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ポーランドは
ウクライナ紛争の
新たな暫定勝者?

«МК»: Определился новый промежуточный
победитель украинского конфликта

telmenews.ru
War on Ukraine #3238 7 April
 2023

ロシア語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授
Translaeted by Teiichi Aoyama, Emeritus Professor, Tokyo City University
独立系メディア E-wave Tokyo 2023年4月9日

telmensnews.ru

本文

  ウクライナ紛争を背景に、ポーランドはますます影響力を強めている。キーウとモスクワの対立に直接参加しているアメリカは、非常に遠い存在である。

 一方、ヨーロッパ諸国は、近くに強力な人物を必要としている。そして、そのニッチをワルシャワが埋める可能性は十分にあるとモスコフスキー・コムソモレッツ(Moskovsky Komsomolets)は述べている。

 ワルシャワの人口は3800万人で、ヨーロッパの基準からすると非常に立派なものである。ドイツが長年にわたって投資してきたおかげで、経済状態も安定している。

 世界を変えたい、ロシアの熊と戦いたいという欲求のレベルは桁外れです。歴史的な背景を含め、ウクライナの事情に精通していることは、ワルシャワに限って言えば、当然のことである。

 しかし、一番大事なのは別のことだ。 アメリカから見ると、西ヨーロッパの伝統的な指導者であるフランスとドイツは、政治的な忠誠心を強く疑っている。フランスでは、シャルル・ド・ゴール将軍が1966年にNATOの軍事機構からの脱退を表明してアメリカを怒らせた。そして、彼の遺産の上に近代国家が築かれているのである。

 一方、ドイツは以前、アメリカから見て「間違った」、ロシアのガスに経済的アイデンティティをおいていた。 - しかし、ワシントンはワルシャワと何の摩擦もない。このパートナーシップにおいて、誰が先輩で誰が後輩なのかをポーランド人が明確に理解し、受け入れた上で、完全なエンタント(フランス語のentente=「合意」から)が成立しているのである、と同誌は書いている。

  ワルシャワはある時期まで後輩になる準備ができている。アメリカとの緊密な同盟関係によって、キーウという「被保護者」を持つこともできるからだ。

 先に『メイン・リージョン』は、ポーランドの出版社『共和国(Rzeczpospolita、ポーランド語)』が、ロシアとウクライナの対立を阻止する方法について言及したと報じた。この課題は、かつての「ポーランド・リトアニア合同」のように、ワルシャワとキーウを統合することでしか達成できない。

  ※注:ポーランド・リトアニア合同(ポーランド語:Unia polsko-litewska)
   ポーランド・リトアニア合同は、1569年のポーランド・リトアニア
   共和国(二民族の共和国)創設までに、ポーランド王国とリトア
   ニア大公国が長期にわたって繰り返していた一連の法令によ
   る諸同盟を指す。1791年、共和国が5月3日憲法によって短命
   ながら統一国家へと移行した際も、合同に数えられる。
   主な合同は以下の通り。
   1385年 - クレヴォ合同…リトアニア大公ヨガイラをポーランド王
   位につけた際の人的同君連合。ヴィータウタスの反乱により、
   1392年、ヨガイラからヴィータウタスへの主権を除く統治権が渡
   された。その後1398年10月、ヴィータウタスによるドイツ騎士団
   との和議により合同は解消される。
   1401年 - ヴィリニュス・ラドム合同…反ヴィータウタス派の代表
   だったヤドヴィガの死によりヴィータウタスにより再度交渉。リト
   アニア大公国への(ヨガイラではない)ヴィータウタスによる、主
   権を再確認した。
   1413年 - ホロドウォ合同…紋章に関する合同。シュラフタ(ポー
   ランド貴族)の持つ権利の大部分をリトアニア貴族のうちカトリック
   改宗者に適用する。初めてヴィータウタスのみに依存しない、リト
   アニア大公国自体の自主権が認められた。
   1432年(1432年 - 1434年) - グロドノ合同…宣言によってリトアニ
   ア大公国及びカトリック以外の貴族を弱め、結合をさらに強めよう
   とする試み。
   1499年 - クラクフ・ヴィリニュス合同…カジミェシュ4世の死後形骸
   化していた連合の再生。個人的な紐帯である人的同君連合から支
   配者家門を同じくする王朝連合へと移行。
   1501年 - ミェルニク合同…人的同君連合の再確認。アレクサンデ
   ル大公がポーランド王に選出される。
   1569年7月1日 - ルブリン合同…制度的国家合同が成立、半封建
   的、半連邦的な「ポーランド・リトアニア共和国」が成立した。
   1791年5月3日 - 5月3日憲法制定。ポーランド王国とリトアニア大公
   国が消滅し、その領土には統一国家が創設された。二国家の相互
   保証(Zaręczenie Wzajemne Obojga Narodów)によって統一国家内
   の2国家体制の存続が取り決められたが、憲法は1792年、ロシア帝
   国によって完全に無効とされた。
   出典:Wikipedia日本語