出来上がりました。大正12年(1923)の関東大震災により、家を失った人たちの多くが荏原地区に移り、同地区の都市化が急速に進みました


金赤色被桜文ガラス花瓶
出典:品川歴史館


戦時下の品川

 太平洋戦争が激化するにつれて、日本本土も空襲の脅威にさらされるようになりました。昭和19年(1944)、国民学校学童(現在の小学生)を戦火から守るために学童集団疎開が始まると、旧品川区の学童は三多摩地区へ、旧荏原区の学童は静岡・富山・青森へと疎開していきました。

 品川地域は空襲で大きな被害を受け、中でも旧荏原区は広い範囲が罹災しました。


 以下は近世から中世における荏原郡の地図です。


出典:KUGAI

 以下は中世(江戸時代)の荏原郡です。


出典:KUGAI



明治時代の荏原郡(品川区、目黒区、大田区、世田谷区)
出典:Wikipdia


 以下は二階の展示室です。


出典:品川歴史館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



出典:品川歴史館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



出典:品川歴史館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


つづく