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ミュンヘン・オーストリア短訪

ウィーン・リングシュトラーセ

鷹取敦

掲載月日:2017年10月5日
 独立系メディア E−wave
無断転載禁


内容目次
  1 歴史的背景
ミュンヘン 8/12 2 ミュンヘン(1) | 3 ミュンヘン(2)
8/13 4 ノイシュヴァンシュタイン城 | 5 フュッセン| 6 ヴィース教会
ザルツブルク 8/14 7 歴史・ミラベル宮殿 | 8 教会・モーツァルト | 9 レジデンツ・大聖堂
10 ホーエンザルツブルク城 | 11 サウンド・オブ・ミュージック
ザルツカンマーグート 8/15, 16 12 ザルツカンマーグート | 13 ハルシュタット(1) | 14 ハルシュタット(2)
ウィーン  8/16 15 リングシュトラーセ
8/17 16 旧市街・シュテファン大聖堂 | 17 ホーフブルク王宮・美術史博物館
18 シェーンブルン宮殿

 ハルシュタットを出発して1時間10分後の14時に乗換駅アットナングプッフハイムに到着しました。


グーグルマップより作成

 アットナングプッフハイム駅のプラットホームで1時間待ち、15時に出発する列車でウィーン中央駅に向かいます。


アットナングプッフハイム駅・ウィーン行きの列車
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 17時7分頃にウィーン中央駅に到着しました。


ウィーン中央駅 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

■ウィーンの歴史

 現在のウィーンは人口187万人のオーストリアの首都で、ヨーロッパ有数の経済的、政治的、文化的な大都市です。

・ローマ帝国の時代

 紀元100年頃にローマ帝国が征服し、城塞、宿営地が置かれ、ウィンドボナと呼ばれました。帝国の北の境界あたりに位置し防衛の重要な拠点でしたが、ローマ帝国の東西分裂、弱体化にともない、5世紀にフン族、ゲルマン人などによって破壊されました。

・バーベンベルク家

 976年、神聖ローマ皇帝オットー2世は、ウィーンを含む地域をオストマルク辺境伯領としてバイエルンから独立させ、バーベンベルク家の領地となりました。当初、ウィーンは中心的な都市ではありませんでしが、ドナウ川の水運を用いた交易が盛んになり、重要な役割を担うようになりました。

 1155年頃にはハインリヒ2世オーストリア辺境伯(兼バイエルン公)はウィーンに居城を移し、ハインリヒ2世はオーストリア公に昇格されました。

 12世紀の第3回十字軍ではレオポルト5世が帰国途中のイングランド王を捕らえて幽閉することで得た身代金でウィーンの市壁を拡張しました。これが現在の旧市街の範囲となっています。

・ボヘミア王家オットカル2世

 バーベンベルク家の男系が断絶すると、ボヘミア王のオットカル2世がオーストリア公の公位継承権をもつ20歳以上年上の公女マルガレーテと1252年に結婚し、オーストリアの地を得ます。

 神聖ローマ帝国の大空位時代、オットカル2世は皇帝位を目指しますが、強力な皇帝を望まない選帝諸侯やローマ教皇は、1273年、スイス・アルザスなどの小貴族だったハプスブルク家のルドルフをローマ王に選出しました。

・ハプスブルク家

 アーヘンで戴冠を受けて神聖ローマ帝国の皇帝となったハプスブルク家ルドルフがボヘミア王オットカル2世を破ってオーストリア等の地域を得たことにより、ウィーンはハプスブルク家の領地となりました。

 当時のハプスブルク家は弱小であり幾度か反ハプスブルク家の反乱も起きましたが、ドナウ川の水運は引き続き盛んで、商業都市としてのウィーンは発展していきました。

 14世紀に入るとハプスブルク家とウィーン市民の関係も修復され、シュテファン大聖堂等の様々な建造物が改修、建造されました。1365年にはウィーン大学が建設されています。

・ユダヤ人の迫害と利用

 11世紀末より十字軍運動が高揚し、ローマ教皇は異教徒の廃絶の姿勢を強めましたが、歴代の君主は総じてユダヤ人に寛大でした。しかし15世紀前半からユダヤ人への迫害が強められました。1420年から翌年にかけて、フス戦争でハプスブルク家の相手側に武器を供与した疑いで、ウィーンのユダヤ人に対する大規模な迫害が行われました。しかし、ユダヤ人の資本力、商業ネットワークが財政的に魅力的だったため、この後もハプスブルク家はユダヤ人を受け入れて活用しようとしています。

・オスマン帝国によるウィーン包囲とハプスブルク家の東進

 1529年オスマン帝国のスレイマン1世が10万以上の軍勢でウィーン城壁まで迫りましたが、13世紀にバーベンベルク家によって建設されていた市壁(城壁)が堅固だったことと冬の到来により撤退しました。この後、城壁周辺に空き地を設けるなどの備えを強化が1680年まで完了し、3年後の1683年にオスマン帝国による第二次ウィーン包囲に間に合いました。第二次ウィーン包囲の後、旧市街のさらに外側に新たな市壁(リーニエ)が建設されました。

 この後はハプスブルク家とオスマン帝国の力関係が逆転し、ハプスブルク家はドナウ川を東進して、複合民族国家としての「ドナウ帝国」を形成します。神聖ローマ帝国の領域外の異教徒の地にハプスブルク家の領地が広がりました。異教徒との衝突は文化的交流をも引き起こし、ウィーンにコーヒーがもたらされたと言われています。

・ナポレオン戦争と帝国の終焉

 1789年のフランス革命後、1804年にナポレオンがフランス皇帝を、神聖ローマ皇帝フランツ2世はオーストリア皇帝フランツ1世を名乗ります。ナポレオン戦争では1805年のアウステルリッツの戦いにハプスブルク家が敗れ、1806年神聖ローマ帝国は解散し、1809年にナポレオンはウィーンに入城します。ナポレオン失脚の後、1814年よりウィーンで講和会議が開かれました。

、1848年ウィーン大学の学生デモから革命が始まり、皇帝フェルディナント1世はオーストリア帝国の皇帝位を甥のフランツ・ヨーゼフに譲りました。これ以降のウィーンの都市の形成については、次の「ウィーン旧市街・シュテファン大聖堂」の中で述べます。

参考

■リングシュトラーセ(環状道路)

 ウィーンには2泊しましたが、帰国日(ウィーン3日目)は朝早くにホテルをチェックアウトし、空港に向かわなければならないので、実質的にはこの日の17時30以降と、2日目しかありません。そして2日目はシェーンブルン宮殿の見学と宮殿のオランジェリーでのクラシックコンサートを午後から予約しているので、それ以外の時間は昼過ぎまでと限られています。

 そこで、旧市街より南にあるウィーン中央駅から、旧市街より北にあるフランツヨーゼフ駅近くにあるホテルまでの移動(全体で5〜6km程度)のうち、旧市街部分の環状道路(リングシュトラーセ)を歩くことにしました。

 ウィーン中央駅の地下のインフォメーションでウィーンカード(時間内は公共交通機関乗り降り自由、各種割引のカード)の48時間のものを購入しました。最初に駅で利用する時に駅の刻印機でカードに時刻を刻印してから48時間有効となります。


ウィーンカード 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下の写真が刻印機です。ウィーンカードに限らず、切符等もこれで刻印してから有効となるようです。日本でいえば改札の場所に設置されていますが、プラットホームに降りる階段の手前に設置されているだけで、刻印が必要のない人は何のチェックもなく通り抜けられます(特急乗り場のようなところ以外、駅に「改札」がないのはオーストリア以外でも同じです)。


刻印機 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下の地図のウィーン中央駅から地下鉄でカールスプラッツ(カール広場)駅で地下鉄で移動し、赤太線の部分を徒歩で歩き、ショッテントーアからフランツヨーゼフまでトラム(路面電車)で移動しました。

 下の地図(グーグルマップ)に記載した地点名は、この日と翌日に訪れた主な場所です。地図の上から右にかけて流れているのはドナウ川です。


グーグルマップより作成

・内側の市壁・堀割・外側の市壁の位置

 1840年のウィーンの地図を参考にして、上の地図(グーグルマップ)に13世紀に建設された城壁(市壁)の位置を青で、堀割の外側を紫で、さらに外側の市壁(リーニエ)を緑の線で、大まかな位置を描き入れてみました。訪れた場所はほとんど青線と紫線の間に入っていますが、これは偶然ではありません。

・市壁(城壁)と「市内区」・「市外区」(バーベンベルク家時代)

 バーベンベルク家の統治時代に建設された旧市街の市壁(青線)の内側がいわゆる旧市街(=市内区)で、貴族や大商人が住んでいました。堀割の外側(紫の線)とリーニエ(緑の線)の間に市街地(=市外区)が広がっており、手工業者、営業者などの小市民の街でした。

・堀割の建設(第一次ウィーン包囲後)

 青の外側の線と紫の線の間が幅の広い堀割で、オスマン帝国軍による第一次ウィーン包囲の後に、城壁の上からオスマン軍を迎え撃つことができるように設けられた空き地です。広い堀割になっていれば、城外から攻撃する方は身を隠すところがなくなるわけです。

・リーニエ(第二次ウィーン包囲後)

 オスマン帝国軍による第二次ウィーン包囲の後、「市外区」の外にさらに市壁(リーニエ)が建設されました(上の地図の緑の線)。リーニエ(緑の線)の外側はもやはウィーンではなく、ギルド規制を受けなかったので、工場や手工業等が建てられていきました。現在はリーニエに沿って環状道路があります。ウィーン中央駅はリーニエ(緑の線)のすぐ外側に位置しています。

・リングシュトラーセの建設(経済発展の時代)

 カールスプラッツからショッテントーアまで徒歩で環状道路を移動しましたが、地図をみるとこれは当時の市壁あたり、主要建築物は堀割の場所に建設されているのが分かります。王宮、王宮庭園、大聖堂は市内区にありました。

 1848年の革命運動でオーストリア皇帝フェルディナント1世は甥のフランツ・ヨーゼフに皇帝位を譲りました。革命は鎮圧され、市民階層は政治を離れて経済活動に精を出し、1850年代は経済発展の時代となります。

 中世以来の城壁(市壁)はオスマン軍の包囲からウィーンを護りましたが、この時代にはむしろ経済発展の妨げになり、また1848年の革命では革命勢力に有利になったこともあり、城壁の撤去と環状道路(リングシュトラーセ)の建設が議論されるようになりました。

 1870〜1880年代に、最初は宮廷施設の一部としてオペラ座、美術史博物館、自然史博物館が建設され、その後、証券取引所、楽友協会、造形美術アカデミー、市庁舎、ヴォティーフ教会等が建設されました。

 市庁舎はゴシック様式、ブルク劇場は初期バロック様式、大学はルネッサンス時代の様式、国会議事堂はパルテノン神殿を模してギリシア様式で建設されています。

 これらのリングシュトラーセに建築された建物を、カールスプラッツ駅からショッテントーアのトラムの駅まで歩いた順番に見ていきます。

・オペラ座

 カールスプラッツ駅のすぐ北側に国立オペラ座があります。パリ、ミラノの並ぶ三大オペラ劇場の1つで1869年にモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」でこけら落としが行われました。

 ちなみにオペラ座の裏(下の写真の右手奥)がウィーンのホテル・ザッハーです。


オペラ座 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

・ブルクガルテン(王宮庭園)

 ブルクガルテン(王宮庭園)は、リングシュトラーセ建設のタイミングで造られたものではないと思いますが、オペラ座から一ブロック離れて隣接した場所にあり、リングシュトラーセ側に入口があったので立ち寄りました。

 オペラ座と王宮の間に王宮庭園(ブルクガルテン)があり、リングシュトラーセから一般市民も自由に出入りできます。庭園の前に文豪ゲーテの像、中に皇帝フランツ・ヨーゼフ、モーツァルトの像などがあります。


ブルクガルテン前のゲーテ像 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下のモーツァルト像の左側に見えるのは王宮の正面右側にある新王宮の建物です。ブルクガルデン内は一般の人が自由に散歩しています。このモーツァルト像は、かつては国立オペラ座の裏にある「カフェ・モーツァルト」の前にありました。(参考


ブルクガルテンのモーツァルト像 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

・美術史博物館・自然史博物館

 王宮から向かって左側に美術史博物館、広場中央にマリア・テレジア像、右側に自然史博物館があります。下の写真のように全く同じデザインで左右対称に建てられているのでどちらの写真か判別が難しいくらいです。

 美術史博物館は現在はウィーン大学の一部であり、古代から19世紀に至るヨーロッパ各地の美術品を収蔵しています。建物はネオ・ルネサンス様式です(参考)。翌日(ウィーン2日目)に見学しました。


美術史博物館 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 自然史博物館と美術史博物館が向かい合っている広場の中央にはマリア・テレジアの像があります。


美術史博物館と自然史博物館の間のマリア・テレジア像
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下の写真の自然史博物館は、国有ですが運営は民間団体によって行われています。神聖ローマ皇帝フランツ1世が1748年に購入したコレクションが起源で、フランツ・ヨーゼフ1世が1876年に帝国自然史博物館として設立し、1889年に公開されました。


自然史博物館 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

・国会議事堂

 下の写真のとおり、国会議事堂は民主主義発祥の地とされるギリシアのアテネに因み、パルテノン神殿を模したギリシア様式です。


国会議事堂 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下の写真をみると議事堂の中央部はパルテノン神殿を模していることがよく分かります。屋根の上部に並んでいる像はギリシャ・ローマの学者と政治家達です。写真右側(建物正面)は、女神パラス・アテナの噴水の像で、像の周りにはオーストリア=ハンガリー帝国の地域にまつわる寓話の彫像が並んでいます。(参考


国会議事堂 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

・ウィーン市庁舎

 下はウィーン市庁舎前の広場で奥の建物がゴシック様式の市庁舎です。ウィーン市庁舎の建物のまわりは庭園になっており、他の建物と異なり、リングシュトラーセからセットバックした形になっています。

 市長の執務および市議会の庁舎として利用されていますが、ウィーンは単独で州と同じ地位を有しているため、市議会は州議会と同等の位置づけと言えます。(参考

 6月30日〜9月3日まで、市庁舎前では音楽映画祭が行われ、大変賑わっていました。様々なジャンルの音楽映画がオープンエアの大型スクリーンで上映され、まわりでは世界25カ国の食べ物を提供するスナックスタンドが並んでいます。(参考


ウィーン市庁舎 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

・ブルク劇場

 市庁舎の向かい、リングシュトラーセの内側に面して初期バロック様式のブルク劇場があります。1741年に最初の建物が建設され、現在の位置には1888年に完成、1945年の爆撃と火災で焼失し、1955年に再建されました。ヨーロッパでも超一流の劇場です。(参考

 1937年にはブルク劇場を舞台にした、名優フリードリヒ・ミッテルヴァルツァーをモデルとした同名のタイトルの映画が公開されています。(参考


ブルク劇場 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

・ウィーン大学

 市庁舎の北側に隣接してルネッサンス時代の様式のウィーン大学があります。ウィーン大学は1365年にオーストリア公ルドルフ4世によって創立されたドイツ語圏最古の大学です。現在の校舎は19世紀後半に建てられたものです。

 当時、ルドルフ4世の当時ハプスブルク家はルドルフ1世、アルブレヒト1世、フリードリヒ3世の3人の神聖ローマ皇帝を輩出した名家となっていました。ルドルフ4世は神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世の孫にあたります。ルドルフ4世は、シュテファン大聖堂、ウィーン大学などさまざまなものを建設し、「建設公ルドルフ」と呼ばれています。(参考


ウィーン大学 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

・ヴォティーフ教会

 ウイーン大学に隣接した公園の隣(リングシュトラーセからみて1ブロック後退した位置)にヴォティーフ教会があります。ヴォティーフ教会は1856〜1879年にかけて建設されており、他のリングシュトラーセ沿いの建物と同時期に建設されています。

 1853年に皇帝フランツ・ヨーゼフがハンガリー愛国主義者である仕立物師による暗殺未遂事件から無事に逃れられたことを神に感謝し、弟のマクシミリアン大公(後のメキシコ皇帝)が市民に呼びかけによってネオ・ゴシック様式で建てられました。この暗殺事件の後、皇帝フランツ・ヨーゼフは市民から親しみを持たれるようになります。(参考 1参考2


ヴォティーフ教会 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 ヴォティーフ教会前のトラム乗り場(ショッテントーア)からトラムに乗り、フランツヨーゼフ駅で降り、ホテルにチェックインしました。

・楽友協会

 リングシュトラーセの建物で翌日(ウィーン2日目)に訪れたのが、楽友協会です。

 19世紀半ばまでウィーンには大規模なコンサートホールがありませんでした。増加する聴衆に対応するため、クラシック音楽関係者の団体である「楽友協会」の関係者らが、リングシュトラーセ建設に際して、大規模なコンサートホールの建設をフランツ・ヨーゼフ1世に誓願したところ敷地を与えられ1870年に竣工しました。(参考


楽友協会 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 以上、リングシュトラーセが建設されたウィーンが経済的、文化的に大きく発展した時代の建物を見てきました。

 下にグーグルマップの3次元表示で位置関係を示します。右上を横切っている川はドナウ川です。リングシュトラーセの部分は元の堀割の向きに沿って(写真右下から左に向かい、さらに上の方へ)、大きな建物が並んでいるのが分かります。


グーグルマップより作成

 オーストリア帝国は、この間、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国二重帝国となっています。帝国内において移動の自由、営業の自由が許されたことで、人々の移動は活発になり、ウィーン、プラハ、ブダペスト等の帝国の大都市に、帝国内から人々が集まり、経済の発展とともに東西の諸文化の交流により文化の発展が見られ、国際的文化都市となりました。

 歴史的に国際的なネットワークをもち、民族的多言語に堪能で財産と供用のある同化ユダヤ人(現地社会に「同化」したユダヤ人)が文化の主要な担い手でした。なお、「ドレフュス事件」が示す様に、「同化」が差別の解決策とならなかったことは、ハンナ・アーレントが「全体主義の起源」で指摘しているところです。
(参考:増谷英樹・古田善文「図説オーストリアの歴史」)

 翌日は帰国日の前日、事実上の最終日です。午前中に旧市内のシュテファン大聖堂などを巡り、午後にシェーンブルン宮殿に向かいます。

つづく