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  ドブロブニク(3) Dubrovnik

青山貞一Teiichi Aoyama
April 2007  無断転載禁
CopyRight:Aoyama T.
       
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ドブロブニクの歴史(2)

■数奇な運命をたどるその後の歴史

 1918年、第一次世界大戦、オーストリア・ハンガリーが崩壊し、オーストリア・ハンガリーからドブロブニクを含むクロアチアは離脱。

 南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国の提案を受け、クロアチアはセルビア・クロアチア・スロベニア王国の成立に参加。

 1929年、クロアチアは国名をユーゴスラビアに改名。

 1929年、セルビア・クロアチア・スロベニア王国は、ユーゴスラビア王国となり、8つの地域に分割される。1939年までにドブロブニクは8地域のうちゼツカ地区の一部となり、クロアチア領に組み込まれる。

 だが、この連邦国家、ユーゴスラビアにはクロアチア人側からセルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるという反発が大きくもちあがり、1939年、この不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州を設定した。しかしそれは不完全な対応でしかなかった。

 第2次世界大戦の初期、ドブロブニクはクロアチア独立州の最初の一部となる。

 1941年から1943年9月まで、ドブロブニクはイタリア軍に占領され、後にドイツ軍に占領される。

 1944年10月、チトー率いるパルチザンは、ドブロブニクをドイツから解放する。

 1945年、ドブロブニクはユーゴスラビア連邦人民共和国の一部となる。

 1963年、ユーゴスラビア連邦共和国は、ユーゴスラビア社会主義人民共和国となり、同時にクロアチア、スロベニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビアの6地域から構成される社会主義の連邦国家となる。


2007年3月の現地視察でモンテネグロ・ヘルセグノビ
のホテルでもらった共産主義ユーゴスラビア時代の
旅行地図


 1990年、いわゆる東欧革命の一環として、クロアチアはクロアチア共和国として独立、ドブロブニクはクロアチアの基礎自治体部となる。

 東欧革命が旧東欧の共産主義政権を一掃すると、ユーゴスラビアでも共産主義者同盟が一党支配を断念、自由選挙を実施するようになる。

 そして各共和国には何れも民族色の強い政権が樹立される。

 この時セルビアに台頭したのが、ソロボダン・ミロシェビッチ率いるセルビア民族中心主義勢力であった。

■ユーゴスラビア紛争以降、現在までの歴史

 1990年から1991年にかけ、スロベニアとクロアチアが連邦権限を極力制限し、各共和国に大幅な自治権を認める提案を行う。しかし、セルビアとモンテネグロがこれに反発。

 1991年6月、スロベニアとクロアチアの両共和国がユーゴスラビアからの独立を宣言する。

 その結果、スロベニアとの間に10日間戦争、クロアチアとの間でクロアチア紛争が勃発し、いわゆる一連のユーゴスラビア紛争に突入する。

 10日間戦争は短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化。相互に略奪、虐殺、強姦を繰り返す泥沼の内戦に突入した。

 1991年1月1日一端、クロアチアは独立を宣言。ドブロブニクで住民投票が実施されドブロブニク住民の94%はクロアチアにとどまることを支持した。

 しかし、セルビア・モンテネグロはこクロアチアの独立を認めず、米国もクロアチアの独立を承認しなかった。その結果、状況はさらに悪化。

 この直後の1991年10月1日以降、ブロブニクは20kmで隣接するセルビア・モンテネグロから激しい軍事攻撃にさらされることになる。攻撃はGruz、Cilipiの空港、そして世界遺産の中心地ドブロブニク旧市街にまで及んだ。

 その後、セルビア・モンテネグロ批判の国際世論のもと、ドイツ、そしてEU全体がクロアチアの独立を承認。ドブロブニクも1992年に解放される。

 以下の写真の数々は、セルビア・モンテネグロ軍がドブロブニク及びその周辺地域を攻撃したときの映像の一部を静止画化したものである。

Source:War in Dubrovnik


破壊されたドブロブニク旧市街背後の山頂にある施設
(2007.3.13撮影:青山貞一)


同拡大(撮影:青山貞一)

■さらにつづくユーゴスラビア紛争

 1992年には、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を契機にいわゆるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発。

 ボスニアではセルビア、クロアチア、ムスリムの混住がかなり進行していたため、状況はさらに悪化。またセルビア、クロアチア両国が介入したため、こちらも長期化、泥沼化を呈した。

 1993年5月、クロアチア共和国軍がドブロブニクとその周辺をを解放する。しかし、セルビア・モンテネグロ軍は突然攻撃を再開した。

 激しい攻撃は、その後3年続く。最終的に終結を見たのは1995年になってからのことである。

 クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は1995年になって終結をみるも、セルビアがこれらの地域からのセルビア人難民のコソボ殖民を強力に推し進めたため、コソボにおける民族バランスが大きく崩れ、これに危機を抱いたコソボ民族派によりコソボ紛争が引き起こされた。

 1999年 NATO軍による爆撃、その後の和平協定に基づく国連暫定統治機構 (UNMIK) を設置。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグの国際戦犯法廷に立たされる中、同国はセルビア・モンテネグロに名称を変更し、ユーゴスラビアの名は消滅した。
 
 現在、クロアチア共和国の一部としてドブロブニクは、やっとのことで自由で安全な都市となることができた。

ユーゴスラビア戦争について

 第2次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていた多民族国家のユーゴスラビアでは、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を達成する。

 後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」といわれるほどの多様性を内包した国家であった。

 戦後の世界はアメリカ合衆国を中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営が対立する冷戦がはじまる。ユーゴはチトーが共産主義者であり東側陣営に属するが、ポーランドやハンガリー、ルーマニアなどの東欧諸国とは違い、ソ連の衛星国では無い独自の社会主義国家としての地位を保っていた。

 1980年にチトーが後継者を定めないまま死去し、ソ連国内においてはゴルバチョフ指導による民主化が進み、ルーマニアにおけるチャウシェスク処刑に代表される東欧民主化で東側世界に民主化が広がり共産主義が否定されると、ユーゴにおいても共産党による一党独裁を廃止して自由選挙を行うことを決定し、ユーゴを構成する各国ではチトー時代の体制からの脱却を開始する。

 また、各国ではミロシェビッチ(セルビア)やツジマン(クロアチア)に代表されるような民族主義者が政権を握り始めていた。大セルビア主義を掲げたスロボダン・ミロシェビッチが大統領となったユーゴの中心・セルビア共和国では、アルバニア系住民の多いコソボ自治州の併合を強行しようとすると、コソボは反発して1990年7月に独立を宣言し、これをきっかけにユーゴスラビア国内は内戦状態となる。

 1991年6月に文化的・宗教的に西側に近いスロベニアが10日間の地上戦で独立を達成し(十日戦争)、次いでマケドニアが独立、ついで歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチアが激しい戦争を経て独立した。

 ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立したが、国内のセルビア人がボスニアからの独立を目指して戦争を繰り返した。セルビア国内でもコソボ自治州が独立を目指したが、セルビアの軍事侵攻によって戦争となった(コソボ紛争)。

 複雑な歴史背景による入り組んだ民族配置は完全には解消されてはいないものの、NATOや国際連合の介入により紛争は収められた。

 2005年11月、住民投票による井モンテネグロが独立し、現在に至る。


バルカン半島における旧ユーゴスラビアの領土(ピンクの枠内) 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

■いくたびかの戦禍で破壊されるドブロブニク

 ドブロブニクは、中世以来の度重なる戦争、戦禍、第二次世界大戦後の以下の内戦によって多くの命を喪失し歴史的遺産が破壊された。

 とくに1991年にはじまり1995年まで続いたクロアチア紛争は、歴史的な対立を背景に戦争は泥沼の様相を呈した。4年の戦争の末独立を獲得したが、ドブロブニクでも多くの人々が亡くなった。

<内戦一覧>

 ○スロベニア紛争(10日間戦争)(1991年)
  スロベニアがユーゴスラビアからの離脱・独立を目指した戦争。
  規模は拡大せずに10日で解決した。10日戦争或いは独立戦争。

 ○クロアチア紛争 (1991年〜1995年)
  クロアチアがユーゴスラビアからの離脱・独立を目指した戦争。
  歴史的な対立を背景に戦争は泥沼の様相を呈したが、4年の戦
  争の末に独立を獲得した。

 ○ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア紛争) (1992年〜1995年)

 ○コソボ紛争 (1999年)

 ○マケドニア紛争 (2001年)

 現在、ドブロブニク旧市街、プラカ通りの一角に、博物館として「戦禍」に関連する写真等が展示されている。他の博物館は入館料がとられるが、この博物館は無料。




内戦で死亡したドブロブニクのひとびと


その拡大


ドブロブニク地域への攻撃


ドブロブニク地域への攻撃

 また旧市街には、以下のように実際に破壊された建築物の一部がそのまま残され、そばに説明板が展示されている。



 つづく