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  ドブロブニク(7) Dubrovnik

青山貞一Teiichi Aoyama
April 2007  無断転載禁
CopyRight:Aoyama T.
       
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(6)建造物
 (7)城壁 (8)再生・修復  (9)自由・自治 


■旧市街の歴史的建築物とランドマーク(3)
 〜最大のランドマーク:城壁〜




 ここでは、ドブロブニク旧市街(
Dubrovnik Old Town)の歴史的建築物とランドマークのつづきを解説する。

●ドブロブニク旧市街の城壁

 おそらくドブロブニク旧市街を最も特徴づけるランドマークそして歴史的建造物は、一周約2kmにおよぶ堅牢な城壁であろう。

 今なお健在なそのドブロブニク旧市街の城壁だが、14世紀から着手され15世紀頃にほぼ現在に近い城壁が完成している。

 紺碧のアドリア海と調和した中世の街並みは絶品である。1667年の大地震の教訓から火災を避けるため、まち全体が石で覆われている。

アドリア海から見たドブロブニク。都市全体が厚い城壁で守らた要塞であることが分かる。
 出典:ドブロブニク市公式サイトより

 ドブロブニク旧市街地は周囲約2km(正確には1925m)の城壁で囲われている。城壁は街区から4〜5m離し街を全体を囲っている。その厚さは場所によって3mから最大6mメートルと厚い。また高さだが、高いところでは23〜25mにも及んでいる。

 さらにドブロブニク旧市街には背後地の山側の壁から、すり鉢状の傾斜が急な坂を下り底辺に向かい約2mの石段が10mの間隔で15本もある。

 現在、この城壁の上は万里の長城同様、遊歩道になっている。約1時間でひとまわりできる。城壁には旧市街への入口となる門が4カ所ある。それぞれ名前が付けられている。ピレ、プロチェ、プジェ、ポンテの4つである。一般の観光客の多くはピレ門から入る。

旧市街は頑強な城壁で要塞化されている
ことがよく分かる。西からみた旧市街の城壁。

●ドブロブニク旧市街の城壁ツアーをご堪能ください!




1 上の写真の右側がピレ門。


1 ピレ門の上。クロアチア国旗がはためいている


1−2 ピレ門から2


22 城壁ツアーの入り口から城壁に上る階段


1 ピレ門を上がった城壁からプラツァ通りを撮影





城壁の上からピレ門内側をみたところ


1−2  ピレ門をあがった城壁からピレ門の外を写す





2から14の方角を写す


2−3


2−3 


2−3


3から13の方角を写す




4から13の方角を写す





4 1834年と彫刻したあった





6からアドリア海を写す














7ー8


7−8








10、20


12,20


13


13−14


13からドミニコ会修道院側を写す


12−13


14から2の方角を写す


14


14から11の方角を写す


14、1


ちょうど一周し1の城壁の上から真下を撮影したところ


●では、なぜ、かくも頑強な城壁をつくったか?

 それは言うまでもなく、小都市国家の周辺には、歴史的にみて強国がたくさんあり、それらの脅威にさらされたからである。

 ドブロブニク旧市街は、14世紀中頃から4世紀半にわって「自由都市」として独立共和国を維持できたのは、おそらくシタデル(要塞)としての機能を併せもつ、城壁砦があったからであろう。まさに専守防衛の要がこの城壁であり、砦であったのだ。

 人々は外敵から市民的自由と小都市国家の独立を守るため、また大地震による災害の教訓からまちを造り守るため、東西海洋貿易で稼いだ財宝を各種の公共施設に費やしてきたのである。

  これらドブロブニクの城壁の建設は8世紀から始められたとされているが、15世紀にオスマントルコの勢力が強大化したこともあり、幾度となく改修工事が行われた。

 さらにドブロブニクは同じ都市国家であるベニス共和国海軍の襲撃に備え、港に面したレベリン要塞(以下の写真を参照)を新らたに設置した。

旧市街の最東部、港の入り口に立つ要塞

 そのドブロブニクだが、1991年、かのユーゴスラビア内戦によって危機に瀕する。激しい内戦によってエーゲ海の真珠はあちことが破壊された。

つづく