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富士五湖、自然と文化・歴史短訪

富士山の噴火史

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月、 2022年12月23日
 

富士火山による火山弾(浅間大社)
出典:Ennui - 投稿者による撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる


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略年表

約3000年前

 縄文時代後期に4回の爆発的噴火を起こした。これらは仙石スコリア(Sg)、大沢スコリア(Os)、大室スコリア(Om)、砂沢スコリア(Zn)として知られている。富士山周辺は通常西風が吹いており噴出物は東側に多く積もるが、大沢スコリアのみ東風に乗って浜松付近まで飛んでいる。

約2900年前

 富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生し、岩屑なだれ、および泥流が発生した。この時崩壊した山体の体積は1.76 km3と推定されている[12][13]。泥流は御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下した。これは御殿場泥流と呼ばれており、この泥流が堆積した範囲は現在の三島市の広い地域に相当する。山体崩壊が発生した原因は現在の所特定されていないが、崩壊当時顕著な噴火活動がないこともあって、富士川河口断層帯ないし神縄・国府津-松田断層帯を震源とする大規模な地震によるのではないかという説がある。

482年頃(清寧天皇三年)

(旧暦)3月から4月にかけて噴火か[10]。

 「走湯山縁起」の記述では、
清寧天皇三年壬戌三・四月、富士浅間山焼崩、黒煙聳天、熱灰頻降、三農営絶、五穀不熟、依之帝臣驚騒、人民愁歎

781年 (天応元年)

噴火
800年〜802年(延暦19年)
(旧暦)3月14日から4月18日にかけて噴火。延暦大噴火
「日本紀略」(厳密には、紀略が引用した「日本後紀」逸文)の記述では、
自去三月十四日迄四月十八日、富士山巓自焼、昼則烟気暗瞑、夜則火花照天、其声若雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也

802年(延暦21年)

1月8日 この噴火により相模国足柄路が一時閉鎖され、5月19日から翌年の5月8日までの1年間は、筥荷(箱根)路が迂回路として利用された。火山爆発指数:VEI3
駿河国富士山、昼夜恒燎、砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘災殃
五月、甲戌、廃相模国足柄路開筥荷途、以富士焼砕石塞道也

864年(貞観6年)
詳細は「貞観大噴火」を参照

 貞観大噴火 864年6月 - 866年初頭にかけて活動青木ヶ原溶岩を形成した噴火で、山頂から北西斜面約10Kmの(現在の長尾山)から大量の溶岩流出とスコリア噴火とを起こす。

『日本三代実録』の記述では、5月25日付の報告として
富士郡正三位浅間大神大山火、其勢甚熾、焼山方一二許里。

光炎高二十許丈、大有声如雷、地震三度。歴十余日、火猶不滅。焦岩崩嶺、沙石如雨、煙雲鬱蒸、人不得近。大山西北、有本栖水海(みずうみ)、所焼岩石、流埋海中、遠三十許里、広三四許里、高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺。

(ここでいう1里は6町=約650m。「〜許里」は「〜里ばかり」の意。)
7月17日分の報告として

駿河国富士大山、忽有暴火、焼砕崗巒、草木焦殺。土鑠石流、埋八代郡本栖并剗両水海。水熱如湯、魚鼈皆死。百姓居宅、与海共埋、或有宅無人、其数難記。両海以東、亦有水海、名曰河口海;火焔赴向河口海、本栖、剗等海。未焼埋之前、地大震動、雷電暴雨、雲霧晦冥、山野難弁、然後有此災異焉。
とある。

 「剗の海(せのうみ)」は富士北麓にあった広大な湖の名だが、この時の溶岩流により埋め立てられ、水面の大半を失った。埋め立てを免れた西端部、東端部はのちに精進湖、西湖として知られた。流れ出た溶岩は一帯を広く覆い、「青木ヶ原溶岩」を形成した、その後この溶岩の上には新たに森林が形成され、現在では「青木ヶ原樹海」の通り名で知られている。この貞観大噴火は、貞観地震の5年前に起きた。

937年(承平7年)

噴火。

 現在の河口湖と富士吉田市の間にあった「御舟湖」を埋め、剣丸尾第1溶岩を噴出させた噴火とされる。

「日本紀略」の記述では承平7年旧暦11月某日の条に、
甲斐国言、駿河国富士山神火埋水海

999年 (長保元年)
噴火

1015年頃
北麓(剣丸尾第1溶岩)と南麓(不動沢溶岩)で同時噴火か。山梨県富士山科学研究所の磁鉄鉱分析による推定[14]。

1033年初頭 (長元5年末)
噴火

1083年 (永保3年)
噴火
1435年または1436年初頭 (永享7年)

噴火
1511年 (永正8年)

噴火
1704年 (元禄16年末〜17年初頭)
鳴動

宝永火口と宝永山

1707年
詳細は「宝永大噴火」を参照
12月16日(宝永4年)旧暦11月23日 宝永大噴火。火山爆発指数:VEI5
大量のスコリアと火山灰を噴出。この噴火は日本最大級の地震である宝永地震の49日後に始まり、江戸市中まで大量の火山灰を降下させる等特徴的な噴火であった。

1708年 (宝永5年)
鳴動

1854年 (嘉永7年・安政元年)
安政東海地震発生。直後、富士の山頂に異様な黒雲がかかり、8合目付近に多数の火が上がる様が眺められたという[15]。

1923年 (大正12年)
あらたな噴気

1987年 (昭和62年)
山頂のみで有感地震

2012年 (平成24年)
2月10日 富士山3合目(山頂の北西約6km)の山腹で僅かな噴気を確認したが、4月と5月の現地調査では湯気、温度の異常、硫黄臭は認められず[16]。

宝永大噴火以降の活動

 宝永大噴火後、富士山では大規模な火山活動はなかったが、江戸時代晩期から、昭和中期にかけて、山頂火口南東縁の荒巻と呼ばれる場所を中心に噴気活動があった。この活動は1854年の安政東海地震をきっかけに始まったと言われており、明治、大正、昭和中期に掛けての期間、荒巻を中心とした一帯で明白な噴気活動があったことが、測候所の記録や登山客の証言として残されている。

この噴気活動は明治中期から大正にかけて、荒巻を中心に場所を変えつつ活発に活動していたとされる。活動は昭和に入って低下し始めたが、1957年の気象庁の調査においても50℃の温度を記録していた。その後1960年代には活動は終息し、現在山頂付近には噴気活動は認められていない。

しかしながら、噴気活動終了後も山頂火口や宝永火口付近で地熱が観測されたと記録されている。以上のように、富士山がつい近年まで噴気という火山活動の諸形態の一つを続けていたという事実は、富士山が現在も息づいている活火山である証拠である。

地震との関係

 宝永大噴火は宝永地震の49日後に発生している。そのほかに南海トラフや相模トラフを震源とする地震や近隣地域地震の前後25年以内に、富士山に何らかの活動が発生している事例が多く、地震と富士山活動とは関連性があるとされる[17]。

 また、噴火活動ではないが、1331年の元弘地震(M7)や1792年、1891年濃尾地震(M8.0)では地震の震動で山体崩壊や大規模な斜面の崩落が発生したと記録されている。


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