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アヴディエフカの勝利:
ロシアはいかにしてドンバスで最も要塞化された都市からウクライナを撤退させたか
 戦況地図付
Victory in Avdeevka: How Russia forced Ukraine to retreat from the most fortified city in Donbass
RT War on Ukraine. #4609  21 Feb. 2024


英語翻訳:池田こみち(環境総合研究所顧問)
E-wave Tokyo 21 Feb.2024

<写真キャプション:武装した二人の兵士> © RT / RT

副題:この地域は2014年に激しい戦闘の舞台となったが、キエフは地元の反体制派からなんとか守り抜いた。

訳者 池田こみちプロフィール
・東京都練馬区在住
・聖心女子大学卒、東京大学理学部、東大医科学研究所
 ローマクラブ日本事務局などを経て、1986年、環境専門
 シンクタンク、株式会社環境総合研究所を同僚の青山貞一
 と一緒に設立、常務取締役、現在同研究所顧問

 茶道表千家教授として池田宗蹊社中を率いる

本文

 土曜日、ロシア国防省は、ドネツク市の北西に位置するウクライナ軍(AFU)の重要拠点であったアヴディエフカ(Avdeevka)が解放されたと発表した。この地域は、キエフ軍が地元のドンバス分離派と戦った2014年当時から、戦略的に重要な地域とみなされていた。

 ロシアの軍事作戦開始後の2022年、アヴディエフカ近郊の状況は再びエスカレートし、過去2年間、周辺での戦闘が続いていた。

 昨年10月10日に始まり、ウクライナ守備隊の敗北で幕を閉じた直近の戦闘ではリマン方面から移送されたロシア軍が追加投入され、アンドレイ・モルドヴィチェフ大佐が指揮を執った。

 ウクライナ軍は、ロシア軍の進撃を止めることができず、守備隊に恒久的な補給線を確保することもできなかったため、約850人の捕虜と多数の戦死者の遺体、多くの軍備を残して、急いでアヴディエフカから逃走した。ウクライナ軍には、この地域の高層ビルを爆破する時間もなかったため、ロシア軍からはアヴディエフカの将来の防衛線がよく見えるようになった。戦闘中および撤退中に死亡したウクライナ軍兵士の数は現在のところ不明である。ロシアのショイグ国防相によると、アヴディエフカ占領前の24時間で、AFUは1500人以上を失ったという。

 ロシア軍が同市の占領に成功したことで、ドネツク方面の作戦状況は一変した。ドネツク、マケーエフカ、ヤシノバタヤに対するウクライナの潜在的な攻撃回数を減らすことに加え(前線が西と北に押しやられたため)、アヴディエフカの解放によってロシアはドネツク-ゴロフカ間の高速道路とヤシノバタヤの主要な鉄道ジャンクションを再建できるようになる。さらに、AFUは新たな、より要塞化されていない陣地への撤退を余儀なくされた。

 とりわけ、この勝利はドネツク住民の士気を著しく高め、生活が正常に戻り、長年にわたって生活してきた砲撃による恐怖が止むかもしれないという希望を与えた。彼らの喜びを十分に理解するためには、歴史を掘り下げる必要がある。そこで、もし差し支えなければ、30秒か1分だけお時間をいただいて、簡単な歴史的背景を解説させていただきたい。

ドンバス紛争とミンスク合意

 2014年にドンバスで戦争が勃発する前、アヴディエフカは典型的な工業都市だった。アヴディエフカの北郊外にあるアヴディエフカ・コークス・ケミカル工場(後にAFUの強襲拠点となる)は、かつてはウクライナの主要な冶金施設のひとつだった。

 内戦が勃発すると、この街はドネツク人民共和国(DPR)の支配下に入った。アヴデフカは、ドネツク(ドネツク人民共和国の首都)とゴロフカ(反乱軍が支配する最大都市のひとつ)の間に位置していたため、戦略的に重要だった。アヴディエフカをめぐる戦闘は7月に勃発した。しかし、ノヴォロシヤの親ロシア派民兵は同市の支配を維持することができず、7月28日にウクライナ軍が同市を占領し、ヤシノヴァタヤ方面へ前進を続けた。

 ウクライナの内紛をロシア、フランス、ドイツの協力を得て外交的に解決しようとしたミンスク第一次合意では、アヴディエフカはウクライナの支配下に置かれることが規定された。アヴディエフカは、ドネツク空港やドネツク近郊のペスキ村の領土とともに、この方面におけるAFUの主要拠点となった。ミンスク合意によれば、ウクライナ軍は緩衝地帯を作るため、これらの領土の一部から撤退しなければならなかった。しかしAFUは、ドネツクをはじめとするDPR(ドネツク人民共和国)の他の地域を砲撃で攻撃できるこの足場を失いたくなかった。

 これはDPRにとってはかなりの脅威であった。2015年1月から2月にかけて敵対行為の第2段階が始まると、ドネツク軍はドネツク空港の主要な建物を襲撃し、ペスキとアヴディエフカを攻撃しようとしたが失敗した。この時、ドネツク軍は初めて「ゼニト」の拠点(かつてNATOとワルシャワ条約機構との世界的な対決のために装備されていた旧ソ連の防空基地)について知った。

 そこに配置されていたウクライナ守備隊は、民兵縦隊がスパルタク村からアヴディエフカのヒミク地区(Microdistrict=狭いエリア)(後に「要塞」として知られる)に向かって進軍していることを発見した。この地区は高層住宅が立ち並ぶエリアであり、また、市内の残りのエリアは 主に工業用建物や民家で構成されており、攻撃を阻止することができた。

 2015年の冬、DPR武装勢力はアヴディエフカの解放に失敗し、接触線は「凍結」され、「停戦」中の流血の陣地戦につながった。ドネツク=ゴロフカ道路や「ヤシノヴァタヤ分岐点」といった戦略上重要な場所に近接しているため、対立する当事者間には常に緊張が走った。2016年から2017年にかけては、ブトフカ鉱山の換気シャフト、「アルマジー」と「プロムカ」(アヴディエフカ工業地帯)の拠点の支配権をめぐって白熱した戦いが勃発した。

 2017年の冬、アヴディエフカ近郊でのエスカレートは、活発な敵対行為の再開につながりかけた。しかし、ミンスク協定の保証人が当時の事態の収拾に貢献した。前線は2022年まで安定し、停戦違反の数も減少した。膠着状態にもかかわらず、ウクライナはアヴディエフカの支配権を保持し(「プロムカ」の一部を除き、DPR軍の支配下にあった)、ドネツクとゴロフカを結ぶルートを封鎖したため、これを勝利とみなすことができた。

 ウクライナは、ドネツク市街地の住民のために水を浄化する地元のろ過プラントも支配した。キエフ軍は恐喝に訴え、DPRに居住する職員がプラントへアクセスすることを制限した。その結果、赤十字国際委員会(ICRC)はこの人道危機の仲介役を引き受けなければならなかった。

ロシアの攻勢開始とアヴデフカの戦いの第一段階

 ロシアはドンバス共和国を承認し、2022年に軍事作戦を開始した後、戦線の南部、つまりヴォルノヴァハとマリウポリに兵力の大半を引き寄せた。これはいわゆる「クリミアへの陸上回廊」を確立したモスクワにとっては大きな戦略的成功をもたらしたが、AFUはこの時間を利用してドネツク地域の防衛(ミンスク合意期間中、ウクライナは前線に沿って部隊を配備)を強化した。その結果、ロシア軍はすぐにアヴディエフカを占領することはできなかった。

 3月、アヴディエフカをめぐる戦いの第一段階が始まった。モスクワ軍はアヴディエフカの東側でウクライナの防衛線を突破した。その後、この領土は包囲網の北の側面として知られるようになり、最終的にロシア軍の勝利に貢献した。3月23日、ヴェルフネトレツコエ村が解放された。5月には、トロイツコエ村、ノヴォセロフカ村、ノヴォセロフカII村、ノヴォバフムトフカ村の一部もロシア民主共和国の支配下に入った。


<戦況地図-1> 2022年6月現在の前線
© RT / RT


 6月には、隣国ルガンスク人民共和国(LPR)のリシチャンスク・セベロドネツク地区でウクライナ軍守備隊と戦った部隊を強化するために、DPRの人民民兵部隊(アヴディエフカ付近に配置されていた部隊を含む)が移動したため、部隊はそれ以上前進することができなかった。2022年7月3日、リシチャンスクはロシア軍によって解放され、ドネツク第1軍団の部隊はDPRに戻り、戦闘の第2段階に向けた準備を開始した。

 ロシア軍はLPRで重要な勝利を収めたが、アヴディエフカからほぼ2カ月間撤退しなければならなかったため、AFUは守備隊を強化することができた。しかし、ロシア軍はいくつかの村を占領し、ヤシノヴァタヤ周辺の治安状況を改善することができた。

戦闘の第二段階: 南側の側面

 2022年7月、ロシアはドネツク西郊外への攻勢を開始した:アヴディエフカ、ペスキ、ネヴェルスコエ、マリインカである。これはアヴディエフカをめぐる戦いの第2段階といえる。戦いは熾烈を極め、第一次世界大戦の塹壕戦を彷彿とさせるものとなった。

 今回、部隊はほとんどアヴディエフカの南西に集中し、北東側での活動は欺瞞的な作戦として機能した。ロシア軍は速やかにブトフカ鉱山の換気立坑を占拠したが、その後、ドネツク環状道路沿いと「ゼニト」要塞地域のウクライナ軍陣地に突っ込んだ。

 ロシア軍はまた、ドネツク空港周辺の攻勢を開始し、ドネツク空港の領土の一部を制圧した。これらの陣地は「蟻塚群」として知られ、VodianoyeとOpytnoyeの村の近くに位置していた。ドネツク空港の全領土は、2022年11月にロシア軍に占領された。

 第三に、ドネツク市とドネツク環状道路の間に位置するペスキ村をめぐる戦闘が約1カ月間続いた。ウクライナはここを橋頭堡(前進への足がかり)としてドネツクを攻撃することができ、またキエフの防御陣地を「覆い隠す」こともできたため、ペスキは戦略的に重要だった。この最前線の村は、かつてドネツクの上流中産階級の住民が「ダーチャ」(田舎の家=別荘)を建てていたが、2014年に戦闘が始まって以来、ほとんど完全に放棄され、軍事化されていた。

 ペスキを解放し、「橋の共和国」として知られるウクライナの拠点を占領した後、ロシア軍はドネツク環状道路を横断し、隣接するペルボマイスケ村の東の郊外に入った。しかし、現在も続くペルヴォマイスケの戦闘は、敵の注意をそらすための欺瞞的な手段を除けば、アヴディエフカの戦闘とは直接の関係はない。

 ドネツク環状道路に到達したロシア軍は、ヴォディアノエ村とオピトノエ村を目指して北進を続けた。この頃には弾薬不足に直面し、ロシア航空はまだ十分な数の調整可能な航空爆弾を保有していなかった。攻勢は行き詰まり、かなりゆっくりと進んだ。しかし、11月15日、部隊はオピトノエを占領し、2022年12月14日、ヴォディアノエの東部、つまり「主要」部分もロシアの支配下に入った(村の西部、つまり数キロにわたって延びる1本の通りの支配をめぐる戦いは今日まで続いている)。


<戦況地図-2> 2023年1月の前線 
Front line as of January, 2023 © RT / RT


 この間、ウクライナ軍はドネツクを攻撃し続け、多くの民間人に死者を出した。これらの攻撃の一部は、アヴデフカ近郊の領土から行われた。この頃までにロシア当局は、軍事作戦の目標の一つはドンバスの人々を守ることであり、ウクライナの大砲をドネツク市から遠ざけることなしには不可能であると繰り返し述べていた。

 南西側で一定の前進を遂げた第1軍団の各部隊は、(弾薬不足などの理由から)
攻撃力を使い果たし、突撃作戦の強度を下げた。翌年、ロシア軍はヴォディアノエ・オピトノエ線の北と西に約2キロずつ支配地域を拡大したが、ヴォディアノエ・オピトノエとトーネンコエ村の間に位置するAFUの防衛陣地にぶつかった。

戦いの第三段階: 2023年春、北方側面

 2023年初頭は双方にとって緊張の時期だった。ウクライナはソレダルの制圧を失い、アルテモフスク[バフムート]でのAFUの立場は思わしくなかった。当時、アルテモフスク[バフムート]は最も白熱した戦闘の舞台だった。軍事監視団は状況を注意深く観察し、双方はその地域で自軍への補給に力を注いだ。ロシアとしては、南部とLPRで防衛線の建設に従事し、『バフムートの肉挽き』でウクライナの予備軍を打ち負かそうとしていた。

 新たな「ホットスポット」を作り出し、アルテモフスクからAFUの注意をそらすため、ロシア軍は2023年2月末に再びアヴディエフカ攻撃を試みた。この時、焦点は北東側面に移った。

 4月までに、ロシア軍はノヴォバフムトフカ村を占領し、高台に位置する鉄道線路沿いのノヴォゴロドスキー都市集落(ウクライナではニューヨークとして知られている)の反対側に防衛線を構築した。これはAFUが北から反撃してロシア軍を追い出そうとした場合に備えてのことだった。

 ロシア軍はまた、ドネツク-コンスタンチノフカ間の高速道路を横断し、まずヴェセロエ村とクラスノゴロフカ村、次いでカメンカ村を占領した。アルテモフスク近郊でAFUが攻勢を開始し、さらにラボティノ近郊とヴレミエフスキー峡谷で攻勢を開始したため、それ以上の前進は不可能だった。ロシア軍の焦点は再び別の方向に移った。


<戦況地図-3> 2022年5月から6月の前線
Front line as of May-June, 2022 © RT / RT


戦闘の第4段階: アヴデフカ包囲の試み

 2023年夏、ウクライナの反攻が失敗した後、ロシア軍司令部は再びアヴディエフカに目を向けた。この都市の戦略的価値に加え、ウクライナ軍の陣地が部分的に包囲された状況は、キエフが可能な限り持ちこたえようとし、多くの兵士を失ったアルテモフスクの状況に似ていた。

 このため、中央軍管区の第2軍と第41軍が増援としてリマン方面からアヴディエフカに移動した。この作戦を指揮したのは、マリウポル攻略に携わり、アヴディエフカを襲撃した第1軍団を含む第8連合軍を指揮していたモルドヴィチェフ大佐であった。ウクライナにとって、この部隊移動は驚きだった。ウクライナの情報総局に所属する軍事専門家コンスタンチン・マショベツはこう書いている:

 「敵は第2連合軍の部隊をリマン方面から移送し続けている。私の知る限り、敵は多くの偽情報で(部隊の)動きを隠している。オープンソース(のデータ)のみに基づいて彼らの位置を特定しようとすると、一度に複数の場所にいるように見える。」、と。

 新たに到着した部隊は北側を補強したが、南西側は比較的弱い状態だった。最
初の目標は、アヴディエフカ・コークス化学工場(ACCP)とクラスノゴロフカの間にある、同工場が造成した巨大なスラグ捨て場だった。これは人工的に造られた高台で、戦術上、ロシア軍が西に移動するためにはここを占領する必要があった。何度かの攻撃を経て、10月19日に占領された。

 モスクワ軍はその後、アヴディエフカ-オチェレチノ鉄道線に移動し、AFUはそこで防御態勢をとった。そこでの戦闘は秋を通して続き、ウクライナ軍はザポロジエ地方の攻勢に以前参加していたブラッドレー第47機械化旅団を含む予備兵力をこの地に移送し始めた。

 AFUは鉄道沿線の陣地を維持することができず、ロシア軍はペトロフスコエ(ステプノエ)村の制圧のために戦い、そこで立ち往生した。2月18日現在、ペトロフスコエは占領されていない。AFUがアヴディエフカ・コークス工場の建物とパイプにカメラと無線中継器を設置し、同工場を要塞として利用したためである。

 ペトロフスコエを占領することができなかったロシア軍は、鉄道に沿って北西のオチェレチノ方面に前進を続け、4キロメートル圏内まで迫った。その結果、オチェレティーノはアヴディエフカ守備隊の後方補給基地ではなくなった。

 同時に、化学工場の北側に集中していたウクライナ軍の注意をそらすため、ロシア軍はアヴディエフカの反対側を攻撃した。彼らの目的は、「プロムカ」要塞地区を占領することであった。プロムカは、ミンスク協定の間、前線で隔てられていたアヴディエフカとヤシノヴァタヤの間にある工業用建物の集合体である。AFUはそこに主要拠点を築いたが、ウクライナ軍は街の反対側の陣地防衛に集中していたため、11月25日までにこの拠点を失った。


<戦況地図-4> 2024年1月の前線
Front line as of January, 2024 © RT / RT


 2024年1月まで、ロシア軍はペトロフスコエとオチェレチノの地域で進軍を試みたが、望ましい結果を得ることができず、作戦は延期された。新たな解決策を見つける時が来たのだ。

戦闘の最終段階

 2024年初頭までに、ウクライナ軍はアヴディエフカを包囲し、すべての補給路を断つというロシア軍のいくつかの試みを阻止することに成功した。しかし、市内に配置されたウクライナ軍は、補給路が少なくなり、ロシアの砲撃、航空攻撃、ドローン攻撃、突撃作戦の結果、損害を被ったため、弱体化していった。

 ロシア軍司令部はペトロフスコエ付近で前進を続け、クラスノゴロフカとアヴデフカの間にある下水処理場付近にも目を向けた。この地域には低層の民家があり、AFUは実質的にすべての民家に防衛陣を敷くことができたが、同時にロシアのストームトルーパーが裸地を移動する必要がないようにカバーすることになってしまったため、この地域での戦闘は12月に始まり、最終的にはウクライナ守備隊にとって致命的なものとなった。

 下水処理場に沿って前進したロシア軍は、唯一の主要要塞であるアヴデフカ化学工場がある市の北部に進入した。ロシア軍はその後、アヴディエフカの入り口にある旧カフェ「ブレヴノ」(「丸太」)の方向へ、ロシア連邦軍がまだ支配していた唯一の舗装道路に沿って突撃作戦を開始した。この作戦によって、ウクライナ軍守備隊は街の主要(居住)地区に留まることを余儀なくされ、要塞構造物でありウクライナ軍守備隊の後方でもあった化学工場から遮断された。

 ロシア軍のストームトルーパーが北部をゆっくりと前進する一方で、南からも攻撃を開始し、今度は「ツァールスカヤ・オホタ」(「王家の狩り」)と呼ばれるウクライナ軍の陣地を攻撃した。1月21日の大胆な作戦で、ロシアのストームトルーパーは地下のパイプ網を通り抜け、「ロイヤル・ハント」陣地の後方まで行き、そこを占領した。彼らはまた、ソボルナヤ通り、スポルティヴナヤ通り、チェルヌイシェフスキー通りの一部を掌握し、市内の住宅街に侵入した。この攻撃の結果、「ゼニト」を含むアヴディエフカ南西の重要なウクライナ陣地の多くが補給を断たれた。

 ウクライナ軍は反撃し、ロシア軍を押し出そうとした。ブラッドレー戦闘車を装備した第47機械化旅団の一団も参加した。しかしながら、この戦闘は双方にとって決定的なものとはならなかった。ロシア軍はそれ以上前進することができず、ウクライナ軍はロシア軍を押し出すことができなかった。そうしたなか、ウクライナの守備隊にとって状況はさらに悪化した。

 ついに2月2日、ウクライナのFPVドローンパイロットが、下水処理場付近でのロシア軍の前進を映したビデオを投稿した。ロシア軍は実質的に市の北部に進入していた。ディープステート※のウクライナ人アナリストは2月4日の結果を要約し、皮肉にもこの状況をユーロビジョン・ソング・コンテストのウクライナ人候補者の選出と比較し、「アヴディエフカでは死が独自の選考プロセスを行っている」とアヴディエフカに注目を集めた。

※注:Deepstate
 闇の政府、地底政府とは、アメリカ合衆国の連邦政府・金融機関・産業界で秘密のネットワークを組織しており、選挙で選ばれた正当な米国政府と一緒に、あるいはその内部で権力を行使しているとされる人たちである。彼らは隠れた政府として機能しているとされる。 ウィキペディア


 翌日、彼らはこうも述べた: 「ある公式声明にもかかわらず、街の状況は悪化の一途をたどっている。今日、クソ野郎どもは文字通り、あらゆる隙間から這い出てきた。カツァプ(ロシア人に対するウクライナの蔑称)は、自分たちの陣地を確保し、より多くの人員をスタラヤ・アヴディエフカとアドヴェフカコークシ化学工場近くの集落に入れることに集中している。」と。

 2月7日、ウクライナの守備隊にとって状況は危機的なものとなった。ロシア軍は主要補給路から1キロ以内に迫っていた。ウクライナのアナリストは、アヴディエフカの状況を「混沌」と表現した。

 このとき、撤退を望まなかったウクライナ軍司令部は、ロシア軍を反撃し、連絡線から遠ざけることを期待して、精鋭の第3分離突撃旅団をアヴディエフカに派遣した。ちなみに、この地域には霧が発生していたため、守備隊の撤退には非常に有利な気象条件だった。しかし、市内での戦闘とロシア軍の決定的な前進にもかかわらず、ウクライナ軍司令部は依然として軍の撤退を命じなかった

 しかし、第3突撃旅団の司令官たちは、ロシア航空が1日に投下する航空爆弾の数が記録的であることが知られているような激しい市街戦には参加したくなかった。そこで旅団の参謀長は、自身のソーシャルメディア上でノヴゴロドスコエ(ニューヨーク)からの側面攻撃という代替案を提案した。しかし、ウクライナの防衛陣地が崩壊していたため、非現実的と思われたこれらの提案を上層部は無視し、第3分離突撃旅団はロシアの楔(くさび)の両側面に沿って配置され、戦線を安定させようとした。しかし、新たに編成されたいくつかの大隊の人員不足(新大隊のひとつで捕虜となった将校は、数週間前に第3旅団に転属したばかりで、彼の中隊には14人しかいなかったと語っている)などいくつかの要因により、旅団の部隊はロシア軍に包囲された。

 この頃、ロシア軍はインダストリアルニ・プロスペクトの工業地帯に進入し、その後、「丸太」陣地を占領し、アヴディエフカ郊外のラストチキノ集落に攻勢をかけた。その結果、ウクライナ軍守備隊は唯一の舗装された補給路へのアクセスを断たれた。同時に、「ゼニト」、「チェブラーシカ」、「ヴィノグラードニキ2」陣地の戦闘が南側で始まった。ウクライナの守備隊は血まみれになったが、それでも撤退命令は出なかった。

 ついに2月17日、タヴリア作戦戦略グループ司令官タルナフスキー准将と、新たにAFU総司令官に任命されたシルスキー大佐は、封鎖解除が不可能であることを認識し、軍にアヴディエフカからの撤退を命じた。

今後の展望

 アヴディエフカの解放により、AFUが樽型大砲を使ってドネツク、ヤシノヴァタヤ、マケエフカを攻撃する可能性は低下する。しかし、これらの地域の市民の安全を保証するためには、AFUが長距離MLRSシステムを保有しているため、前線をこれらの都市からさらに遠ざける必要がある。

 作戦レベルでは、必要な修復が行われた後、ドネツク-ゴロフカ間の高速道路が再び使用される可能性が高い。また、ヤシノヴァタヤにあるこの地域の主要な鉄道の分岐点も、攻撃から守られるようになるだろう。実際、前線がさらに西に移動すれば、ロシアはドネツクの重要な鉄道ハブの封鎖を解き、兵站を改善できるだろう。

 さらに、ウクライナ側はアヴデフカ化学工場の多層階住宅や建物を爆破する暇もなく、今や圧倒的な高台として、市街地の西15kmまでのAFUの陣地を監視するのに使われるかもしれない。

 さらに、AFUが撤退した「準備された陣地」に関しても、多くの疑念が生じている。2月18日現在、ロシア軍はアヴデフカの西に位置するラストチキノ村で戦っており、おそらくこの村も間もなくロシアの支配下に入るだろう。

 一般的に、アヴディエフカから約5kmのドゥルナヤ梁沿いか、約15kmのヴォルチャ川沿いのどちらかに防衛陣地を設置できる地形となっている。

結論

 2月17日、ロシア軍は多くの血が流された都市で重要な戦闘に勝利した。直近の戦闘で死亡した軍人の数は不明であり、同様に、捕虜となったウクライナ兵の数もまだわかっていない。

 事前情報によると、ロシア兵はアヴディエフカで多くの戦利品を発見したが、それらは(現存する複数階建ての建物と同様)AFUの性急な撤退によって残されたものである。

 また、アヴディエフカの住民の何人が市内での戦闘を生き延びたかもわからない。現在、人々は避難しており、支援が提供されている。原則として、避難を拒否し、ロシア軍に占領された都市にとどまる市民は、親ロシア的な考えを持っている。しかし、故郷の被害を考えれば、そこを離れて別の場所で新しい生活を始めなければならない可能性が高い。

 ドンバスの人々は、アヴディエフカの解放を敬虔な敬意を持って受け止めている。この地域の住民は、「ゼニト」、「ロイヤル・ハント」、「プロムカ」といった旧要塞地域を訪問者に案内している。

筆者:ウラディスラフ・ウゴルニー(Vladislav Ugolny)
 ロシア人ジャーナリスト、軍事アナリスト。過去にはルガンスク人民共和国の民兵として活動。Владислав Угольны