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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

1946年の「通化事件」、降伏した日本の
関東軍がまだ死んでいない最後の狂乱
週刊現代人(近代人物周刊) 2017年3月14日
1946年通化事件,日本关东军最后的疯狂,
都投降了还不死心
 近代人物周刊

  中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月22日



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本文

 1945年、日本が降伏した後、国民党軍は関州から遠く離れていたため、東北地方を迅速に制圧することができなかった。 国民党の反動派は、戦略的な場所である「通化」を手に入れるために、通化で、すでに武器を投降していた6,000人の日本の関東軍を攻撃した。

 ※注)国民党軍(共和党軍とも)
  中国国民党(中國國民黨、英語: Chinese Nationalist Party、
  Kuomintang、略称: KMT)は、西安事件で蒋介石が生き延び
  た後、毛沢東らの共産党軍と国共合作。日中戦争で中国が
  勝利後、蒋介石の中華民国軍として台湾に逃れる。略称は

  

通化の位置
出典:グーグルマップ

 1946年1月、蒋介石の特別部下である孫建耀は、日本の関東軍の滕田上級大佐と合意し、暴動の成功と春節に暴動を起こすことを条件に、通化に「日中連合政府」を樹立した。

 暴徒たちはこの暴動を秘密にしていたが、2月2日の夜になって明らかになった。東北連合軍は、日本と国民党の反動派が暴動を計画していることをいち早く察知し、すぐに暴動鎮圧の準備を始めたのである。

 東北連合軍は、党員、官員、軍人を緊急動員し、裏切り者を一掃するとともに、すぐに兵を通化に戻した。 危機的な状況であったため、司令部は断固とした態度で臨み、暴動の元凶である孫権耀を奇襲逮捕し、すぐに処刑した。



 1946年2月3日午前4時、通化では突然、銃声が鳴り響き、機関銃やライフルで武装した日本人暴徒たちが、行政庁舎、通化分遣隊本部、公安局などにヒスを起こしながら突撃してきた。

 この時、日本の関東軍の指揮官が拘束されていた場所が露見し、暴徒たちは指揮官を救出しようと必死になって襲いかかってきたが、彼らの警護を担当していたのはルート8軍の1個分隊だけだった。

 この時点で、身柄を拘束されていた日本軍将校たちは、外の暴徒たちと合流する気満々だった。 看守を担当していた分隊長は、とっさの判断で機関銃を使い、参加しようとしていた100人ほどの囚人をすべて撃ち落としてしまった。

 東北民主同盟の部隊は分断され、建物などを頼りに抵抗していたため、行政機関の建物で最も激しい戦闘が繰り広げられた。


日本の関東軍は武器を降ろした

 行政院秘書長の夏俊慶や行政院長官の江雅泉など重要な指導者がいるため、暴徒たちは1階(この建物には数階しかなかった)にたどり着いた。

 この時、行政長官の横にいた守衛の江雅権が降伏を迫ったが、守衛が内通者であることが判明し、江雅権は迷わず守衛を処刑し、建物との生死を決意したのである。

 この時、東北民主連合軍通化分遣隊と韓国義勇軍の機動部隊が到着し、暴徒の背後から攻撃した。

 暴徒たちは敗北し、逃げた数人を除いて、ほとんどが全滅した。



 暴徒を撃退して宿舎に戻った兵士たちは、孫権耀が生きているのを発見した。 孫権耀を処刑する際、突然の停電で兵士たちの銃が誤射されたことが判明したのだ。

 この孫建耀は、まだ日本人が暴動を成功させて自分を追い出すことを想像していた。 兵士たちは何も言わず、孫権耀をさらに撃ち殺していった。

 後は、暴徒の残党と網の目を潜り抜けた者を一掃することであった。 兵士と市民は、2週間かけて市内の全ての日本人家庭を絨毯のように探し始めたが、中国に来た日本人は自分を高く評価しており、「故郷の風習には従わない」「春節の連句は貼らない」と言い張っていた。

 そこで、空襲に参加した兵士や市民は、中国語の連句が飾られていない家に押し入り、日本の成人男性を全員拉致して持ち帰り、じっくりと調べた。



 中国は、一人の暴徒も網の目にかからないように、街の隅々まで注意深く探した。

 兵士たちがあれほど怒ったのには理由がある。 関東軍降伏後、日本の関東軍衛生部隊130名が中国軍や市民への人道支援を申し出て、ルート8軍はその130名の部隊の編成を維持した。



 この部隊が後に暴動に加わり、メスなどの医療器具を使って中国軍の負傷者を片っ端から倒していったのは当然のことだった。 医療器具は命を救うためのものだが、この白衣を着た衛生部隊は単なる蛇足であり、同情に値しないものだった。

 また、暴動の鎮圧の際には、この医療チームも抵抗し、30人以上の兵士を殺した後、我々の兵士に鎮圧された。 病床で仲間の遺体を見たとき、兵士たちはどう感じただろうか。

 凶悪な病院部隊のリーダーである柴田久中尉は、最終的に処刑された。

 捜索7日目には、主犯格の藤田光彦をはじめとする30人以上の日本人校長が逮捕され、第8ルート軍は藤田光彦以外の全員を射殺し、藤田光彦は日本の民間人に感謝することになった。




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