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富士五湖、自然と文化・歴史短訪

放光寺4 文化財
Houkouji, Yamanashi pref.

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月
 

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放光寺文化財  出典:放光寺

木造愛染明王坐像



 愛染明王は愛欲をはじめすべての欲望にとらわれ染まる衆生を浄化解脱させる明王である。放光寺所蔵の愛染明王は、檜材の寄木造で像高89.1センチの彩色像であるが、ほとんど剥落している。焔髪に獅子冠をつけ三眼瞋目の彫眼で、口を開いている。

 条帛をかけ、裳をつけ、右前に結跏趺坐する。左手は屈臂し腹にあて五鈷鈴をとり、右手は屈臂し胸に当て五鈷をとる。左脇第一手は屈臂し胸にあて矢をとる。左第二手屈臂と右第二手屈臂は蓮をとる姿で、三眼六臂の姿である。本像は弓と矢をつがえた天弓愛染明王像の姿に表されているが、全国に京都神童寺、高野山金剛峯寺と当寺の三躰が天弓愛染として重文に指定されている。

 本像の構造は、左右二材を矧ぎ、内刳りし別材の背板をはめる。肩臂で矧ぐ。両脚部一材。両膝奥に各一材を矧ぎ付ける。持物、瓔珞、裳先、光背、台座は後補である。総じて彫りは浅く、錐の如く輝く目も鎌倉期にみる忿怒相とは違い激しくはない。

 肉付も清楚穏健、小さな獅子冠も流麗で静謐の中に畏怖を感じられる点は、大日如来像とほぼ同時期、12世紀後半における円派の造像の特徴をよく伝えている。特に六臂のうち二臂で弓矢をつがえるという複雑な造形を全体からみて破綻なくまとめているところは、大日如来と同様京都の工房で、かなり熟練した仏師の制作と思われる。天弓愛染明王では日本最古の仏像である。(塩山市史)


放光寺銅鐘 1口



 銘文によると放光寺の開基にあたる安田遠江守義定が建久2年(1191)に当初奉納し、その後建治元年(1275)、建武3年(1336)、貞治5年(1366)に改鋳された。貞治5年改鋳時の大工は道金で、大和村木賊の栖雲寺梵鐘とおなじ大工銘である。

 また惟肖記によれば武田信玄の時代には武田氏が甲府つつじが崎の館の陣鐘として用いたが、天正10年(1582)武田氏滅亡にともない当寺に帰されたと伝えている。

総高105センチ、口径56センチ。


放光寺庫裏



 庫裏は本堂に向かって右手(東)にあり、玄関で本堂と結ばれている。この建物は寺伝によれば慶長年間(1596~1615)の建立といわれる。庫裏の規模は、桁行九間、粱間六間で南側に出入口がある。屋根は入母屋造、銅板葺(もと茅葺)で妻入りである。妻飾は虹粱大瓶束式で実肘木つき平三斗で受けた大虹粱が支えている。

 破風はかぶら懸魚をつける。出入口の内部は土間で、土間で奥は板敷の広間である。土間境には太い大黒柱が立ち、この部分は粱を組んで小屋組をみせる化粧屋根裏天井としている。なお現在は土間の桁行に架けた粱が中途で切断されており、そのため土間前面が改変されている。また土間と広間の東半は仮天井が張られ、間取りの一部変更もみられるが旧状に復元は可能である。広間の奥は喰い違い四室に分けられ、北西室が床の間と付け書院を備えた書院の18.5畳、その東(床の間裏側)に10畳間がある。

 書院の南に対面所18畳がつづき、対面所の東に12畳間がある。この室には南側に沿って西に茶室(2畳)、東に押入が設けられているなお対面所の西側は一間幅の入側があった痕跡があり、書院との境には現在、鶴を描いた杉戸が建て込まれている。この四室を南北二列に分ける柱筋には構造や寸法等に差違がみられ、このような点から後世に改造が行われた結果と思われる。しかし、平面は当初の古形式を残し、寺伝の桃山から江戸初期の遺構を伝えている。庫裡の中に2畳の茶室が併没されているが、恐らく元禄期ごろに改築したものと考えられるが、珍しい遺構である。
(塩山市史)


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