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富士五湖、自然と文化・歴史短訪

精進湖2
Shojiko, Yamanashi pref.

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月
 

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2022-9

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精進湖1  精進湖2

 上と下は富士五湖の精進湖のほぼ同じ場所で撮影されものです。 一枚目の写真(今回)は雲があり、残念ながら富士山が雲に隠れていました。


精進湖から見た富士山  出典:グーグルストリートビュー


精進湖から見た富士山  出典:山梨県


精進湖から見た富士山 出典:山梨県



精進湖  
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2022-9

他手合浜


精進湖の他手合浜
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2022-9v

 精進湖他手合浜(たてごうはま)から見える富士山は、大きな富士山の手前に小さな大室山が重なって見えることから「子抱き富士」と呼ばれている。残念ながら今回他手合浜からは雲があり、富士山は全く見えなかった。




精進湖 Lake Shoji   文章の出典は原則 Wikipedia


富士山と本栖湖の位置関係
Source:Wikimedia Commons


定期航空機より撮影した精進湖(2006年11月13日)

◆精進湖の概要

 所在地 山梨県南都留郡富士河口湖町精進
 精進湖の位置(日本内)精進湖
 面積 0.5 km2
 周囲長 6.8 km
 最大水深 15.2 m
 平均水深 - m
 貯水量 0.0035km3
 水面の標高 900 m
 成因 堰止湖
 淡水・汽水 淡水
 湖沼型 -
 透明度 - m

 精進湖(しょうじこ)は、山梨県南都留郡富士河口湖町にある湖。富士五湖のひとつで、西から2番目、東から4番目にあたる。富士箱根伊豆国立公園の特別地域内にある。

 「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の「富士山域」の一部として世界文化遺産の構成要素に含まれている。

概説

 同じ富士五湖の西湖、本栖湖と同一の水脈を有しているので水面標高も同じく約900メートルで、湖水の水位が連動する傾向がある。最大水深は15.2メートルで河口湖と並び3番目の深さ。0.5平方キロメートルと五湖中でもっとも湖水面積が狭く、流入河川および流出河川はない。

 2013年(平成25年)6月22日、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産(富士山域)の一つとして、世界文化遺産(日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された。

成因

 富士山の火山活動によって形成された堰止湖で、本栖湖・西湖と同じ水位である。かつては単一の大きな湖(剗の海;せのうみ、「背の海」の意か)であったと考えられているが、富士山の溶岩流でまず南西の本栖湖と分断され、『日本三代実録』に拠る864年(貞観6年)の貞観大噴火の溶岩流によって西湖と分断された。

 この際には、溶岩流が湖水と接触したことによって水蒸気爆発が起こり、半円形のクレーターが形成されている(北緯35度29分18.5秒 東経138度36分35.6秒)[5]。

名前の由来

 精進湖という湖名は、富士参詣者が湖で沐浴して精進潔斎したことに由来する説や、(かつての単一湖「剗の海」という名称も関連し)富士の背にあたることから「背地」(せのち)と呼ばれたとする説[注 1]がある(『甲斐国志』による)。

水質と生物相

 栄養湖でプランクトンが多く、湖色も緑色。1930年代の調査でも富栄養化していた[6]がそれ以降も富栄養化は進行している[7]ため、透明度は3メートル程度である。赤潮が発生することもある[8]。ヘラブナやワカサギ、ブラックバス[9]、タニシなどが生息している。

周辺

 湖岸には、甲府から右左口宿を経て駿河国へ至る軍用道路である中道往還(現国道139号、)が通る。精進湖北側から見る富士山は手前に大室山を配しているため、「子抱き富士」とも呼ばれる。前景は青木ヶ原樹海であり、樹海の中に中道往還(国道139号)が走っているため、精進湖北側から望む富士山は手前に建造物がなく樹海の緑に覆われ、絶景である。

 かつては湖北部に集落があったが、西湖で増水による被害が発生したのを受け、似たような地形にあった集落は、1972年頃に湖南部の中道往還(国道139号)沿いの青木ヶ原樹海内に移住し、新居住地は移住地と呼ばれている。移住地には民宿が点在している。

中世の精進湖

 中世には甲斐・駿河間の主要街道のひとつとして中道往還(国道358・139号)が利用された。中道往還は甲府盆地南部の右左口宿から右左口峠を越えて富士北麓に至り、精進湖・本栖湖を経て現在の静岡県富士宮市へ向かう。中世・近世には海産物の利用にも用いられ、女坂峠(阿難坂・精進峠)を抜けて甲府方面へ抜ける山道は「魚道」と呼ばれた。


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