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ウクライナが最終的に後悔する重大な外交ミスはこれだ
キーウは "フィンランド化 "を拒否したが、
今より良い取引だったのはほぼ間違いない

Fyodor Lukyanov: Here’s the grave diplomatic mistake. Ukraine will eventually regret Kiev rejected “Finlandisation,” but it was almost certainly a better deal than the one it will get now
RT  War in Ukraine #4463 5 December 2023


英語翻訳:池田こみち(環境総合研究所顧問)
E-wave Tokyo 2023年12月6日
ウラジーミル・ゼレンスキー・ウクライナ大統領  © Getty Images / Getty Images

執筆:フョードル・ルキヤノフ
 フョードル・ルキヤノフは、国際関係、外交・国防政策の分野で最も著名なロシア人専門家の一人で、ヴァルダイ国際討論グループの研究ディレクター。

本文

 1年半前の武力紛争終結に向けたロシア・ウクライナ交渉に参加したダヴィド・アラカーミア※の先週の発言が波紋を呼んでいる。ウクライナ議会の指導者は、これまで他の人たちが口にしてきたことを言っただけだったが、彼の発言によって初めてキエフ(ウクライナ政府による)公式県外が確認できた。

※注)デヴィッド・ヘオルヒヨヴィチ・アラカムア (1979 年 5 月 23 日生まれ) は、デヴィッド・ブラウンというペンネームでも知られ、ロシア生まれのウクライナの政治家、起業家である。彼は人民奉仕者という政党のメンバー。アラカムイアは2019 年に最高議会議員に選出された。議会では、2019 年 8 月 29 日に党の派閥リーダーに選出され。(英文Wikipediaより抜粋)

 まず、当時の主要な問題は軍事的・政治的安全保障、つまりウクライナの中立的地位の保証であったことを認めた。ロシアのプーチン大統領の言葉(6月のアフリカ代表団との会談時)からわかるように、その場にいた人々は、ウクライナの軍事的潜在力を制限するための具体的な条件についても話していた。

 第二に、アラカーミアは、当時のボリス・ジョンソン英首相の立場を報じた。ジョンソン首相は、自らの主導で、あるいは「集団的西側諸国」を代表して、戦争を(ウクライナ)勝利の形で終結させることに賛成していた。

 ウクライナの指導者が下した決断について政治的な評価を下すこ
とは差し控えたい。それよりも興味深いのは、交渉の実質的な側面である。

 敵対行為の開始から1ヶ月半か2ヶ月後、ウクライナは次のような提案を受けた。

 ドンバス周辺で深刻な危機が始まった後の2014年、穏健な西側の論者たちが提案したのは、「フィンランド化」だった。つまり、ウクライナの軍事的・政治的地位の制限を文書化する代わりに、ウクライナの安全と独立を保証するというものだ。

 第二次世界大戦後、ソ連とフィンランドの間で結ばれた協定がその例で、ヘルシンキは主権とほぼ完全な独立を保持し(貿易・経済上の優遇措置も得た)、西側諸国との同盟関係から自主的に離脱することに同意した。1940年代後半、この協定はフィンランドにとって大きな功績と見なされた。というのも、フィンランドをソ連の勢力圏に組み入れるという選択肢は、それに伴うあらゆる結果を伴うものだったからだ。「人民民主主義」の確立やソ連の外交政策への厳格な遵守などである。

 過去10年間、ウクライナに関連してこのようなモデルを論じようとする人はほとんどいなかった。彼らはかなり国際関係におけるリアリズム学派(故ヘンリー・キッシンジャーはその典型と考えられていた)の信奉者であったが、信奉者がそのすべてに含まれていたわけでは決してない。

 原則的に力の均衡を信じる人々の中には、今回のケースでこのアプローチを適用する必要はないと考える者もいた。結局のところ、ロシアは西側の総合的な潜在力に比べて劣りすぎており、その軍事戦略上の利益を真剣に考慮する必要がないと考えられていたのである。

 現在、西側の政治家や戦略家のほとんどは、まったく異なるイデオロギーに固執している:パワーバランスと地政学的妥協は過去の遺産であり、今日関係があるのはイデオロギー的なカテゴリーだけである。彼らの考えでは、「自由な世界」が「不自由な世界」に勝つ、それだけだ。つまり、冷戦後の西側の一般的な路線は変わっていない--誰が反対しようとも、自国の軍事・政治機構を拡大することだ。

 このような安全保障体制に関する議論は、主に西側、特に米国で行われたことに留意すべきである。実際、ウクライナの政治・世論においては、利害関係者が良い結果に最も関心を寄せるはずの議論がほとんど行われなかった。独立当初から、ロシアからの最大限の分離という明確かつ不変の方針があり、それは西側諸国から直接的な承認と支持を受けていた。

 その代替案は、(なぜか "親ロシア "とみなされた)もっと柔軟で複合的な概念であり、その本質(宣言ではなく現実)は、提案されたものであれ、すでに合意されたものであれ、絶え間ない駆け引きとあらゆる責務を回避することへとすり替えられた。

 「フィンランド化」は、ロシアとの距離を縮め、西側諸国と和解するためのブレーキとなるため、第一陣営の人々にとっては受け入れがたいものであった。

 また、第2グループの支持者たちは、このモデルでは依然として合意されたパラメーターを厳格に遵守することを想定しているため、対話相手としてはふさわしくなかった。

 柔軟な勢力の任務は、約束の硬直化を防ぐか、あるいは最初の機会に約束から抜け出すことであった。一般に、すべての合意を最終的なものではなく中間的なものとみなすウクライナの政治文化の特殊性は、ソ連邦崩壊後の国の歴史全体に顕著な足跡を残した。そして少なくとも、それが今日の悲しい事態を招いたのである。

 双方が(ウクライナ側がより多く)大きな犠牲者を出している敵対関係が続いている状況下では、「フィンランド」という変種はもっと現実的な注目を集めるべきだったように思われる。しかし、ここでは上述の2つの現象が相互に作用した。欧米側では、冷戦の結果を修正すること、すなわちモスクワの反対意見を考慮することは許されないということ。ウクライナ側は、いかなる拘束力のある協定も拒否した。つまり、結果は当然の帰結だった。

 ある種の停戦協議が西側諸国を覆い始めた今、1年半前に戻ることは不可能だ。ある意味、状況は単純化された。問題は戦場で解決され、結果は従来の方法で決まるだろう。とはいえ、遅かれ早かれ、政治的解決の問題は再び浮上するだろう。その解決は、起こったことから教訓を引き出せるかどうかにかかっている。あるいは、できない場合もあるだろう。