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第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

オプロンティス (1)
Oplontis 1

    青山貞一 Teiichi aoyama ・ 池田こみち Komichi Ikeda 
2013-6-14
,更新 2020-11-30
 
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<ヴェスヴィオ総合メニュー>

ッレ・アンヌンツィアータ1    トッレ・アンヌンツィアータ2

オプロンティス(1)          オプロンティス(2)
オプロンティス・ギャラリー1
   オプロンティス・ギャラリー2
オプロンティス・ギャラリー3   オプロンティス・ギャラリー4
オプロンティス・ギャラリー5   オプロンティス・ギャラリー6


 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。  

  
アマルフィの位置   イタリア国旗

◆オプロンティス(1) 

ヴィラAの歴史

<概要>

 オプロンティス(Oplontis)は、イタリア南部のカンパニア地方にあるナポリの南、トーレ・アヌンツィアータ(Torre Annunziata)の町にある古代ローマ遺跡です。発掘された場所は2つのローマ時代の別荘から構成されており、その中で最も有名なのはヴィラA、いわゆるヴィラ・ポッペア(Villa Poppaea)です。

 ポンペイやヘルクラネウムの周辺の町のように、オプロンティスは西暦79年のベスビオ山の火山噴火によって灰に埋もれてしまいました。しかし、噴火の影響はこれらの都市よりもさらに大きく、屋根が崩壊しただけでなく、壁や柱が壊れ、それらの破片が周辺に散乱していました。


オプロンティスの位置図
ヴェスビオ山大噴火の影響範囲 L'eruzione del 79 d.C.
ソレント半島の付け根、アマルフィ海岸にもかなりの灰が落ちたことが分かる
Source:Wikipedia Italia
Par MapMasterTravail personnel, CC BY-SA 3.0, Lien

 上図は、オプロンティスはじめ、その他、西暦79年のヴェスビオ山の噴火の影響を受けた周辺の町の地図です。黒い雲は灰と火砕物(燃えがら)の一般的な広がりの範囲を示しています。海岸線は現代の位置を示しています。


<歴史と発掘>

 オプロンティスの町は、おそらく現在のトーレ・アヌンツィアータの町の下で発展したと考えられます。発掘調査により、特に町の東側と西側が明らかとなり、東の建物は、ヴィラAのすぐ近くにある建物と、トーレ・デル・グレコ(Torre del Greco)とのほぼ境界にある建物が明らかになりました。

 古代では、他の場所(ヘルクラネウムやスタビアエなど)と同様に、ヴィラAのような豪華な住宅用別荘が海岸に並んでいたのに対し、最も生産的な(農業用)別荘はさらに内陸に位置していたと考えられています。
 西側エリアで発見された建物の中で、最も重要なのは、オプロンティスの海岸オンチーノ(Oncino)にある温泉ヌンツィアンテ(Terme Nunziante)の公共施設としてのローマ浴場です。

 R.リベラトーレ(R.Liberatore)は考古学を詳細に記録し、それがルシウス・ノニウス・フローラス(Lucius Nonius Florus)のものであると特定しました。それというのも、その名前が、植物や駈ける馬たちの装飾がある浴場内の素焼き製鉢の端に刻印されていたからです。


Plan of Roman baths ローマ式風呂の見取図
Source:Wikimedia Commons
By R. Liberatore - “Delle nuove e antiche terme di Torre Annunciata,” Annali Civili del Regno delle due Sicilie 6, no. 12 (September-December 1834):, Public Domain, Link

 残念ながら、その上に近代的な浴場を建設したことにより、その(古代の公共施設としての)浴場の建物は破壊されてしまいました。その後、浴場に属する2つの地下給水トンネルまたは排水トンネルが発見されました。

 さらに、近くに2つの住宅用別荘の遺跡が発見されました。ひとつは、その印章が見つかったことから、カイウス・シキュリウス・カイウス・フィリウス(Caius Siculius Caius Filius)が所有していたことがわかり、そこから一枚の素晴らしいフレスコ画が発見されましたが、この地域の多くの遺跡は破壊され盗掘されてしまいました。

<ヴィラAの発掘>

 ヴィラAとして知られる最初のヴィラは、1593-1600年、トーレ・アヌンツィアータの製粉所に給水するためのサルノ(Sarno)のフォンタナ(Domenico Fontana)による巨大な水路建設プロジェクトのさなかに発見されました。同じ水路はポンペイを通っており、そこで彼が最初の遺跡を発見したのですが、オプロンティスでは、廃墟を探検するための何の試みも行われませんでした。この水路はヴィラAの中心を通ります。1785年、スペインの建築家フランチェスコ・ラ・ベガ(Francesco La Vega)は、ル・マスカテル村(Le Mascatelle)として知られるこの地域をトンネル工法で探索し、美しい品々を見つけましたが、有毒ガスのためにすぐに断念しました。



Fresco from Villa Caius Siculius Caius Filius
ヴィラ・カイウス・シキュリウス・カイウス・フィリウスのフレスコ画
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 4.0, Link

 1839年から40年にかけて、ミケーレ・ルスカ(Michele Rusca)はラ・ベガの出版物を使用してトンネルの発掘を再開し、2つのペリスタイル、モザイク、その他の装飾を含む建物の範囲とその貴重な中身を初めて見いだしました。しかし、資金不足のため、彼も断念せざるを得ませんでした。

 注)ペリスタイル
  ギリシア建築やローマ建築における、柱のあるポーチ、または
  中庭を取り囲むコロネードで中央に庭園などがあるものを指す


オプロンティス(2)へつづく