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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

109年前の今日:日本人の乃木希
割腹自殺、乃木は旅順虐殺の犯人だった。

109年前的今天:日本人乃木希典
剖腹自尽,是旅顺大屠杀的元凶

来源:野史点描通報告書 2021年9月12日

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年1月3日
 
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 歴史は忘れてはならないし、忘れてはならない。特に、血と涙を流し、次々と命の代償を払った人たちの歴史は、忘れてはならない。

 「もうとっくに終わったことだ」と言って、歴史や実行犯を許すという選択はできない。

 結局、私たちは先人たちに代わってその選択を許す立場にはない。

本文
 
 今から1912年前の今日、乃木希典という日本人が割腹自殺をした。

 この日本人は、日本陸軍の将軍で有名な処刑人であり、旅順虐殺の責任者であり、「悪魔」であった。


乃木希典
Source: WikimediaCommons パブリック・ドメイン, リンクによる

 ※注)乃木希典
  乃木希典は乃木将軍邸にて、大正元年(1912年)9月13日、
  明治天皇の大喪の礼が行われた日の午後8時頃、妻・静子
  とともに自刃し亡くなった。享年64(満62歳)没。警視庁警察
  医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況などに
  ついて詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目
  において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように
  推測している。
  乃木は、1912年(大正元年)9月13日午後7時40分ころ、東京
  市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室
  において、明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によ
  って、まず十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た
  後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、
  食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺
  したままうつ伏せになり、即時に絶命した。 
  出典:Wikipedia 日本語版



 旅順は遼寧省大連市にある美しい街である。

 しかし、ちょうど100年前、日本軍に占領され、日本軍に虐殺され、街中に血を流されるという、あまりにも大きな苦しみを味わった。

 そして、その犯人は乃木希典だった。


旅順(中国遼寧省旅順)

 今から100年以上前、中国は清朝末期、あらゆる勢力にいじめられた揺れ動く時代であった。

 当時は小国であった日本までもが中国に介入してきたのだ。

 日清戦争が勃発し、戦争末期に中国は敗れ、下関条約を結び、数え切れないほどの銀を払い、台湾と澎湖島を割譲することになった。

 この戦争で中国は半植民地、半封建社会となり、その過程は特に悲劇的であった。



 旅順口も、そのひとつだった。

 日本は黄海海戦に勝利した。

 ※注)黄海海戦(日清戦争とも)
  黄海海戦は、1894年(明治27年)9月17日に日本海軍連合    
  と清国海軍北洋艦隊の間で戦われた海戦。鴨緑江海戦と
  も呼ばれる。近代的な装甲艦(定遠・鎮遠)が投入された最
  初の戦いとしても知られる。この海戦の結果、清国海軍は
  大損害を受けて制海権を失い、無力化された。 
  

、1894年11月21日、日本軍は一日で280名が中国軍に捕らえられ死者を出したが、日本軍は旅順口攻略後、悪魔の乃木希典は、旅順で3泊4日に及ぶ大虐殺を行うことになった。 旅順大虐殺の犯人は乃木希典だった。

 ※注)日本軍は旅順大虐殺において3泊4日で約2万人の
  無辜の一般民間人を含む中国人を虐殺したとされる。



旅順にある万忠墓(1894.11.21-24)

 戦争は民間人を巻き込むものではないはずだが、この処刑人は民間人に手を回すところまでやった。

 あの忌まわしい乃木希典は、「家々を探し回り、民間人であろうと、女性であろうと、子供であろうと、その場で中国人を殺したのだ......」。

 当時、日本の新聞「東京朝日新聞」は、「那岐少将は晋州から逃げる清軍を追い、途中362名の清国兵を殺害して古鉄山付近に葬り、陸軍参謀は3千人以上の埋葬を報告した」と報じた。

 しかし、「国民日報」の特派員、枕戈生氏は「旅順市は死体と血の山と化し、荒野も丘も海も死体の無残な姿になり、旅順口の死者の数は新聞報道の数字をはるかに超えている」と述べている。 「入城後2日間、殺された敵兵の死体が近辺の道路を塞ぎ、我が軍の兵士は死体の上を歩くしかなかった」 。


中国旅順大虐殺祈念館/中国百度百科

 今でこそ、日本当時の犯罪を認めないが、当時は平然と新聞に書いていたのである。

 悲惨な大虐殺で、旅順一帯は地獄と化した。

 この年、旅順全体で生き残った人は800人ほどで、残りはすべて日本軍に殺されたと言われている。


乃木希典

 不幸なことに、旅順虐殺事件の犯人の一人である乃木希典は、この事件の後、報復を受けることなく、昇進してしまった。

 1912年、明治天皇の葬儀の際、乃木希典は天皇に殉じて切腹した。

 ともあれ、乃木希典はやがて歴史上、永遠に恥ずべき柱に釘付けにされることになる。

特記事項:上記のコンテンツ(写真や動画がある場合はそれも含む)は、情報蓄積サービスのみを提供するセルフパブリッシングプラットフォーム「NetEase」のユーザーによってアップロードされ公開されたものです。


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