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富士五湖、自然と文化・歴史短訪

放光寺2 詳細
Houkouji, Yamanashi pref.

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月
 

放光寺山門 (甲州市)  出典:投稿者自身による著作物</span>, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

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歴史・由来  出典:放光寺

 放光寺(ほうこうじ)は元暦元年(1184)源平合戦で功績をたてた安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創立している。義定は平家追討の功によって遠江国守に任命されて、のちに遠江国守護、禁裏守護など勤め鎌倉幕府創業に貢献しているが建久5年(1194)8月19日梶原氏らの謀反の嫌疑を受け当山において自刃したと伝えている。

 義定は京都や奥州平泉の平安文化を甲斐に招来することをひそかにおもい、八尺の阿弥陀三尊をはじめ大日如来、愛染明王、不動明王など多くの平安時代の仏像を勧請した。源頼朝が奈良の南京佛師成朝を鎌倉に招いて勝長寿院鎌倉の仏像を造顕しているが、義定もまた成朝を甲州に招いて甲州仏師原(現武士原)に一大工房をもって放光寺金剛力士像、毘沙門天像をはじめ甲州の仏像を造られたことが、最近になって専門家の調査で分かってきた。

 また当山の天弓愛染明王を今年6月、奈良国立博物館の特別展「明王」に出展したが、天弓愛染明王として日本最古の仏像ではないかと、研究者からご指摘をいただいた。これも義定の仏教文化への感心の深さを知る一面だと思う。当山にはそのほか義定が建久2年に奉納した梵鐘(貞治5年改鋳)がある。

 安田氏の時代は、山岳佛教が競って盛んになった時代である。放光寺もその一つで塩山の北方大菩薩の山麓、高橋荘(現在の一ノ瀬高橋)にあった法光山高橋寺を安田氏の館(山梨市小原)に近い牧荘(塩山市藤木)に移し、高橋山多聞院法光寺と改め天台宗寺院として大規模に伽藍を建立し安田一門の菩提寺とした。

 南北朝期になって真言宗に改宗された。のちに真言宗七談林にも加えられ真言宗の教えを広める根本道場になった。

 また、武田信玄の時代には、武田家の祈願所となっている。元亀三年三方原の戦いのおり、武田氏は遠州鎌田山医王寺に伝わった大般若経六百巻(南北朝時代の写経)を甲州に移し、当山に奉納している。天正10年、


鎌倉幕府の創建と安田義定
  出典:放光寺 (清雲俊元)



 『源平の戦い』、なかでも平氏が完敗したーノ谷の戦いで平氏の大将、平経正・帥盛・教経等を討ち取ったのが甲斐源氏安田遠江守義定の軍であったことは 吾妻鏡等で知られている。

 この安田義定は当山の開基で、新羅三郎義光の孫にあたり、義清の四男(尊卑分脈、諸系図では清光の四男というが吾妻鏡には安田冠者義清四男とある)である。

 長承三年(1134)三月十日北巨摩郡若神子に生まれ、旧豪族であった在庁官人の三枝一族を押さえて峡東地方に入り、山梨市の小原に館をかまえ、この一帯を八幡荘安田郷といい、窪八幡神社を氏神とし、保元3年(1158)には下井尻に雲光寺を開基している。また笛吹川の両岸を牧庄と呼び峡東一帯を統治、牧丘町の小田野に要害の城をもった。治承四年四月以仁王の令旨に従って平家追討に挙兵した。

 この時代は平清盛の全盛時代であって、甲斐国にあっても、加賀美遠光、武田有義、秋山光朝、小笠原長清等のように平氏に仕えていたもの、武田信義、一条忠頼のように木曽義仲と通じているものもあったが、最後に武田信義、安田義定の意見によって一族が富士川に集結した。この戦いは一般に物語では頼朝の総指揮のもとに行われたように伝えられているが、実際に頼朝は四月に石橋山の戦いで完敗し、北条時政が頼朝の使節として甲斐に入り応援をもとめていることからしても甲斐源氏は頼朝、時政より優位にあり、現在歴史家の間では、この富士川の戦いの主導権は甲州の人達にあったとみるべきではないかとしている。

 水禽の羽音に驚騒したこの戦い、先鋒は安田義定であった。それを裏付けられるのは、合戦の翌日義定は遠江守護に、武田信義を駿河守護に各々任じられていることでもうなずける。彼は寿永二年(1183)七月平家追討使として東海道より上京し八月には遠江守に任ぜられ従五位下に叙ぜられた。このとき義仲は北陸道から追討使として上京しているが、一方の頼朝はこの時点では「朝敵」といって伊豆に配流されたままで源氏の御曹子とはいっても全国の源氏を統率することはできなかった。

 従ってこれまでの戦いは源氏の連合軍にすぎず、義定もその中の大将の一人であった。ところがこの十月に頼朝の立場は一変した。というのは木曽義仲の都での狼籍に対して朝廷が頼朝の上洛をうながした。それに対して頼朝は「十月宣旨」を条件に引き受けた。この寿永二年の十月宣旨というのは、東海、東山両道の国衙領、庄園の年貢の調達権を与えよというもので、この頼朝の外交政策が功をそうし伊豆配流いらいの勅勘が解除され、従五位下に復帰し、義仲、行家、そして義定を押えて源氏の棟領にのしあがった。

 義定は頼朝の幕下に加わって翌年の元暦元年には木曽義仲追討軍に、続いて平家追討軍に加わった。「吾妻鏡」から平家追討軍の編成をみると、大手の大将範頼軍には武田有義、小山朝政、下河辺行平、千葉常胤、梶原景時ほか五万六千余騎、搦手の大将義経軍には安田義定、大内惟義、土肥宗平、三浦義連、熊谷直実以下二万余騎とあり、甲斐源氏の中では安田義定と武田有義が副大将として活躍しており、この合戦では彼は前述のように功績をあげた。その後の壇の浦の戦を通して、源氏一門の人々六人が任官、昇任されている。

 新田義範は伊豆守に、大内惟義は相模守に、足利義兼は上総介、加賀美遠光は信濃守に、安田義資は越後守に、判官義経は伊予守にそれぞれ任せられ義定、義資の親子は遠江守、越後守に任ぜられ安田一門の全盛時代を迎えこの年当山が彼の手によって建立された。

 伝えによると義定の居館が将軍頼朝の館の隣りの、鎌倉大倉(のちの北条泰時の館)にあり鎌倉幕府創建につとめた。文治元年義経を亡ぼし、ついで藤原泰衡征伐のため奥州に鎌倉の大軍が進発しているが、この出発した面々をみると、武蔵守義信、遠江守義定、参河守範頼、信濃守遠光、相模守惟義、駿河守広綱、上総介義兼、伊豆守義範、越後守義資、豊後季光等をはじめ一千騎とあるが、参加した主な大将10人のうち三人は甲州勢であり、安田親子がみられることからしても安田一門の権力は大きかった。

 またこの間に、文治六年に法皇より京都の伏見稲荷、祗園両杜の修理を命ぜられたが、幕府創業、奥州平定のため修理が遅れ法皇のご機嫌を損じ、建久元年下総守に左遷されたが、翌建久二年、竣工し遠江守に遷任し従五位上に叔せられた。この年の八月当山に梵鐘(現在県指定文化財)を奉納した。

 文冶五年頼朝は義経、泰衡の冥福を祈るため鎌倉に永福寺を建て、建久四年越後守義資が薬師堂落慶供養式において梶原景時の罠にかかり、名越邸にて殺され、このことから義定も浅羽荘を没収。地頭職を免ぜられた。翌五年八月十九日、梶原氏のため謀反の嫌疑を受け甲州におちのびたが、伝えによると身にまとっていた鎧を笛吹川に投げ当山にて自刃したというが、最後の地については諸説ある。当山開基堂の毘沙門天は、梶原景則が義定の亡魂に悩まされたので、義定を多聞天に擬して供養のためにつくったと伝えているが、現在の尊像は寛文五年に保田若狭守が修飾したものである。

 当山に納められている重文指定の仏像3躯は義定が都より移し、奥州の藤原氏と同じように、この地に高度の文化の移入をいだいたが、六十一歳をもって生涯をおえた。

 下井尻の雲光寺に伝わる墓所をみても安田一門の権力の大きかったことが、想像できる。永原慶二氏著「源頼朝」の中で『義定が殺された原因は、彼等が甲斐源氏の中核であり、頼朝の対抗勢力として危険な存在だったというばかりでない、義定は任国遠江に多年住みつくことによって公家社会に知られるほどの領主制的勢力を扶植し、とかく独立の勢を誇った点が頼朝のおそれるところ となり、殺される原因となったのである』。とあり義定は鎌倉幕府創建をめぐる権力者の一人であった。
(清雲俊元)


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