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米国民主政治の堕落と混乱を予告した
トクヴィル
 (1)
【伊藤貫の真剣な雑談】第14回 (チャンネル桜 youtube)

 War in Ukraine #3950  3 August 2023


トランススクリプト 池田こみち(環境総合研究所顧問)
独立系メディア E-wave Tokyo 2023年8月3日

アレクシス・ドゥ・トクヴィル
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる


 その1   その2   その3

 今日はフランスの著名な政治思想家であるアレクシス・ドゥ・トクヴィルの啓蒙主義批判について講義させていただくこととします。

 啓蒙思想というのは18世紀の後半にできた思想で、大雑把に言うと、国民主義、民主主義、国民主権、平等主義が理性的な国家の状態であるという考え方であり、階級社会や国王制、キリスト教世界観も迷信に満ちている、我々は理性をもつ進歩的な人間であるから、民主主義、平等主義、国民主義を社会で実現すればいいという考え方です。

  トクヴィルはナポレオンが皇帝だった時に生まれ、1827年22歳の時に当時のナポレオンが失脚した後、ブルボン王朝が復活し、その復興王朝の司法庁の官僚となった。1830年に7月革命と呼ばれるブルジョア中心とする革命がおき、ブルボン朝が倒れ、親戚にあたるオルレアン朝ができ、貴族王侯の立憲君主制(イギリスをまねしたやり方)とし、ブルジョア王朝と言われていた。ブルジョア階級の利益を重んずる政府となった。トクヴィルはそれぞれの王朝で司法官僚として働き、34歳の時(1839年)に国会議員となった。

 その後、9年間務め、2月革命が起き、王朝制を否定して第二共和政となる。そこで、外務大臣に任命されたが、2、3年たつと第二共和制でナポレオン3世が大統領に当選したが、彼は共和制では満足せず、ナポレオン3世は最初の皇帝の甥にあたり、自分も皇帝になりたくてクーデターを起こし、共和制を壊し皇帝になった。その時点でトクヴィルは皇帝制が許せないとして退任する。

 穏健な保守派、穏健なリベラル派とも呼べる中道路線を歩んだ。彼の歴史的な重要性というのは、彼のポストではなく、彼の啓蒙主義に対する支持と鋭い批判、この二つが同一人物に同居していること。彼の本を読むと、ものすごく頭がいい。同時代の人も、なぜこんな頭のいい人が国会議員になったりするのかと疑問を持っていた。

 当時(ブルジョワ王朝)の国会議員は質が悪かった。トクヴィルの一番有名な本が「アメリカのデモクラシー(Democrasy in America)」で800頁の大作。これは二冊になっていて1835年と1840年にそれぞれ出版されたもの。私から見ると、1840年の本がすごい!というのは、トクヴィルはオルレアン朝の国会議員と第二共和政の外務大臣を務めたくらいなので、自由主義、平等主義をパブリックな場で支持していた人なのだが、彼の800頁の本を読むと、ものすごい批判を書いている。

 彼は、18世紀後半の啓蒙主義と19世紀初頭の進歩主義を受け入れる政治的立場に立ちながら、同時に、啓蒙主義をやっていて国家は本当によくなるのか、国民の質がよくなるのか、国民はよりよい生き方をしているのかについて大きな疑問を持っていた。

 政治家が表面的な行動と腹の中の考えが違うといった表面的なレベルの違いではなく、政治思想と哲学、人間のよりよい生き方とは何かという点から啓蒙主義に対して批判的だった。

 なぜ、その話をするかというと、現在のアメリカの民主主義というのは徐々に崩壊に近づいていると思う。来年の選挙でだれが大統領になってもろくなことにはならない。アメリカ人の7割以上がアメリカの大手マスコミの報道を信用していない、アメリカの大手マスコミを信用するという世論調査の数字はせいぜい20数パーセント、また、国民の4割は選挙(バイデンとトランプ)はイカサマであると指摘しており、選挙はおかしいと思っている。

 つまり、政府の正当性がないと考えている。今のアメリカ政府が正当に選ばれた政府なのか、どっか裏でCIA,FBI、国務省などがイカサマをやって選んだのか、民主主義にとって一番大切なのは国民が信用できる報道の自由、が存在しなければいけないが、7割以上の人が信用していないというと、選挙の結果も疑っている人が4割りという国で果たして民主主義が維持できるのかというと、私はどんどん悪くなっていると思う。

 日本も自民党が現在の国防政策、経済政策について過去30年間失敗してきたにも拘わらず、ろくな野党がいない、自民党が失敗していても野党に票を入れるわけにはいかないということで、民主主義がきちんと動いていない状態。世界中の国で民主主義体制がうまく運営されていないような印象を多くの人がもちだしている。

 トクヴィルの本をよむとなぜそうなるのか、なぜ国民が民主主義、平等主義、自由主義を長期間実行すると国民がそういう体制を信用しなくなるのか、というパラドックスを分析してくれている。彼の民主主義、平等主義、自由主義に対する懐疑心はほとんど哲学的ともいえる思考に基づいたものであって、表面的なものではない。

 彼の顔を見るだけで頭がよさそう!本を読むとほんとに頭がいい。

 私が最初にトクヴィルを読んだのは30歳ごろだが、なんと頭がいいのだろうと思ったものだ。だが、60歳になって読み返すとまたまた彼の頭の良さに感心させられた。 

 彼が最初に「アメリカの民主主義」を書いたのは30歳のときで、とても30歳の若造が書くような本ではない。50歳の思考力のある人が書いたような内容。天才だから書けたのだろうという感じがする。

 今日は彼の著作のポイントを10個紹介します。

言いたいことは5つ;

 ①民主主義体制を長期間続けていると国民が深く考える能力を失い。
 ②国民が個人主義的になり公の問題について無気力、力無関心になる
 ③国民が徐々に自分のことにしか関心を持たない利己的拝金主義者になる
 ④哲学的な複雑な問題だが、人間としての本当の自由を失ってしまう。
  見せかけの自由(職業選択、言論の自由など)はあるが。本当の人間と
  しての深い自由を失って、本来の自由を実践しているわけではない。
  浅い自由(shallow minded freedom)は残されても。人間としてのDeep
  Freedom は失われていくということを説明している。
 ⑤人間の価値判断力が軽劣化していって学問、芸術も、文明の質も低
  下していってしまう。価値判断を失った場所で自由主義をやっているの
  で、文明が停滞、混迷状態になっていくということ。

 そこで思い起こすのが、プラトン、アリストテレス。彼らは、民主主義をずっとやっていると国民が価値判断能力を失って、もう一度独裁者もしくは専制政治となると言っていた。24世紀前に先人が言っていたことにトクヴィルも同意している。

 今の日本、今のアメリカがなぜ混迷した状態、うまくいかない状態なのか。廃れていくか、優秀な政治家は出てこない。民主主義をやっているとほんとうに優秀な政治家は出てこない。民意を反映した政治家は多くの場合、ほとんどの場合、やっているふりをしている政治家にすぎない。実際に歴史を変えたり文明の混乱、低迷状態を改善するような能力を持っていない。なぜ、そういう政治家が出てこないかということもトクヴィルは180年前に、指摘・予言している。

 私のようにアメリカの民主主義政治を観察しているとアメリカの政治にも期待は持てない、日米ともに悪くなっていくだろうと思っている。なぜそうなっていくかをトクヴィルは約180年前に説明してくれている。ですからとても役に立ちます。今日は約10のことを説明します。トクヴィルの著作から多くを引用します。


まず最初に

 『民主主義、自由主義、平等主義を続けていると国民が深く考える能力を失っていく。』、トクヴィルの観察によれば、『18世紀の階級制度が残っていたヨーロッパのほうが19世紀の民主主義を実行し始めたヨーロッパよりも国民が思考能力があった』、と考えている。

 彼に言わせると、『民主主義社会では、すべての国民が平等な思考力と平等な価値判断能力を持つとみなされている。したがって民主主義社会では、すべての人がすべてのことに自分の判断を下す能力があるという建前になっている。国民はだれもが自分の判断に自信を持つようになる。したがって、自分より優れた判断を持つ人の意見に耳を傾ける必要を感じなくなる。同時に、社会の伝統的な価値基準を尊重する姿勢も失っていく。民主主義社会くらい深くものを考えるという態度に向いていない体制はない。

 民主主義社会においてはほとんどの人が金や社会的地位や名声や権力を追いかけて毎日あくせくと動き回っている。18世紀の階級社会において、人々は実は、のんびりしていた。しかし、19世紀の民主主義、自由主義の社会においては、機会平等であるから、だれもが自分の地位と経済的条件を向上させようと競争し始める。したがって国民は18世紀と違って19世紀の国民は自分の目先の損得と勝ち負けに熱中する。このように目先の損や勝ち負けに熱中する人々にとってじっくりと自分の人生を考えてみるという沈着冷静な態度は不必要なものとなっていく。

 したがって民主主義における人間は、激流に押し流されるあぶくのような存在になる。民主主義社会ではじっくりものを考えるという態度は軽視されるようになり、社会で活動的で活発な生き方をする人が尊敬される。深い思考力は必要とされなくなる。民主主義社会で必要なのは、世間の潮流を素早く察知して群衆の心理を鋭く見抜いて自分が成功するチャンスを増大させていくことである。

 したがって民主主義社会では、表面的ではあるが、もっともらしく聞こえるアイディアがもてはやされ、深い分析や洞察力は過小評価されていくようになる。国民は自分の利益と自分の快楽に役に立つ新しい方法やテクニックを望むが、自分の得にもならない抽象的な知的な活動には見向きもしなくなる。』


■二番目に個人主義(Individualism)がある

 トクヴィルによると、ギリシャ・ローマ時代から18世紀まではそもそも個人主義という言葉が存在しなかった、という。そういう言い方がなかったので、人々は個人主義的ではなかったのだ。

 しかし、革命以降のヨーロッパで民主主義、自由主義、平等主義がはじまって、初めて個人主義的な生き方が広まってきた。トクヴィルはこの個人主義という生き方に対して、批判的。『なぜなら民主主義の時代になると、人々は優れた人の見識から学ぶよりも自分自身の好き嫌いの感情と生まれつきの性格、体質、気質の中に自分の心情を見出そうとする。彼らは個人主義者となり、自分の気に入る人だけと交際して社会の動きに関心を持たなくなる。これは人々の公徳心を枯渇させていく。個人主義とは民主主義から生まれた生き方であり、平等主義により一層強化されている。』

 『フランス革命前の階級社会において、人々は自分の先祖を明確に覚えており、しかも尊敬していた。そして彼らは、自分の孫の世代を明確に意識しながら生きていた。人々は先祖に対する義務と子孫に対する義務の双方をを常に念頭に置きながら生活し、先祖と子孫のために自分の利益を犠牲にすることを厭わなかった。しかし、民主主義社会になってから、人々は先祖のことなどあっさり忘れてしまった。そして、子孫の世代のことも気にしなくなった。そして彼らは、隣人に対しても無関心になった。』

 『階級社会であったときは、国王から農民まですべてのひとは人間関係のネットワークに組み込まれていた。しかし民主主義社会は、このようなネットワークを解体してきた。』

 当然ですよね。機会均等・平等主義ですから。そうする人間関係のネットワークなどというのはどんどん破壊いてもかまわない、自由に動き回るのが国民の生き方。ネットワークはどんどん解体されていく。

 『人々はバラバラになって孤立し、お互いに対する義務感と期待感を持たなくなる。民主主義社会で、国民は人生で頼りになるのは自分だけという孤立感を抱くようになり、緊密な人間関係を築くのが難しくなっていった。

 人間の心を大きくししかも思考力を深めて行くには人間同士が相互に影響し合うことが大切である。しかし、民主主義社会においては人間関係がどんどん希薄になっていくので、お互いに思考力を深めるとか心を大きくする機会も減っていく。機会平等主義と能力主義を重んじる民主主義社会は民主社会は人間を自分の成功と自分の幸福にしか興味を持てない孤独な競争者(lonley competitor)に変えていくのである。』

 トクヴィルは、『このような平等主義が普遍的な思想になるなら、人々の思考力は狭くなっていくだろう。人々は自分の目の前の世界にしか関心を持たず公共の問題には関心を失う。人々は無気力、無関心な態度で時代の流れに押し流されるようになり、奮起して社会の流れを変えようとして努力する人などいなくなる。それによって多くの人たちは孤独で矮小で不毛な人生を生きていくことになるだろう。』と述べている。

■三つめは、民主主義社会自由主義社会では国民の多くが自分のことにしか関心を持てない利己的な拝金主義者になる。

 なぜなら、18世紀までのヨーロッパ社会では良くも悪くも価値判断のバックボーンとなっていたのはキリスト教的な人生観であり、キリスト教的な世界観だった。啓蒙思想というのは、繰り返しになるが、宗教などと言うのは迷信に過ぎないということで、我々は理性的な高等生物なので宗教などと言う迷信を信じる必要はないということから、キリスト教的な人生観や世界観を捨てたわけです。

 ことによって、どうなったかということ、キリスト教的世界観を持っていると言うことは神の存在を信じていて、人間は神から生まれたものであり、死んだら神の元に戻っていくことを信じていたが、啓蒙主義の下で生きている人間は、神はいないし、死んだ後に神の元に戻ることはなく、生きている間に金を稼いで欲望を満たしていい生活をするのが一番賢い考え方と考えるようになる。

 とどうなるかといえば、「今だけ金だけ自分だけ」の拝金主義者になるということに他ならない。トクヴィルに言わせれば、『民主主義と平等主義の社会では人々は、過大な自己評価とプライドを持つ、嫉妬深い存在となる。』と。

 私は、日本の場合には、僕はあまり過大な自己評価とプライドをもつ嫉妬深い存在になっているようには思わないが、アメリカはそうです。アメリカ人は皆さんものすごいセルフ・エスティーム(self esteem)自己評価・自尊心とプライドが強く、セルフ・エスティームとセルフ・リアライゼーション(自己実現)それからセルフ・フルフィルメント(自己充足)がアメリカ人の宗教のようになってるわけで、何でもとにかくセルフ、セルフ、セルフと高いセルフ・エスティームをもって、self realizationとself fullfilment self assertiveness(自己主張)をするために生きていくんだ!と。みんなが、これも主張するしあれほしいし、という生き方をするわけです。

 アメリカ人というのは特にNYとかWshingtonに住んでいる人は自由なように見えて、皆さんすごく嫉妬深いですから齷齪(あくせく)してて非常になんか生きづらそうに僕には見えます。『自分の判断だけに頼る自己充足主義者は他者との関係や自分にとって得となるか、損となるかの基準によってのみ決められるようになる。』

 トクヴィルは、『このようなアメリカ社会では道徳や隣人愛という言葉の意味まで変わってしまった。』と指摘している。要するにアメリカ人が道徳とか隣人愛と言うときに、トクヴィルは、La doctrine de intérêt de bien entendu、英語で言うと doctrine of self interest という皮肉を言っている。つまり、多くの人に承知されている(Widely Understood)という意味。

 なぜ皮肉の意味で言っているかというと、トクヴィルの観察に寄れば、『アメリカ人の道徳というのは自己利益を増大させるために、利他主義を主張するのがアメリカ人の道徳である』、と。つまり、人のため、社会のため、理想のため、人道主義のためという理想主義、利他主義を大声で主張し、自分が自分の利益を増大する、人からよく見られるようにして自己利益を増強していくのがアメリカ人のSelf interestのドクトリンであると指摘している。

 このように利他主義を説いて自己利益を増強していくのが道徳であるとアメリカ人は考えており、しかも、アメリカの牧師たちもキリスト教道徳を身につければこの世で得をするという風にお説教するという。キリスト教道徳というのは神の目から見て自分の行動が正しいかどうか判断する筈の道徳だが、アメリカの牧師たちはキリスト教道徳を実行しているように人から思われればあなたは評判がよくなって現世で得をする、と説き、キリスト教の本来の理論というのはこの世でたとえ報われなくてもじっと我慢して、徳のある生き方をしていけば次の世(来世)で神はそのことを認めてくださり天国に行けると言うことになっているのだが、アメリカ人のキリスト教は人から「Good Christian」と思われるようになれば評判が上がって、得をするからキリスト教の道徳を実行しているふりをした方がいと言うこと。アメリカ人の誇示したがる宗教心もしくは宗教的な情熱の底には、自己利益増大のための冷たい計算が潜んでいる、とこのようにトクヴィルは言っています。

 『このような平等主義、自由主義、民主主義社会において国民の道徳規範と価値判断能力は劣化していくから、低い価値判断しか持てなくなった人はちは自分の目先の損得だけに執着する拝金主義者になると、いうことで、このような拝金主義者になるのはある意味当然のことである。』

 『アメリカではすでに裕福な環境にある人たちでさえ、もっともっとお金をほしがる。ヨーロッパの上層階層では、一旦裕福になるとそれからあとは金儲けを軽蔑する態度をとるが、アメリカの金持ち階級はいつまでたっても金儲けに執着する。だから、民主主義社会に住む人の大部分は、まるで商売人のように打算的である。彼らは、高邁な理想を冷笑し、目先の利益をつかむことに意欲を集中する。人々はちっぽけな利益や優位性を求めて相互に競争し、小規模な財産は地位を獲得した人は自分の成功を他人に見せびらかすことによって人生の満足感を達成する。伝統的な社会に存在していた徳の高い人を尊敬するという心構えは民主主義社会から消滅していく。』と、彼はこのように言っている。


■次は、啓蒙主義プロジェクト、要するに民主主義、自由主義、平等主義を実行すると長期的には国民は真の自由を失ってしまう。

 これは、一体本当の自由とはなにかということの定義に寄りますから、例えば、好きなだけ酒飲んで、好きなだけ女と遊んで好きなだけ贅沢したいと、そういう人たちはもちろん、自分の自由を達成したもしくは充足しているつもりなんでしょうけど、トクヴィルに言わせれば、『そういう自由というのは、なんというか次元の低い自由というか浅い自由(シャローマインデッドなfreedom)でしかない。人間にはもっと大切な真剣な自由があるはずだろうが。』、というふうにトクヴィルさんはおっしゃるわけです。

その2へつづく