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シンガポール短訪

歴史的背景

鷹取敦

掲載月日:2018年7月20日
 独立系メディア E−wave
無断転載禁


内容目次
  1 歴史的背景
5/3 2 セントーサ島 | 3 ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ
5/4 4 ジョホール・バル(マレーシア) | 5 オーチャード・ロード、ベイエリア
5/5 6 チャイナタウン・リトルインディア・アラブストリート

 連休を利用して機中泊2泊+現地2泊+現地滞在3日でシンガポールを訪れました。2度目のシンガポール訪問です。

 シンガポール共和国は、マレー半島の南端にある東西方向に長い菱形の島で、東京二十三区よりやや広い程度の面積、人口560万人(2017年)*1の都市国家です。


マレー半島南端のシンガポール(Wikipedia Commons)



シンガポール(Wikipedia Commons)

 シンガポールの主要な民族は、中華系74%、マレー系13%、インド系9%(2017年6月)、国語はマレー語ですが、公用語としては英語、中国語、マレー語、タミル語が使われています。主要な宗教は仏教、イスラム教、キリスト教、道教、ヒンズー教という多民族国家です。*2 

 シンガポールは中華系民族(華人)が多数を占めますが、北にマレーシア、南から西にかけてインドネシアという、いずれもマレー系の民族、イスラム教徒が多数を占める国に挟まれ、この両国に水や食料等の供給を依存しています。

 まずはシンガポールの歴史を振り返ってみたいと思います。

■植民地化以前

 7世紀にマラッカ海峡を支配したマレー系海上交易国家であるシュリービジャヤ王国の勢力下にある漁村「テマセク」(海の街)として知られています。14世紀末には「シンガプーラ」(サンスクリット語でライオンの街)と呼ばれるようになりました。*3


シュリーヴィジャヤ王国(Wikipedia Commons)


 1402年にはイスラム系の港市(こうし)国家であるマラッカ王国が建国され交易が活発に行われていました。シンガプーラはその支配下におかれますが、1511年、ポルトガルの侵攻を受けてマラッカ王国は滅亡し、シンガプーラもポルトガルの侵略により壊滅状態となります。マラッカ王国の王族はジョホール王国(イスラム王朝)を建国しシンガプーラはその領土となりますが寂れたジャングルの漁村にすぎませんでした。*4


マラッカ王国(Wikipedia Commons)


 19世紀初頭の島の住民は150人ほどというのが現在の定説で、130人ほどのマレー人が島の南端で漁業を、20人ほどの中国人が内陸のジャングルを開墾して農業を営んでいたと言われています。またマレー半島との間にあるジョホール海峡に面した北部は海賊の拠点だったようです*3

 以下は、おおむね*3を参考資料としています。

■イギリスによる植民地化

 近代になるとアジアはヨーロッパ各国によって植民地化されました。16世紀のポルトガルによるマレー半島のマラッカ占領、スペインによるフィリピンのマニラ占領、オランダのインドネシア・ジャワ島のジャカルタ占領と続き、貿易拠点として確保されていきました。

 イギリスは他のヨーロッパ諸国から遅れてアジアに進出しました。当時すでにマレーシアのマラッカやタイのアユタヤなどの港市国家に東南アジア、中国、インド、中東、ヨーロッパの商人が訪れ交易で賑わっていました。

 インドを植民地化したイギリス東インド会社は、マラッカ海峡付近にインドと中国の寄港地を必要としていましたが、すでにマラッカは1511年にポルトガルが占領、1641年にオランダの支配下に入っていました。

 イギリス東インド会社の職員でスマトラ島の植民地ベンクーレン準知事だったスタンフォード・ラッフルズは、マレー語、ジャワ語などに精通し、ジャワ史を記すなど東南アジアに通じていました。ラッフルズが寄港地として適地な島を見つけ上陸したのがシンガポール島です。当時はイスラムの王朝であるジョホール王国の領土でした。

 ラッフルズは王国のスルタン(国王)の継承争いを利用してシンガポール川の河口付近をイギリス東インド会社領土とすることを認めさせ1819年に条約を結びます。オランダが反対したものの1824年にはシンガポール全島をイギリス東インド会社の領土(植民地)としました。マレー半島のペナンとマラッカも手に入れて、1826年にシンガポールとともに海峡植民地とし、1832年にはシンガポールに行政府を移しました。

■出稼ぎ労働者による人口増

 ラッフルズはシンガポールをどの国の船舶でも無税で利用できる自由貿易港として振興する政策を進め、世界各地から交易船が集まりました。それに伴い中国人、マレー人、インド人をはじめとする出稼ぎ労働者により人口が急激に増加します。植民地化された1819年には150人ほどだった住民が、2017年現在では560万人に増加していますが、現在のシンガポール人のほぼ全てが移民者の子孫ということになります。

 最大の移民集団は、現在でも多数を占める中国系の移民です。出稼ぎ労働や貿易などのために移民し、復建、潮州、広東、客家、海南地方などの華南出身者が大半を占めています。中国系の移民は福建語、広東語、潮州語、海南語、客家語など多様な方言を話し、仏教や同郷などを信仰していました。

 マレー系民族としては、マレーシア各地、インドネシアの島々出身者が、商人、農民、漁民、植民地政府の役人、警察などの仕事につきました。マレー系の移民はマレー語やインドネシア等出身民族の言語を話し、イスラム教を信仰していました。

 インドからは南インドに住むヒンドゥー教徒のタミル人が大半でしたが、北部パンジャーブ地方のイスラム教徒やシーク教徒などの移民もいました。出稼ぎ、貿易の他、植民地政府の下級役人、警察官などの仕事についた人もいます。インド人はタミル語、ヒンディー語、ベンガル語等を話し、ヒンドゥー教を信仰していました。

 ヨーロッパからの移民もいて、植民地政府の役人、貿易の仕事に携わっていました。独身者のなかには現地でアジア人と結婚した人達がいて、その子供達はユーラシア人と呼ばれました。

 移民の大半が出稼ぎ労働者の男性でした。既婚者も家族を祖国に残したことがその一因で、当時は清がポーロが一時的な出稼ぎの場と認識されていたことが分かります。

 植民地となる前には(150人ほどの住民がいたものの)ほぼ無人に近いジャングルの島だった点がシンガポールの特徴です。ヨーロッパ人によって住んでいた収奪され、征服されてできたという典型的な植民地ではなかったのです。もともとシンガポール島を領土として持っていたジョホール王国は(ほぼ)無人の島を売ってお金を、出稼ぎ労働者は仕事と収入を、イギリスは中継貿易により大きな利益を得ました。

 植民地としての成り立ちである、国際貿易拠点としての役割、民族構成などは現在のシンガポールの姿に繋がっていると言えるでしょう。

■イギリスの植民地統治

 1857年にインドで王侯から兵士までを巻き込んだ大規模な反イギリス暴動が発生したため、イギリスは1858年にはイギリス東インド会社を廃止し、本国おいたインド省のの下にあるインド植民地政府の管轄下に海峡植民地(シンガポール等)は移りました。そして1867年にはイギリス本国植民地省の直接統治下におかれることとなりました。

 1905年の植民地政府の収入源はアヘンとアルコール独占販売が収入の59%、ついで印紙税の4.8%です。つまりアジアの出稼ぎ移民労働者へのアヘン収入により植民地統治の行政費用をまかなっていたのです。ちなみにイギリスと清の間でアヘン戦争が戦われたのは1840〜1842年のことです。イギリスが植民地インドで栽培していたアヘンを清に密輸出することで清との貿易費用をまかなっていたことに起因するものでした。

 イギリスはシンガポールで計画的な街作りを行いました。シンガポール川河口付近を市街地とし、中心部に植民地政府機関とヨーロッパ人居住地を配置し、アジア人移民に対しては、民族別に居住地を指定し分割統治を行いました。

 中国人はシンガポール南岸の埋め立て地が割り当てられました(チャイナ・タウン)。インド人にはその西の一帯、マレー人は中国人居住地の南側としました。さらに、シンガポール川北岸のヨーロッパ人居住地の北側にもマレー系移民、アラブ人等の居住地が割り当てられ(現在のアラブ・ストリート付近)、アラブ人居住地の西にもインド人居住地が割り当てられました(現在のリトル・インディア)。

 独立後のシンガポール政府(人民行動党)は、国民統合のために「種族融和政策」を実行し、公共住宅では異なる民族が隣り合わせになるような政策をとりましたが、チャイナ・タウン、アラブ・ストリート、リトル・インディアは、近代的なビルの立ち並ぶ都市の中に、今でも民族色を色濃く残す観光地としても知られています。

 移民による人口増加に伴って市街地が拡大し、1850年代には中心部から少し内陸に入った果樹園が開発されヨーロッパ人の居住地となりました。現在のシンガポールの目抜き通りであるオーチャード(果樹園の意味)通りです。人口増加に伴って移民には新たな居住地が割り当てられ、内陸部の居住地の拡大にあわせて道路網も整備されていきます。計画的な街作りは1965年の独立後にも引き継がれていきました。

■中継貿易による発展

 シンガポールは東南アジア、インド、中国、中東、ヨーロッパ各地との貿易中継地として世界中の国々が利用することにより繁栄しました。さらに19世紀末にマレーシアを植民地としたイギリスは、マレーシアで生産されたゴムやスズの加工の一部をシンガポールで行いました。これらの生産のための会社、貿易会社、銀行等の金融機関がシンガポールにおかれ、マレーシアとの経済的な一体化が進められました。

 経済的な繁栄にともない、アジア各国からの商人や単純労働者である出稼ぎ労働者(クーリー等)などの移民もさらに増えます。そしてアジア人移民の中からゴム産業、貿易業、銀行業など華僑系の巨大企業グループも誕生しました。

 明治維新を経た日本からも商人、農民、漁民などの出稼ぎ労働者の移民がいました。そして近代化の影で貧しい生活が続く東北や九州などから身売りされたり騙されて来た「からゆきさん」と呼ばれる売春婦も日本からの移民に含まれました。マレーシアのボルネオ島のサンダカンが山崎朋子の「サンダカン八番娼館」で知られていますが、シンガポールが最大規模でした。

 1914年、第一次世界大戦が勃発するとイギリスからの輸入が途絶えたため、日本からの輸出が増え、日本の商社が進出しましたが、イギリスの植民地政府との間で貿易摩擦問題となりました。

■移民の意識の変化

 移民の多くが出稼ぎ労働者であり出身地への帰属意識が高かったため、シンガポールの住民としての政治への関心が薄かったのですが、20世紀に入って状況が大きく変わります。

 1911年の辛亥革命により中国で清朝が倒され中華民国が誕生します。その後日本により満州国が作られ日中戦争がはじまると、シンガポールの中国系移民は母国を積極的に支援し、さらに日本商品や商店等のボイコットが行われました。また一部の中華系移民はマラヤ共産党を作りマレーシアに共産主義国家を創ることを目指しました。

 一方で出稼ぎ労働者だった移民達の中に母国に戻らず定着し、シンガポール、マレーシアの海峡植民地生まれの二世、三世がふえ、民族を超えた仲間意識が生まれてきました。彼らの多くは植民地で社会的な階層を登るために英語の習得が必要と考えて、英語教育を受け母国をイギリスと考えるようになりました。

 つまり中国に帰属意識を持つ集団と、イギリスの植民地であるシンガポールに帰属意識を持ち英語教育を受けた、政治的志向の異なる2つの集団が生まれました。

■日本による占領時代

 日本による占領時代は「3年8ヶ月」と呼ばれる(1942〜1945年)短い期間ですが、シンガポールの歴史において重要な意味をもつ苦痛の時代でした。

 日本は日清戦争により台湾を植民地とし、日露戦争後の1910年に朝鮮を併合して植民地化しました。さらに1932年には中国東北地方に満州国を建国して植民地としました。さらになし崩し的に日中戦争を開始して中国沿岸部を占領下におき、さらに資源を求めて東南アジアを目指しました。

 1920年代にはイギリスによりシンガポールでは軍事基地の建設が始まり、世界有数の軍港や3つの飛行場が建設され、今は観光地となっている南部のセントーサ島には巨大な大砲も設置されています。日本軍は1941年12月8日ハワイの真珠湾攻撃より1時間前にマレー半島に上陸し全域を占領。1942年2月15日にはシンガポールのイギリス軍は無条件降伏しました。この日からシンガポールの住民にとって悲惨な「3年8ヶ月」がはじまります。

 日本の占領により住民を苦しめたのが中華系住民の大粛正と強制献金でした。日中戦争で中国の抵抗を支援したシンガポールの移民を処罰しようと、反日主義者、共産主義者、イギリス協力者(英語話者)を見つけるため60万人を超える中国系住民を憲兵がより調べ、反日主義者等とみなされた住民はシンガポール東海岸やセントーサ島に連行され穴を掘らされて数千人以上が銃殺されました。のちにシンガポールの初代首相となり長年にわたり開発独裁によりシンガポールを経済的発展に導くことになるリー・クアンユー(当時18歳)もこの時、あやうく粛正されそうになり逃れています。

 もう1つが強制献金です。日本は統治に必要な費用として5000万海峡ドルを中華系住民からの「寄付」の名目で調達しました。住民には強制的に金額が割り振られ、家財道具を売るなどして2900万海峡ドルを集め、残りは日本の横浜正金銀行(後の東京銀行→合併により現在は三菱UFJ銀行)から借金して調達しました。

 日本はシンガポールを昭南島と名付け、日本語学習を強制し昭南神社を建て、イスラム教徒であるマレー系住民も含めて参拝を強要しました。また憲兵隊による恐怖政治、経済の大混乱が住民を苦しめました。このように日本による苦痛の統治時代は、植民地化することにより(ほぼ)無人のジャングルの島が経済的に発展し出稼ぎ労働者を呼び込んできたイギリス統治時代とは対照的なものでした。

 日本による占領により、シンガポールの住民は、イギリスはアジア系の住民を守らず置き去りにしイギリスの支配が絶対でないことを知り、日本の統治がイギリス以上に過酷であったため、シンガポールの住民は自分達の生活は自分達で守るしかない、自尊心を持って自ら統治するのだという意識、シンガポール住民としての意識が一部の住民の間で芽生えはじめました。

■独立運動と人民行動党政権の始まり

 第二次世界大戦後、オランダの植民地だったインドネシア、フランスの植民地だったベトナムは、旧宗主国と独立戦争を戦いましたが、シンガポール住民はイギリスの復帰を歓迎しました。

 戦前のシンガポールはマレー半島のマラヤ、ペナンとともに海峡植民地とし、他のマレー半島はマレー連合州でしたが、戦後、イギリスはマラヤ、ペナンを含むマレー半島全体をマラヤ連合とし、シンガポールを経済的にも軍事的にも重要な直轄植民地としてマレー半島から切り離しました。

 イギリスは将来の独立をみすえて部分的な自治権を与えることとし、そのために住民を部分的に制限選挙で選ぶ議会を導入しました。そのため住民の間で政治活動が行われ、政党が結成されました。そのもととなった大きな集団が、シンガポール住民意識の強い民族を超えた英語教育集団と、中国志向の集団(華語教育集団)の2つの戦前からある集団でした。

 英語教育集団(イギリス的国家を目指す民族横断グループ)の代表的な人物が地元生まれの四世であるリー・クアンユーです。日本占領期は日本の通信社で働き、戦後はイギリスのロンドン大学、ケンブリッジ大学で学びました。


リー・クアンユー(Wikipedia Commons)


 一方の華語集団は出稼ぎがおわると中国に帰ることを考えていた人が多数でしたが、イギリスが中国とシンガポールの往来を禁止したため、中国に戻るかシンガポールにとどまるか選択を迫られました。シンガポール残った華語教育集団(中国文化を基礎とした共産系グループ)が独立運動のもう1つの担い手となりました。

 イギリス植民地政府の役人により弾圧を受けた華語教育集団の華人労働者を弁護したのが、弁護士となったリー・クアンユーで、反イギリスという目標をもって2つの集団を結びつけることとなります。そしてその2つの集団によって1954年に、その後シンガポールを一党独裁による経済開発を行うことになる人民行動党が結党されます。

 1955年の選挙では人民行動党は候補者を4名しか立てられず、10名の当選者を出した労働戦線が第一党となり、その党首が初代首相となります。1959年の選挙では人民行動党が43議席を獲得し圧勝し、リー・クアンユー(当時35歳)が首相となり、長期政権がはじまります。

■植民地時代の終焉・マレーシアとの合併

 植民地時代のシンガポールは中継貿易を中心として、スズやゴムの加工業、金融、保険業などが発達しましたが、周辺の東南アジア諸国が独立すると、各国は自国で工業生産を行う戦略をとったためシンガポール経済は深刻な打撃を受けます。そこでシンガポールの人民行動党政府も製造業を振興しました。

 ただしシンガポールは国内市場が非常に小さいため、スルタンを国王とするイスラム系の立憲君主制国家として先にイギリスから独立していたマレーシアとの合併を目指しマレーシアを「国内市場」として想定しました。また水の供給や食糧生産をマレーシアやインドネシアに依存せざるを得ないのもシンガポールの現実でした。

 ただし人民行動党の中は一枚岩ではありません。党内の2つの集団のうち共産系グループ(華語教育集団)は反共政府であるマレーシアとの合併には反対し中国的国家を目指し、英語教育グループは市場や水、食糧の供給の寒天からマレーシアとの合併を望ましいと考え、またイギリス的国家を目指していました。

 人民行動党から共産系グループが離党して社会主義戦線を結成しましたが、人民行動党は選挙に臨み1963年の選挙に勝利し、マレーシアとの合併を実現し、イギリスの植民地時代は終焉を迎えます。マラヤ(マレーシア)、シンガポール、サバ、サラワクの4つの地域が合壁してマレーシア連邦が誕生しました。

■マレーシアからの追放

 マレーシア連邦時代に人民行動党はマレーシア政府と共同して、共産系グループである社会主義戦線を弾圧しその指導者を排除します。指導者を失った社会主義戦線は急速に弱体化して消えていきました。

 一方、この2つの集団で争われ、人民行動党が勝ち取ったマレーシアとの合併はわずか2年で破綻しました。

 スカルノ大統領のインドネシアはサバ州、サワラク州は植民地前はインドネシアの領土であったと主張し軍事的な緊張が高まり貿易も禁止されました。フィリピンもサバ州は自国の領土であると主張し国交を断絶したため、シンガポールは経済的な苦境に陥ります。インドネシアのスカルノ大統領が失脚してインドネシアとの貿易が再開されました。またベトナム戦争のアメリカの軍事行動を支援するため反共各国によりASEANが結成され、地域の各国は協調路線に転じました。

 困難を克服できなかったのが国内事情であるマレーシア中央政府との関係です。マレーシアはシンガポールとの合併前はマレー系住民が多数でしたが、シンガポールと合併することで、マレー系と中華系はほぼ拮抗する人口構成となります。また、ひとりあたりの国民所得はシンガポールが511ドルなのに対してマラヤ(マレーシア)は220ドルしかなかったため、中央政府はマレー人の住むマラヤの工業振興を優先しました。

 両者の軋轢は民族衝突に発展し1964年の7月、9月の衝突では死者がでました。さらなる衝突を回避するため、マレーシア中央政府のラーマン首相はシンガポールの「追放」を決断することになります。1965年8月9日、望んでいなかったシンガポール単独の独立国家となります。人口は189万人、東京23区程度の都市国家です。

■リー・クアンユーが構築した開発国家

 政権党である人民行動党が、唯一の生き残りの道と主張して、強行に実現したマレーシアとの合併が破綻してしまいました。シンガポールは食糧や水をマレーシア、インドネシアなどに依存せざるを得ず、世界はその存続を懐疑的に見ていました。

 ここから、(現在に至るまで政権を担い続けている)リー・クアンユーの人民行動党は「(シンガポール)生存のための政治」をスローガンに掲げ、政府に権限を集中する権威主義的な国家を創り上げていきます。

 人民行動党のライバルである社会民主戦線はマレーシアとの合併時代に事実上、壊滅しており、その支持基盤であった労働組合、学生運動、企業、マスメディアの管理を強めていきました。人民行動党は、開発途上であるシンガポール生存のためには外資の導入が必要が必要であり、海外企業を誘致するためにはシンガポール政府の国際社会におけるイメージが大切であり、それを損なう言動を容認しないことが必要であると考えたからです。そのために政治管理によって労働者、学生、企業の非政治家が薦められました。

 与党人民行動党は独立から3年後の1968年の最初の総選挙で84.4%の得票率で、国会の全議席を独占しました。人民行動党による国会議席の独占は1980年の総選挙(得票率は75.6%)まで続いています。野党は1981年に補欠選挙でようやく1議席を、1984年の総選挙で2議席を獲得します。人民行動党による政治の独占は経済開発における実行力と実績が評価されただけでなく、野党やその有力政治家の弾圧、政府批判の抑圧、人民行動党が負けない選挙制度によって維持された面も大きかったようです。

 人民行動党は一切のイデオロギーを持たないプラグマティズム(現実主義)に立脚した政党でした。共産党系グループと共闘していた初期は社会主義を掲げて社会主義インターにも加盟していましたが、1976年に反労働者政策を理由に批判され自ら脱退し社会主義の旗を降ろしました。

 シンガポールでは小学校から選抜を繰り返し、優秀な高校卒業生に奨学金を与えて欧米の一流大学に留学させて、帰国後に官僚にする仕組みを創ってきました。そして人民行動党の議員の最大の供給源が官僚です。すなわち優秀な高校生→奨学金による一流大学への留学→官僚→人民行動党議員というルートがシンガポールの政治エリートコースであり、ここから将来の大臣、首相が排出されます。第2代首相であるゴー・チョクトンも、第3代のリー・シェンロン(現首相、リー・クアンユーの長男)もこのコースによって選抜、育成された人材です。

 またそのように選抜、育成された官僚のトップ(中央省庁の事務次官など)が、政府系企業の責任者(社長、会長など)を兼任することも多く行われています。

 国防においては、シンガポールはまず国家予算の2割を超える国防費によりマレーシアに何とか対抗できる陸海空軍を整備し、1971年にはシンガポールとマレーシアは、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドと5カ国防衛協定を結びます。またマレーシア、インドネシアというイスラム国家に挟まれたシンガポールは、同じような環境にあるイスラエルから専門家を招き、国防顧問とし、さらにスイスに倣い、1967年に徴兵制を導入しました。さらに1990年にフィリピンから撤退した米軍にシンガポール海軍基地の利用を申し出ています。

 一方で、水、食糧等を依存するマレーシア、インドネシアとの関係構築が重要でした。これは軍事力によって担保できないものです。シンガポールはリー・クアンユー、マレーシアはマハティール、インドネシアはスハルトという強力な指導者によって率いられ、開発という同じ国家目標をもつ三カ国の信頼関係、共存意識を構築しました。

 また当初は東南アジアの反共5カ国の同盟として出発したASEANは、ベトナム統一後、経済開発のための協力機構として転換しました。AESAN加盟校の一員として振る舞うことにより地域の他の加盟国に認められていきます。

 このように近隣諸国との関係を通じた国家の安全を基盤とし、海外から企業を呼び込み、開発主義国家として発展していきました。また野党や政府批判を「管理」することも、シンガポール政府・人民行動党にとってはそのための手段でした。

■種族融和政策

 イギリス植民地時代には、民族(華人、マレー人、インド人)毎に分割統治され、そしてそれぞれの出身地域・言語毎にバラバラの社会でしたが、人民行動党はこれを1つにまとめていく政策に取り組みました。特にマレーシアから追放される要因となったマレー人と華人の融和は国内問題としても、そして隣国でありマレー系民族の国であるマレーシア、インドネシアと良好な関係を築くためにも重要でした。

 政治的な実権を持たない大統領は各民族から交代で就任しています。

 華人が多数にもかかわらず、マレー世界に属し、植民地からの独立直後はマレーシアとの合併を目指していたシンガポールの国語はマレー語です。実際には公用語として華語、マレー語、タミル語、英語が用いられています。

 人民行動党が政権についた1959年後は、各民族からみて中立的な言語である英語化政策が進められました。英語は国際社会で経済活動を行うためにも必要な言語でした。しかし英語化が進むと、イギリスやアメリカの自由主義思想を学び、権威主義的な人民行動党政府への批判に繋がることを恐れて、また誰もが英語を習得出来るわけでもないこと等から、1965年の分離独立後にはアジア人としてのアイデンティティを保持するために民族の母語を習得すること、アジアの伝統的な価値を学ぶことも含めた二言語政策に舵を切りました。

 公共住宅政策でも、種族融和が試みられました。1950年にはシンガポール総面積のうち18.5%が市街地でしたが、人民行動党政府はハイペースで公共住宅を建設し、ゴー・チョクトン時代の1996年には49.7%が市街地となり、島全体の都市化が進んでいます。2000年には国民の約9割が公共住宅に居住していますが、入居位置は異なる民族が隣り合わせになるよう政府によって配置されました。

 なお、公共住宅政策では、出稼ぎ・移民意識が強かった住民の国への帰属意識を高めるため、持ち家政策が進められました。1990年には公共住宅のうち約9割が住民により購入され持ち家となっています。

 1978年にケ小平により中国は改革開放路線を打ち出し「社会主義市場経済に転換し、冷戦終焉前後からアジアの自由主義国と連携して開発を進め、めざましい経済的発展を遂げました。シンガポールは中国をはじめとするアジアの社会主義国等の大型インフラ投資に乗り出しました。1990年代には中国はシンガポールによるアジア投資の目玉となりました。

 シンガポールは、英語化政策と非中国的な国作りにより欧米をはじめとする先進国の投資を呼び込み、中国と言語や歴史文化を共有する華人企業が有利に中国に投資をすることができるという優位性をもっていたわけです。

 また、1996年にはインドとシンガポールが共同して工業団地を作るなど、インド人企業によるインド投資も行われます。2006年に発表されたマレーシアの南部の州、シンガポールの北側に隣接するジョホール州の「イスカンダル地域総合開発」は、マレーシアとシンガポールの共同開発プロジェクトです。それまでは国内の民族の違いをのりこえる融和政策でしたが、民族性を強調すること強みとして経済発展に利用するようになりました。

■カジノ問題

 シンガポールには、セントーサ島、マリーナ・ベイの2カ所にカジノを含む統合リゾート施設があります。先日(2018年6月12日)にはアメリカのトランプ大統領と、北朝鮮の金正恩委員長の会談がセントーサ島行われました。その前日に、金正恩委員長はマリーナ・ベイのホテル「マリーナベイ・サンズ」を訪れたことが報道されていますが、この2カ所にカジノが置かれています。


マリーナベイ・サンズ 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 それまでシンガポールは「クリーン&グリーン」が売り物で、初代首相リー・クアンユーはギャンブルは道徳的腐敗であると否定してきました。しかし2005年に第三代首相リー・シェンロンは、周辺各国がカジノを外貨獲得のための有力産業として育成しはじめたのをみて、カジノ開設計画を発表しましたが、閣僚、国会議員、経済界、マスメディア、国民を巻き込んで、政府批判が困難なシンガポールでは珍しく大きな論争が起こりました。シンガポールでもカジノは決して良い政策と考えられていたわけではありませんでした。

 初代首相リー・クアンユーはマレーシアからの分離直後に、シンガポールが生き残るためには悪魔と貿易してでも経済発展をしなければならないという趣旨の発言をしたそうですが、その息子であるリー・シェンロン首相も同じ方針をつらぬいたことになります。

■少子高齢化問題・移民問題

 1970年代には出生率3.1と高く人口抑制策を取っていましたが、1980年には1.74に低下し、労働力不足に陥りました。1987年以降、多産奨励に政策転換し、出産奨励金、産休の延長、子供を持つ家庭のメイド雇用税の引き下げ、有給の特別育児休暇などが打ち出されましたが、効果は上がらず2007年の出生率は1.29となっています。日本の2015年の合計特殊出生率は1.45なのでいかに厳しい状況であるかが分かります。

 一方で外国人の移民奨励政策も行われ、専門職から単純労働者まで継続して受け入れてきました。2011年には永住権保持者は約10%、外国人滞在者は約27%にのぼっています。元々ほぼ無人に近かった島がイギリスの植民地となり、出稼ぎ労働者による移民によって成立したシンガポールですが、外国人専門労働者による国民中間層の職の締め出しや、富裕な外国人の投機による不動産の高騰などが新たな問題となっています。



 以上に見てきたように、シンガポールは植民地から発展した小さな島の都市国家であり、マレーシア、インドネシアというマレー系のイスラム教徒の国にはさまれて社会的な依存しているという大きな制約の中で生き延びるため、独立以前から経済発展をなによりも優先してきた特殊な国家であることがわかります。

 そのため経済的には先進国のように振る舞いながら、政治的には建国直後から人民行動党が現在に至るまで(形式的な選挙は行われてるものの)一党独裁で、初代首相リー・クアンユーから数えて、現在の首相は3人目に過ぎず、報道の自由、言論の自由も制約されており、民主主義指数によると民主制と専制の中間にある開発独裁国家です。

 海外からビジネスや観光に訪れる人々にとっては、安全で快適に滞在できる場所ですが、国民の政治的な自由や言論を制約してでも、そのような場所を創り上げることによって経済的に発展することを目指してきた国なのです。


*1 DEPARTMENT OF STATISTICES SINGAPORE
*2 シンガポール共和国基礎データ(外務省)
*3 岩ア育夫「物語 シンガポールの歴史」(中公新書)
*4 シンガポールの歴史


つづく