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江戸・南品川短訪
  

今の天妙国寺を視察

青山貞一
Teiichi Aoyama  
池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年10月20月
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
総合目次
①品川歴史館   ②品川宿  ③中世の品川  ④中世の寺院 天妙国寺1  
⑤中世の寺院 天妙国寺2  ⑥中世の寺院 天妙国寺3  ⑦品川の生活と文化
⑧庭園・茶室・書院1  ⑨庭園・茶室・書院2  ⑩庭園・茶室・書院3

⑪今の天妙国寺を視察  ⑫天妙国寺の庭園と茶室  ⑬天妙国寺の歴史・寺宝
⑭鈴ヶ森刑場跡1  ⑮鈴ヶ森刑場跡2  ⑯鈴ヶ森刑場跡3  ⑰鈴森山大経寺 
⑱旧東海道品川宿まち歩き  ⑲<参考>安田善次郎


今の天妙国寺を視察

 私達は、品川歴史館視察後、近く日ある天妙国寺に向かいました。

 品川歴史館から天妙国寺へは以下のグーグルマップにあるように車で約8分でした。



出典:グーグルマップ


 到着後、分かったのですが、10月12日の池上本門寺のお会式が台風19号の来襲で中止となった後、、天本妙寺では、この日(10月16日)にお会式を開催するということで、境内には提灯や出店が準備をしていました。

 下の写真は天妙国寺のお会式の開催告知です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


 以下は現在の境内案内図です。
私達は、以下の地図中、左上の品川宿の商店街から車で入り、山門前に車を止め、徒歩で境内に入りました。


出典:天妙国寺公式Web 


 下は山門前で車を停めたところの写真です。すでに夜に行われるお会式の縁日の出店が準備をしていました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


 以下の写真は境内に車を止めてから後ろを向いて山門を撮影したものです。

山門


妙国寺の山門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


妙国寺の山門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


 天妙国寺は、顕本法華宗の天妙国寺は、鳳凰山と号し、顕本法華宗の別格山で、江戸時代には、南品川本光寺、浅草慶印寺と共に京妙満寺末触頭三寺でした。弘安8年(1285)に日蓮の弟子中老僧天目が開創、江戸時代には寺領10石の朱印を賜っています。

 この後、本堂に向かいます。

 下の写真は天妙国寺の本堂です。

本堂


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

妙国寺の縁起

 天妙国寺は弘安8年日蓮の弟子中老僧天目が開いた寺です。延元2年4月26日寂しています。

 永享6年5月品川八郎三郎国友は当寺に帰依し、その領内南品川の辺りの芝原若干を寄附しまいた。同8年4月に、前上総介定景は両親の菩提の為、畠地を寄附します。

 同10年7月、同11年11月の二度に憲泰も寺地を寄附しました。ここで寺領も広くなり、法燈も益々盛んとなりました。これは僧日叡の在住の頃です。

 文安元年になり領主沙弥道胤、鈴木光樹の両人が大檀那となって七堂伽藍の建立を企て、17年を経て長禄3年に落成しました。為に日叡を中興開山と称ぃています。文安3年の古鏡銘に、大檀那沙弥道胤と刻され、宝徳2年の文書にも品川の住人道胤と記してあります。

 此後永正14年10月弾正正忠寺に制札を建て、同19年10月左京亮元景畠三段を寄附します。大永4年北条氏綱高輪原合戦の時に制札を出して軍兵の狼藉を戒め、その後天文永禄の数回にわたって北条氏より制札文書を賜りました。

 天正19年東照宮より寺領10石の朱印を賜り、後家光の鷹狩りの時しばしば御立寄りになり、寛永11年11月五重塔修造を命じられ、又新たに本尊及仁王門大門、石垣、石燈籠、小書院等を造立させたと云われています。

出典:猫の足あと



撮影:池田こみち iPhone




撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 本堂の祭壇奥には、白い綿帽子をかぶった日蓮聖人の像が安置されていました。

<参考> 日蓮大聖人が遭われた法難の一つに「小松原の法難」があります。大聖人は現千葉県小湊のお生まれですが、立教開宗後は布教の拠点を鎌倉に構えておられました。鎌倉の地で辻説法をされているときに、故郷にいる母の病の報を聞き、小湊に向かわれたのですが、大聖人を恨んでいた地頭の東条景信が、小松原という地で一行を待ち伏せ、襲撃しました。

 その時大聖人を護ろうとして弟子の鏡忍房は討ち死にし、九死に一生を得た大聖人も、額に傷を負われました。晩年大聖人は身延山に住まわれますが、五尺の雪ふりて本よりかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすく、かん(寒)ふせぎがたし。食たえて命すでに終りなんとす。(上野殿御返事一七二一)とあるように、身延山の冬は厳しく、大聖人の額の傷も病まれました。

 そのお姿を見たお弟子たちが自分の衣の袖をちぎり、大聖人がその袖を頭巾代わりにしたという故事にのっとり、大聖人の尊像には秋のお会式から春の彼岸まで綿帽子をお掛けするのです。

 また、千葉県小湊に日蓮宗の日蓮寺という寺(小松原の法難後、額に傷した大聖人が一夜を過ごされた厳谷の寺)があり、こちらにも綿帽子の由来の話があります。日蓮寺では、綿は三層になっており、額から順に、赤・黄・白の染めた綿を使っておられ、これは大聖人の額の傷の血の色を表すそうです。

 出典:法華宗 仏教質問箱


鐘楼


天妙国寺の鐘楼
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


つづく