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スティーブ・ジョンソン氏講演
参加記


鷹取 敦

掲載日:2006年12月24日


 NPO論や自治体論、市民社会のガバンナンスについて長年、実地に調査、研究されてきた岡部一明氏(東邦学園大学)がコーディネートし12月8日〜12月23日の長期間にわたり全国で開催されたスティーブ・ジョンソン氏の東京の講演に参加した。

 東京講演は科研費補助金事業研究成果公開発表の基調講演として日本社会情報学会の主催により東京国際フォーラムにおいて行われたものである。

 以下は、岡部一明さんによるスティーブ・ジョンソン氏の紹介。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/sjohnson/
『ポートランド(オレゴン州)は、アメリカで最もNPO型の社会が成功している街と言われます。活発なアドボカシー活動、行政への強力な市民参加、街づくりの全米モデル、実質的な力をもった近隣組合制度などなど。アメリカの生み出した新しい市民社会モデルの最先進事例、そのガバナンスの到達点がここにあると思われます。このポートランドから、NPOやソーシャルキャピタル論に詳しいスティーブ・ジョンソン博士(ポートランド州立大学都市研究プランニング学部教員Adjunct Professor)が、日本社会情報学会の招きで2006年12月に来日しました。』

 シンポジウムは、スティーブ・ジョンション氏の基調講演と、スティーブ・ジョンソン氏、岡部一明氏、福田豊氏(電気通信大学)、須藤修氏(東京大学)によるパネル討論によって構成された。

 スティーブ・ジョンソン氏の基調講演のタイトルは「Engaging Citizens and building Social Capital: The Exceptional Civic Story of Portland Oregon and the Role of Information Technology」である。

 "Exceptional Civic Story of Portland" の "Exceptional" が何を意味するかと言えば、現在のアメリカにおいて市民参加が実質的に後退しつつあるのに対して、ポートランドでは全米的な傾向とは異なりむしろ市民参加が進んでいるということだそうだ。

 基調講演は市民参加、ソーシャル・キャピタル(いわゆる「社会資本」とは異なる概念、社会関係資本、人間関係資本、社交資本、市民社会資本とも訳される)のあり方と、そこにおける情報通信技術(ICT:Information and Communication Technology)の役割について、ポートランドの実践内容を紹介したものであった。

 社会を安全で安心なものにするためには、政府に依存して「ハードウェア」的な施策では税金の支出が増えるばかりで決して快適なものにはならず、市民参加を進めることにより政府への依存度を増やして、主体的な社会を作る必要があることが述べられ、全米の市民参加は近年、特にTVの普及以降、低下しつつあることが紹介された。ボランティアそしきの数も、パブリック・ミーティングへの参加者も1960〜70年代をピークに、年々低下の傾向を示している。

 対して、オレゴン州・ポートランドでは、3000の市民団体が活動しており、15人に1人が何らかの市民団体に参加して活動を行っており、若い人、起業家の活動もより行いやすい基盤があるという。

 そもそもアメリカの民主主義は Wisdom of Commons(集合智) 市民の智恵を集めることにより人々が協働することができればうまくいくのだという考えに立脚しており、それがうまくいかなければ規則依存、官僚依存、税金依存に陥ってしまうという。

 政治的なリーダーシップは必要だが、そこで求められるのは独善的なリーダーシップではなく、市民参加を促すようなものでなければならないということである。多くの市民、数千人、数万人が参加するのはこれまでは困難だったが、ICT=情報通信技術によって全員参加による意志決定が可能となる。実際に大学のキャンパスの名前をつけるのに広告代理店に頼るのではなく、数千の公募から全員参加で決めたそうである。

 ジョンソン氏の表現によると、ここで重要になるのは(広義の)ハードウェアではなく(広義の)ソフトウェアである。政府・行政がなにからなにまでやるのはハードウェアによるものであり、政府は市民参加のための意志決定の交通整理を行うだけで、実際の意志決定は市民が行うのがソフトウェアによるものである。

 治安の分野でいえば、ハードウェアが警察力に頼ったものであり、ソフトウェアは地域社会を充実させるものである。またごみ問題では、焼却によって何でも燃やしてしまいますよというのがハードウェアであり、市民が自分たちの問題としてごみ問題をとらえリサイクルをしていくのがソフトウェアによる解決であるという。

 ごみ問題の例えのソフトウェアによる解決方法は、つい2ヶ月前にカナダから、2人の専門家を招いて、やはり全国講演会で紹介したノバスコシア州の取り組みそのものである。http://gomibenren.jp/novascotia/nova-summary-2006.html

 対する日本のごみ処理は(狭義の)ハードウェア依存、焼却依存、行政依存で、ジョンソン氏の言う、官僚依存、税金依存のハイコストな政策である。先日のコラム「23区廃プラ焼却『実証確認』のまやかし」は、まさにこれに起因するものだ。http://eritokyo.jp/independent/takatori-col131.htm

 ちなみに青山貞一氏(独立系メディア主唱者、武藏工業大学環境情報学部教授)が最近、東京都町田市の市長、市民団体らに依頼され行った「ゼロ・ウェイスト宣言」に関する講演では、ゼロ・ウェイスト宣言を可能とする条件として、(1)持続的可能社会の構築、(2)地域社会の責任、(3)産業・企業の責任、(4)政治的リーダーシップの4つを掲げているが、まさにそこにおける政治家のリーダーシップは、市民参加を積極的に促すことを含めている。

 情報通信技術(ICT)が市民参加のための重要なツールであるといっても、もちろん現状では課題がある。インターネット、ブロードバンドの普及率は、年代、所得、教育により、米国内では大きな格差(いわゆる「デジタル・デバイド」)があり、これを埋めるための活動も行われている。また、教育環境が恵まれてない人は、同じインターネット環境を手に入れていても市民参加のツールにするのではなく、チャットのようなものにか使わない傾向があるという。一方で、NGOがインターネットを活用する割合は近年急激に伸びており、その有用性は明らかである。

 もう1つの課題として示されたのが、インターネットは「両刃の剣」であるということである。すなわち、インターネットが物理的な境界を取り除き、広く世界へ関心を広げる一方、利用者が得る情報は利用者の価値観による選択的なものになりがちである。また、自分たちの地域・コミュニティへの関心が薄れ、インターネットを通じてのみ世界と接しがちな、ある種の「ひきこもり」となる危険性も指摘された。グローバルな問題への関心が広まっても、ローカルなことへの関心が薄れ、隣家の人との絆を弱めてしまっては、コミュニティに取って逆効果となってしまう。

 これまで発表の場を持たなかった人々がインターネットによって、意思表明をすることが出来るようになった。また、NGOなどの組織の構成はより緩やかとなっていく。例えばインドネシアの津波被害に対しては、救済のための組織が急速に増加し、組織間のつながり・ネットワークも増えた。組織というよりむしろネットワーク化された個人が増えるだろうという。

 インターネットによる意思表明は発表することで対話を怠る傾向はあるものの、8才のガンに苦しんだ少女のサイトにより、半年で6億円もの資金がガン研究のための基金として集まったというのはインターネット無くしては有り得ない。

 ブロードバンドの普及率が上がっていけば、インターネットによるコミュニケーションの質そのものが変化する。

  Wisdom of Commons(集合智)のツールとして、Wikipedia、RSS feeds等が紹介され、インターネットがロングテールへの到達を可能にしたことなどにも言及された。ロングテールへの到達は、amazon などの物品販売だけでない。同じ変化を志す人とつながることが出来るオープンで緩い連携も可能とするという。

 以上が基調講演の概要である。他にも多くの事例や論点について言及された。後段のパネルディスカッションも興味深い論点が多くあったが、ここでは基調講演の紹介だけとしたい。

 本講演のテーマである「市民参加」とは民主主義のあり方そのものであろう。筆者が全国各地で環境問題の現場に接して感じるのは、最終的に問われているこの「市民参加」、すなわち民主主義のあり方であるということである。上記で言及したように、日本においては(広義の)ハードウェア的なアプローチに偏っており、それが問題をより深刻にしている構図にほぼ例外がない。

 「市民参加」とは単に制度の問題ではないし、当然ICT(情報通信技術)の「ハードウェア」的な仕組みの問題でもない。参加する意志のない市民、すなわち主体的な市民のいない社会には「市民参加」は存在しないし、そうなればソフトウェア的なアプローチは存在しないことになる。

 「北朝鮮を嗤えないやらせタウンミーティング」(青山貞一 武蔵工業大学環境情報学部教授)http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col7230.html
でも紹介されている米国の社会学者、シェリー・アーンシュタインによる「参加の梯子」に当てはめると日本の市民参加のレベルは非常に低い。一般的には「形式的な意見の聴取」であり、よくても「形式的な参加の機会の増加」程度である。

 上記コラムで指摘されているように、タウン・ミーティングにおける「やらせ」問題は、最も低い段階である「情報操作による世論誘導」という有様である。米国におけるタウン・ミーティングとは、今回のシンポジウムのパネル議論において岡部一明さんが紹介しように、市民が積極的に参加し激しく議論して意志決定をする過程であった。日本のタウン・ミーティングなるものにおいて「やらせ」が「必要」(と官僚が考えた)背景については、我々国民自身も顧みる必要がある。

 (市民参加の)ツールとしてのICT(情報通信技術)の使い方を研究し、基盤整備を試みるだけでは、それは「ハードウェア的」、「公共事業的」な発想でしかない。本来の「市民参加」とはかけ離れたものにしかならないだろう。