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江戸の桜名所探訪

明治の鉄道と御殿山

青山貞一

掲載日:2015年4月4日
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
◆名所探訪・目黒川両岸の秀逸なサクラ
@目黒川に桜見物船  A目黒川沿いに五反田へ  B目黒川沿いに大崎へ  C目黒川沿いの大崎新副都心
D目黒川沿いの東海寺周辺
江戸の桜名所探訪・城南5山 御殿山
@城南5山、御殿山  A御殿山 北品川4  B御殿山庭園  C御殿山と権現山
D明治の鉄道と御殿山  E東海道線沿いに権現山へ  F権現山公園
◆江戸の城南5山探訪 八ッ山・島津山・池田山
@八ッ山、開東閣、ソニー村  A島津山、ソニー資料館  B島津山、清泉女子大  C池田山、旧正田邸跡

 この後、大学から一旦環境総合研究所に戻り、その後、東急大井町線で大井町に行き、大井町から徒歩で東海道線にそって北上し、品川駅の南にあります権現山公園に行くことになります。


◆明治初期の日本の鉄道
 
 ここでは、日本の鉄道の歴史について東海道線を例にお話ししてみたいと思います。

 下の錦絵は、明治初期、鉄道開業のころの八ツ山橋(左)や御殿山(奥)、高輪界隈(右)など、現在の品川駅近辺を走る陸蒸気を描いたものです。まさに本論考シリーズが扱っている御殿山のサクラの対象地域そのものです。

◆明治初期、鉄道開業のころの八ツ山橋(左)や御殿山(奥)、高輪界隈(右)


「東京高輪鉄道蒸気車走行之全図」一曜斎国輝 (明治鉄道錦絵より)

 この錦絵は明治初期、鉄道開業のころの八ツ山橋(左)や御殿山(奥)、高輪界隈(右)など、現在の品川駅近辺を走る陸蒸気を描いたもの。馬・籠の時代から新しい時代に向かう文明開化の先駆けのころだ。やたらカラフルなこの列車には仰天するが、 舶来の、超先端ハイテクインフラの導入に、民衆の驚きや期待感が如実に描き出されている一幅だ。

出典:http://homepage1.nifty.com/tukahara/okajoki/Dubs-Kikansha.htm

 下は品川区大井から品川辺りの錦絵です。 

◆「東京高輪鉄道蒸気車走行之全図」  歌川広重〈3代〉

 下も「東京高輪鉄道蒸気車走行之全図」からです。

 品川では鉄道は埋め立て地の上を走っていることが分かります。


「東京高輪鉄道蒸気車走行之全図」  歌川広重〈3代〉

 品川宿周辺における鉄道建設への動きは、明治3年(1870)3月19日に品川県から東海道筋の宿村役人に対して出された御雇い外国人らにより測量を実施する旨の廻状から始まりました。

 明治3年4月13日には同県より、外国人技師(この外国人がモレルであったかどうかは判明していませんが)1人・測量手伝い人15人・ほか日本の役人8人、合計24名による測量班の通知と、測量人の休息や宿泊には便宜を図るようにとの御触が出されています。

 4月19日には、測量見分のとき邪魔になる木や竹の枝葉伐採を通告、5月に実施された高輪から八ッ山にかけての品川海岸の測量では、作業が夜間に及ぶこともあり、測量が急ピッチで進められていたことがわかります。.....


 このように、京浜間の東海道の宿村では、鉄道建設への期待だけでなく不安も高まっていったのです。特に鉄道用地取得にあたっては、民部省から品川県などの地方官庁を通じて、土地を政府に差し出すよう地権者に命じるなど、強制的な形がとられました。

 鉄道用地取得にあたっての買い上げ代金も御下げ金と呼び、一方的な査定で行われたのです。地権者にとっては、祖先伝来の土地を納得できない対価で手放さねばならないわけで、当然のことながら用地買収へのプロセスは決して容易なものではなかったようです。

 品川区域全体での鉄道用地取得経費は、明らかになってはいないのですが、当時の記録によれば、北品川宿では明治3年6月9日に八ッ山付近の23人の土地家屋代金として総額1,992両余を受領、南品川宿では、明治4年(1871)11月に、9反余(約2万7千坪)分の田畑地などの代金として527両余を受領したとあります。

 大井村については記録がまだ見つかっていません。

 このほか、北品川から一部南品川にかけて広大な面積を有していた東海寺領内の鉄道用地では、門の建て替え、墓地の改葬費用として160両余が払われたのですが、2,108坪に及ぶ鉄道用地は除地 (じょち)(免税地)であったことから無償で提供され、その後、境内の砂利や松・杉が鉄道敷設用に供出されています。

出典:明治維新後の品川 第13回 品川区

 ところで、下の地図は、鷹取敦さんが国土地理院の「明治時代の低湿地」地図を使って品川駅周辺を表示したものです。ご覧になれば分かるように海を埋め立てたところに鉄道が走っているのがわかります。また海上の盛土上を走っている蒸気機関車は御殿山近くに来ると陸上に入ることも分かります。

 「東京高輪鉄道蒸気車走行之全図」の絵の内容が事実であることを裏付ける地図です。この地図は、鷹取さんが国土地理院の「明治時代の低湿地」地図を使い独自に製作したものです。 


「明治時代の低湿地」地図を使って品川駅周辺を表示した地図

凡例


 なお、さらに調査を進めると、以下がありました。

◆鹿島の軌跡 第10回 明治期の鉄道工事

 政府は明治2年11月10日(*1)、東京−京都(中山道経由)、東京−横浜、京都−神戸、琵琶湖−敦賀の4路線の鉄道敷設を決定する。

 明治3年3月、エドモンド・モレル(*2)が鉄道技師長としてイギリスから招かれ、測量が開始された。役人は大小の刀を差し、陣笠に羽織袴姿で外国人の測量を手伝ったものの、刀は機器を狂わせ、羽織袴は動作が不便であったため、軽服着用となった。

 東京−横浜間は約18哩(マイル)(29km)。外国人技師の指導監督のもと直営(一部請負)で施工した。もともと鉄道より軍備という考えの兵部省は、高輪の土地を「軍事上必要であるから手放せない」と 測量すらさせない。

 大隈重信は「軍の土地などいらぬ、陸蒸気(おかじょうき)を海に通せ」と、田町−品川間2.7kmの海上に幅6.4mの堤防を築き、その上に線路を通した。当時の品川の海は遠浅で、測量は干潮時に泥にまみれながら行ったという。

 この付近の線路撒布用砂利1,000立坪(約6,000m3)を、明治3年10月、鹿島が納入している。高島嘉右衛門(*3)の勧誘があったためと伝えられる。これが日本初の鉄道と鹿島との最初のかかわりであった。



出典:鹿島の軌跡 第10回 明治期の鉄道工事

 以下の本文はWikipediaを参照しています。

 明治維新の翌年、政府は官営による鉄道建設を決定し、新橋 - 横浜間の鉄道建設が始まります。

 1870年(明治3年)、鉄道敷設のための測量が開始され、同年中には着工されました。当初は枕木に関し、鉄製のものを輸入しようと考えていましたが、お雇い外国人であるエドモンド・モレルの発案により、予算の問題や今後の鉄道敷設のことを考えると、加工しやすい国産の木材を用いたほうがよいということになり、変更されました。

 また難所となった多摩川(六郷川)の六郷川橋梁は、当初は英国から鉄と石材を輸入して架けることにしていたが、予算削減のため木橋に変更されています。しかし、1877年に老朽化が早いことを理由に、鉄橋に交換されます。

 なお線路を敷設するのには、鉄道が当時の日本人にとっては未知のものであったことから、反対運動が多くありました。結局、薩摩藩邸などがあった芝 - 品川付近などでは、築堤を海上に築き、その上に線路を敷くことにしました。全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmがこの海上線路になったそうです。

 何はともあれ、外国人技師の指導を受けた線路工事が終わり、伊藤などを乗せて試運転も実施、停車場などの整備も順次進められ、明治5年5月7日(1872年6月12日となる)に品川駅 - 横浜駅(現在の桜木町駅)間で、仮開業という形で2往復の列車が運行され、翌8日には6往復になりました。

 正式開業時の列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8km/hでした。

 このように、日本の鉄道は明治5年(1872年)9月12日に、新橋駅 - 横浜駅間で正式開業しました。ただし、実際にはその数か月前から品川駅 - 横浜駅間で仮営業が行われていました。鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上しましたが、運賃収入の大半は旅客収入であったそうです。

◆新橋横浜間鉄道之図


新橋横浜間鉄道之図  出典:国立公文書館

 明治5(1872)年5月の品川横浜間仮開業にはじまり、鉄道網は、産業の発展と深くかかわりながら、整備されていきます。

 明治5年の我が国最初の鉄道開設に際して作成されたと推定されている新橋横浜間の鉄道路線図です。明治5年5月7日、品川・横浜(現在の桜木町)間に我が国はじめての鉄道が仮開業され、次いで工事が遅れていた新橋・品川間も同年7月25日に路線敷設が完了し、9月12日に新橋・横浜間の鉄道が本開業されました。

 同駅間は当時29キロメートル、所要時間は、ノンストップで53分でした。この図面は新橋、横浜間の鉄道路線図です。作成した機関、年月日は不明ですが、恐らく鉄道を所管した工部省が仮開業前後に作成し、太政官に提出したものと思われます。 本図の含まれる「公文附属の図」は、平成10年「公文録」とともに、国の重要文化財に指定されました。 原図サイズ:東西193.2×南北38.6cm。

出典:国立公文書館

 なお、実際の鉄道建設に際しては、御殿山の掘割、切土などの大土木工事は、築城経験のある日本の技術が存分に生かされましたが、現在の多摩川にかかる六郷川橋梁だけは英国人の指導の下に木造で架橋されたそうです(なお、これは明治10年に鉄橋に交換)。

 築城技術が生かされたのは良いのですが、江戸からつづくサクラの名所、御殿山が壊されたのは非常に残念なことです。

 車両も英国からら輸入された。蒸気機関車10両はすべて軸配置1Bのタンク機関車で5社の製品を混合使用していました。その中で4両あったシャープ・スチュアート社製の機関車が最も使いやすかったといわれています。


開業時に輸入されたバルカン社製1号機関車(のちの国鉄150形)
  出典:Wikipedia

 客車はすべて2軸で上等車(定員18人)10両、中等車(定員26人)40両、緩急車8両が輸入されましたが、開業前に中等車26両は定員52人の下等車に改造されました。当時の客車は台車や台枠は鉄製ですが壁や屋根を含む本体は木造であり、この改造は練達の日本人大工の手によって実施されています。


明治初期の列車   出典:Wikipedia

 機関車を運転する機関士は外国人でした。また運行ダイヤ作成も英国人のW・F・ページに一任されていました。これらの外国人技術者は「お雇い外国人」と呼ばれ高給を取っていたそうです。


◆明治のころの新橋、品川駅

 その後、当初品川−横浜の間だった鉄道は、「汽笛一声新橋を」と新橋まで延伸されます。下は開業当時の新橋駅です。


開業当時の新橋駅   出典:Wikipedia

 下は開業当時の品川駅です。開業初期の品川駅。跨線橋は木製で屋根がありません。すぐ近くに東京湾があることが分かります。母(現在100歳)から良く聞きましたが、品川駅沖でアサリがよくとれたそうですが、この写真を見ると確かにアサリやノリがとれそうです。


開業初期の品川駅。跨線橋は木製で屋根がありません。  出典:Wikipedia

 下は浮世絵に描かれた開業当初の鉄道です。この浮世絵は上野と横浜を描いていますが、ここでもサクラが描かれています。上野は高台となっているので、間違いなく上野公園のサクラです。


1885年(明治18年)の上野駅  上野公園のサクラが描かれています
出典:Wikipedia

 下は御殿山の隣にある八ツ山橋から見る品川駅と海です。1889年(明治22年)頃の写真です。まだ架線がないので蒸気機関車が走っていたころのもののはずです。

 上側に見える跨線橋は1882年(明治15年)設置の物のはずです。なお、鉄道のすぐ近くに東京湾があることが分かります。


1889年(明治22年)頃、八ツ山橋から見る品川駅と海。跨線橋は1882年(明治15年)設置の物?
  出典:Wikipedia

 下は明治30年頃の品川駅です。右側に海が見えます。何とものどかな風景だったのです。


1897年(明治30年)頃の品川駅。構内が大きく変わっている。
  出典:Wikipedia


浮世絵に描かれた開業当初の鉄道(横浜)  出典:Wikipedia

 以下は横浜港と鉄道が描かれています。


浮世絵に描かれた横浜の鉄道と船    出典:Wikipedia

 下も横浜駅近くの錦絵です。客車は7両あります。


横浜鉄道館蒸気車往返之図 三代広重画 明治6年(1873)
出典:【所蔵】横浜開港資料館蔵

 なお、東海道線は、国防上の理由から、当初、東京と関西を結ぶ路線は中山道経由とされていました。

 これは東海道筋は海運が盛んで、運賃の高い鉄道は余り使用されないであろうとする見方、それに東海道筋は海に近く、外国の攻撃を受けやすいという陸軍の強い反対があったためとされています。

 明治16年(1883年)に「中山道鉄道公債証書条例」が交付され、高崎駅 - 大垣駅間の建設が始まりましたが、山岳地帯を通るために難所が多く工事は難航しました。

 そこで明治19年(1886年)、鉄道局長の井上は陸軍の山縣有朋を説得の上、総理大臣の伊藤博文、(3人とも長州藩出身)へ相談しほぼ今の東海道へルートを変更することが決定されました。これを受けて東海道線の建設が急ピッチで進み1889年7月1日に全線が開通しています。

 下は電化された後の超特急のつばめの写真です。


超特急のつばめの写真    出典:Wikipedia

 なお、今年2月、東マレーシアに行きましたが、東マレーシアの北ボルネオ鉄道がまさに、明治時代の列車に近いものと思えます。


北ボルネオ鉄道のアイコン   出典:北ボルネオ鉄道 オフィシャルサイト


御殿山陸橋から見る現在の鉄道

 そして現在、品川区の御殿山周辺の鉄道は、下の写真のように、JR山手線、JR京浜東北線、湘南新宿ライン、東海道線、東海道新幹線、横須新線、りんかい線、京浜急行本線など、おそらく日本一鉄道軌道が集中する地域になっています。

 下は2015年4月2日、現地で撮影した写真です。左上に写っているビルは御殿山トラストタワー、右奥は品川駅前の超高層ビル群です。

 下の写真は、左からJR京浜東北線、湘南新宿ライン、そして右端に東海道新幹線が走っています。この端から見ていると、まったく電車、列車が走っていないのはほんのわずかな時間しかありません。御殿山は鉄道王国、ニッポンをいつも見つめているのです!


現在の御殿山周辺の鉄道、JR山手線、JR京浜東北線、湘南新宿ライン、
東海道線、東海道新幹線など、日本一、鉄道が集中しています。
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-2


つづく