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富士五湖、自然と文化・歴史短訪

武田信玄3 Wikipedia
Koufu Takeda Jinjya, Yamanashi pref.

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月
 

武田 信玄 / 武田 晴信 Takeda Harunobu.jpg
出典:不明 - The Japanese book "Fūrin Kazan (風林火山:信玄・謙信、そして伝説の軍師)", NHK, 2007, パブリック・ドメイン, リンクによる

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凡例武田 信玄 / 武田 晴信
Takeda Harunobu.jpg

本文

遺言


甲府市岩窪町の武田信玄公墓所(2010年9月撮影)
出典:>投稿者自身による著作物</span>, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


甲州市恵林寺の武田信玄公墓所(2010年11月撮影)
出典:>投稿者自身による著作物</span>, CC 表示-継承 3.0, リンクによる 


 『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎[注釈 20]、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。

 信玄の遺言については、遺骸を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれているが(『甲陽軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという)、三年秘匿や勝頼が嫡男信勝の後見となっている可能性も指摘され、文書上から確認される事跡もある。

 信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて、信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。

死後・法要など

 天正3年(1575年)3月6日、山県昌景が使者となり、高野山成慶院に日牌が建立される(『武田家御日牌帳』)。

 天正3年(1575年)4月12日、『甲陽軍鑑』品51によると、恵林寺において武田勝頼による信玄三周忌の仏事が行われている。この時、恵林寺住職の快川紹喜が大導師を務め、葬儀が行われたという(『天正玄公仏事法語』)。同年5月21日に武田勝頼は長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗した。

 天正4年(1576年)4月16日、勝頼により恵林寺で信玄の葬儀が行われている。

 江戸時代には寛文12年(1672年)に恵林寺において百回忌の法要が行われている。宝永2年(1705年)4月10日には恵林寺において甲府藩主・柳沢吉保による百三十三回忌の法要が行われている。柳沢吉保は将軍・徳川綱吉の側用人で、宝永元年(1704年)に甲府藩主となった。柳沢吉保は信玄を崇拝し、柳沢氏系図において武田氏に連なる一族であることを強調し、百三十三回忌法要では伝信玄佩刀の太刀銘来国長を奉納し、自らが信玄の後継者であることを強調している。

 大正4年(1915年)11月10日、信玄は従三位を贈られる[28]。

 令和3年(2021年)11月3日、甲斐善光寺(甲府市)において「信玄公生誕500年祭大法要」が営まれ、信玄から数えて17代目の当主、武田英信らが参加した[29]。

人物

人物像



『川中島百勇将戦之内』「明将 武田晴信入道信玄」
出典 パブリック・ドメイン, リンクによる


 信玄の発行した文書は、信玄の花押による文書が約600点、印判を使用したものが約750点、写しのため署判不詳が100点、家臣が関与したものが50点の合計約1500点ほどが確認されている[30]。そのうち信玄自筆書状は50点前後確認できるが、20点ほどは神社宛の願文である。私的な文書は皆無で、人物像・教養について伺える資料・研究は少ないものの、昭和初年には渡辺世祐『武田信玄の経綸と修養』 において若干論じられている。

 教養面について、信玄は京から公家を招いて詩歌会・連歌会を行っており、信玄自身も数多くの歌や漢詩を残している。信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』などに収録され、恵林寺住職の快川紹喜や円光院住職の説三恵璨により優れたものとして賞賛されている。また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により「武田信玄詩藁」として編纂している[31]。

 また、信玄は実子義信の廃嫡や婚姻同盟の崩壊による子女の受難などを招いている一方で、娘の安産や病気平癒を祈願した願文を奉納しているなど、親としての一面が垣間見える事実もあることから、国主としての複雑な立場を指摘する意見もある[32]。

 『甲陽軍鑑』において信玄は名君・名将として描かれ、中国三国時代における蜀の諸葛孔明の人物像に仮託されており(品九)、甲陽軍鑑においてはいずれも後代の仮託と考えられているが軍学や人生訓に関する数々の名言が記されている。

逸話


武田大膳大夫晴信入道信玄(月岡芳年画)
出典:月岡芳年 - 芳年武者无類, パブリック・ドメイン, リンクによる


 ある時、駿河の今川義元の正室として嫁いだ姉から大量の貝殻が贈られてきた。山国甲斐で育った信玄はこれを喜び、近習に貝殻の数を調べさせた。貝殻は2畳分あった。そこで家臣らを呼んで「お前たち、この貝殻が何枚あるか当ててみよ」と命じた。ある者は1万5000枚、ある者は2万枚と思い思いに述べた。すると信玄は「皆的違いだ。3700枚ほどだ」と教えた。そして「わしは今まで、合戦には兵力が必要だと思っていた。だが兵力は少なくともよい。必要なのは5000の兵を1万に見せることができるように、兵を思うように動かすことこそ大事である。お前たちもこのことをしかと心得よ」と述べた。それを聞いた家臣らは「末恐ろしい若君よ」と驚嘆した(甲陽軍鑑。品第6)。

 武田軍の強さは、息子の勝頼が長篠の戦いで大敗した後も、信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(『大和国興福寺蓮成院記録』天正十年三月の項)。

 躑躅ヶ崎館に、自分専用の水洗トイレを設置していた。これは躑躅ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みで、信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと伝言ゲームのように配置された数人の家臣に知らされていき、上流の者が水を流す仕組みである。信玄はここを山と言う名称で呼んでいた。家臣が「何故、厠を山と言うのでしょう?」と尋ねた所、信玄は「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と機知に富んだ回答をしている。敵襲に備えた信玄の考えから、トイレの広さは六畳もあり(狭いトイレだと非常時に身動きがとれなくなるため)、室内には机や硯も設置されており、ここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていた。

 『甲陽軍鑑』によると、信長から小袖が贈られた際、梱包に漆箱が使われていた。ふと思い立った信玄が箱を割るなどして調べると、それは漆が何度も重ね塗りされた最高級ともいうべきものであった。信玄は信長の、梱包にすら高価な漆箱を用いるその丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と周囲に語ったという。信長の真意はともかく、細かい所にも気をつける性格だったようである。

 信玄にとって甲斐から京都へ上洛する距離は、当時としてはかなりの遠隔地だった。実際、織田信長の美濃・尾張に較べると甲斐は後進地域であるうえ、山国でもあるために行軍も難しかった。信長が信玄に先んじて上洛した際、当時の俳諧書である『犬筑波集』では、次のような句が記されている。

 「都より甲斐への国へは程遠し。おいそぎあれや日は武田殿」(大意:甲斐は都から遠い。お急ぎせねば日が暮れますぞ。)

 信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったが、これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差による。長尾家が関東管領として上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けたという。

 ルイス・フロイスの『日本史』によれば、武田氏は「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。

 フロイスはその他、書簡(『日本耶蘇会年報』に所収)にいくつか信玄のことについて記している。「戦争においてはユグルタに似たる人」「彼は剃髪して坊主となり、常に坊主の服と数珠を身に付けたり。1日3回偶像を祭り、之が為 戦場に坊主600人を同伴せり。この信心の目的は、隣接諸国を奪うに在り」「彼は武力により畏怖され、部下より大に尊敬を受く。けだし小なる欠点といえども宥(ゆる)すことなく、直ちに之を殺害せしむるを以てなり」

 フロイスの1573年4月20日(元亀4年)付けの同じ書簡には、信玄が西上作戦前に織田信長に一書を送ったとある。そこには「その名を誇示せしめんとの慢心より、その書状の上に次の如く認めたり。テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン」と署名してあり、「信長は之に対してドイロク・テンノマウオ・ノブナガ、と応酬せり」というやりとりがあったという。フロイスはこの署名を「其意は天台宗の教の最高の家および教師信玄といふことなり」と解釈しているが、実際は比叡山焼き討ちにより甲斐国に亡命してきた「天台座主の覚恕法親王の沙門(保護者)武田信玄」であり、信長は「第六天魔王(仏道修行を妨げる魔)信長」と返した様子で、宗教人らしいフロイスの拡大解釈であろう。

政策

合議制と御旗盾無

 信玄の統治初期は中央集権的な制度でなく、合議制であった。このため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せなかった。「御旗盾無御照覧あれ」という言葉は合議制の議長である武田家当主の決定であるという意味に使われることが多い。

 信玄の統治は、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、合議制から中央集権な統治に変遷が見られる。

家臣団と制度


武田二十四将 出典:パブリック・ドメイン, リンク

 武田家臣団を制度的に分類する事は研究者の間でも難しいとされる。武田家が守護から戦国大名になったと言う経緯から、中世的な部分が残る一方、時代に合わせて改変していった制度もあり、部分部分で鎌倉時代~室町時代前期の影響と、室町後期の時代の影響の両方がやや混然と存在しているためである。

 家臣団を大きく分けると以下のように分けられる。

御一門衆

 信玄の兄弟・親族らが中心。「甲州武田法性院信玄公御代惣人数事」『甲陽軍鑑』巻八では十二名を記載している。呼称は「御一門衆」であることが指摘され、『甲斐国志』では「親族衆」とし、「国主の兄弟から出て一家を立てた」者とされる。このため今井家・一条家など、別姓もありえる。また、木曾氏のような婚姻関係の結果親族衆に含まれる場合も含まれる。

譜代家老衆

 基本的には甲斐一国当時から武田家に仕えていた家を中心とした家臣団。合議の場に列する資格を意味する家格であったと考えられており[33]、軍事面・領国支配において重視された[34]。文書においては「家老」「宿老」の用語が見られるが、多くは用いられていない[33]。

 「惣人数」には親族衆の次に配置され、馬場信春、内藤昌秀、山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)、小山田信茂(郡内小山田)、甘利信忠、栗原詮冬、今福友清、土屋昌続、秋山虎繁、原昌胤(加賀守・隼人祐系)、小山田虎満(石田小山田)、跡部勝資(大炊助系)、浅利信種、駒井昌直、小宮山昌友、跡部勝忠(美作守系)の17名を挙げている[34]。ただしこれらの譜代家老は同時に存在したわけではなかったと見られている[35]。

 特徴として、まず一族普代の氏族と一族普代でない氏族に区分される[33]。一族普代では馬場、内藤、山県、甘利、栗原、今福、土屋、秋山、浅利、駒井、一族譜代でない氏族は郡内小山田、石田小山田、跡部(大炊助・美作守系)、春日、原、小宮山がいる[33]。また、多くは譜代家老の出自であるが、嫡男ではなく次男以下の出自を持つ点も特徴とされる[34]。ただし、今福浄閑斎、三枝昌貞、小山田信茂など一部の例外は見られる[34]。

 武田家の譜代家老衆は時代によって謀反や粛清、戦死などにより入れ替わりが存在し[36]、御一門衆と同様に信虎までに登用されたグループと、信玄が新たに登用したグループに区分される[37]。信昌から信縄・信虎の時代に側近・奉行として当主を支えた楠浦、河村、工藤、秋山、小田切、曽根、駒井、板垣などの氏族がいるが、帆、河村、工藤、秋山の四氏は当主の取次を務めていた[38]。信玄の代になるとまず楠浦、河村が消え、続いて工藤、秋山、小田切も姿を消し、後に譜代家老の地位を離れて奉行衆として登場する[38]。対して曽根、板垣、駒井は信虎から信玄初期にかけて重用されている[38]。

 信玄は信虎の代の譜代家老のうち甘利、郡内小山田、栗原、駒井、原(加賀守・隼人祐系)、小宮山氏を重用しているが、信玄の代には数次にわたる譜代家老の粛清も行われている[36]。信玄は新たに山田、内藤、春日、馬場、土屋、石田小山田、跡部(大炊助・美作守系)、秋山、今福などを登用し、山県昌景・内藤昌秀らが活動をはじめる弘治・永禄年間には「惣人代」に記載される人名に至る[37]。信玄が登用した譜代家老の多くは甲斐衆で身分が低く、百姓出身の春日虎綱(高坂昌信)など、多様な出自の人物を含む[37]。跡部氏は信濃に出自を持つ氏族であるが甲斐衆として扱われていたと考えられており、他国から来た家臣は譜代家老から排斥されていた[37]。逆に甲州に領地を持っていながら譜代と扱われていない例もある。4. その他の項を参照。

 『甲陽軍鑑』に拠れば、武田家の譜代家老は小姓・奥近習から御使番を経て侍大将・城代となり、最終的に譜代家老に取り立てられたという[37]。武田氏が信玄の代に領国を拡大すると、譜代家老は各地の拠点城郭に配置され、城代(武田氏では「郡司」と呼称される)として領域支配を担った[37]。武田家の城代としては信濃国海津城の春日虎綱、信濃国牧之島城の馬場信春、信濃国内山城の小山田虎満、上野国箕輪城の内藤昌秀、上野国松井田城の小宮山虎高、美濃国岩村城の秋山虎繁、駿河国江尻城の山県昌景、駿河国深沢城の駒井昌直、駿河国久能城の今福浄閑斎、らがいる[39]。武田家の城代は御一門衆と異なり領域支配を担っていた点が特徴であると指摘される[39]。城代は寄親・寄子制により他国衆を相備衆として編成した[40]。

 譜代家老衆の中で小山田信茂は郡内領を有する国衆であり、特異な立場にいたことが指摘される[33]。

 後代に称された武田二十四将には譜代家老の家臣が多く含まれる[41]。

外様家臣団

 同時代には外様と言う表現は使われていないが、現代では便宜的にこのように言われる。1及び2に含まれない家臣団。当時は諏訪衆・上野衆と言った地域名、あるいは真田衆と言った領主名で呼ばれていた。武田の水軍(武田水軍)である海賊衆もここに含まれる。

その他の域武士団

 武川衆のように甲斐国内に存在した集団でありながら、親族とも譜代とも判別し難いのみならず、武田氏に服属していたのか同盟関係に近かったのかの判断が困難なグループがある(小山田氏等)。多くは中世の本家分家的な関係を基礎としており、一定地域での独自色の強い集団であった。これらの集団と武田氏との関係の研究は現在も続けられている(武川衆、津金衆、栗原衆、九一色衆、伊那衆など)。

武田水軍

永禄11年(1568年)に間宮武兵衛(船10艘)、間宮信高(船5艘)、小浜景隆(安宅船1艘、小舟15艘)、向井正綱(船5艘)、伊丹康直(船5艘)、土屋貞綱(船12艘、同心50騎)などを登用して、武田水軍を創設している。

軍陣医

 信玄は軍陣医をともなっていたことが武田信玄陣立図から確認され、信玄の本陣の前に御伽衆の小笠原慶庵と長坂釣閑斎とともに甫庵(寺島甫庵か)の薬師本道と大輪(山本大林か)の薬師外科の医師団部隊が有事に備えて存在していた。このような部隊は珍しく、他には毛利元就が挙げられる[42]。

武田二十四将

 江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して武田二十四将(武田二十四神将)と言われるようになった。他に武田四天王も有名である。

家臣団の制度

 職制は行政面と軍政面で分けられる。行政面では「職」と呼ばれる役職を頂点にした機関が存在した。ただし、武田氏は中央集権的な制度ではなかったため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せるわけではなかった。特に穴山・小山田両氏の領地は国人領主と言えるほどの独自性を維持している。信玄の初期は国人による集団指導体制の議長的な役割が強く、知行制による家臣団が確立されるのは治世も後半の事である。

 構造的には原則として以下のようになっていたとされる。ただし、任命されていた人物の名が記されていない場合もあり、完全なシステムとしてこのように運営されていたわけではないようである。また、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、これらの制度も変遷を行った様子が伺える。

行政

職。

・公事奉行…公事と訴訟を担当する。ただし、この公事奉行が全ての裁判を審議したわけではなく、下部で収まらなかった訴訟を審議した。後述。

・勘定奉行…財政担当官。

・蔵前衆…地方代官。同時に御料所と呼ばれる武田氏直轄地の管理を行った。

・侍隊将…出陣・警護の任務に当たる。

・足軽隊将…検使として侍隊将の補佐を勤める旗本隊将と、領地境界の番手警備を行う加勢隊将に別れる。

・浪人頭…諸国からの浪人を統率する。