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  ドブロブニク(9) Dubrovnik

青山貞一Teiichi Aoyama
April 2007  無断転載禁
CopyRight:Aoyama T.
       
(1)概要 (2)歴史@ (3)歴史A (4)景観 (5)建造物 
(6)建造物
 (7)城壁 (8)再生・修復  (9)自由・自治 


■自律的な都市行政

●自由の価値


 ドブロクニクは世界で最初に奴隷制を廃止した都市国家である。

       すばらしき自由よ

     自由は神からの偉大な贈り物であり

     我々の掌理のたまものである

     金や銀そして

     我々が造り出した如何なる諸物によっても

     真の自由は得ることができない

                 イヴァン・グンドゥリッチ

 
●欧州で最初にドブロブニクが切り開いた
  相互扶助(医療・薬事・福祉)

 ドブロブニク共和国内には、1301年に市民への医療が開始され、1347年には欧州でも早期の薬局も操業された。

 歴史的建築物のところで示したが、ピレ門を入ってすぐ左にあるフランシスコ会修道院の建築物の一部が古い薬局となっている(下の写真参照)。


ラグーサ共和国時代の薬事を記す証文

 この薬局は1317年に開業されている。数ある欧州の薬局のなかでも屈指の古い歴史を持った薬局であり、ドブロブニクの高い福祉、医療レベルを伺わせる。現在でもフランシスコ会修道院の入り口近くに、博物館ではなく、薬剤師を置いた薬局があり、ドブロブニク市民に薬を提供している。


フランシスコ会修道院内部にある薬事博物館


フランシスコ会修道院内部にある薬事博物館の写真(上の写真は実物)


フランシスコ会修道院の中にある薬事博物館は入場料が25クーナ、
開館時間は午前9時から夕方5時。入り口のインターフォンで連絡
すると中から担当者が出てきて門を開けてくれる仕組みになっている。



 さらにこの都市には、ドマン・クリスティ(Domun Cristi)と呼ばれる病院も建設されている。1377年には世界初の検疫所が開設された。

 1436年には挙和国の水道設備が整備されている。

 ドブロクニクについてこう述べてくると、外敵から住民を守るためにハードな城壁や要塞など、すごいハコモノづくりの小都市と思われるかも知れない。

 しかし、現在、ドブロブニク全体で5万人弱、旧市街部分で人口は4000人にも満たない。当時の旧市街部の人口は恐らく1000人前後だったはず。そこでは上記のハコモノなどハードなまちづくりだけではなく、中世以降、世界でもっとも先進的な福祉などの行政サービスが小都市の市民に対し提供されてきた。

 NHKは2006年早春に世界遺産の番組でドブロブニクを紹介したが、そこでは、まさに現在に息づくそれら世界最初で最高の福祉サービスを具体的に紹介していた。

 たとえば、ドブロクニクは世界で最初に奴隷制を廃止した都市国家である。ドブロクニクでは高齢者福祉、たとえば大昔から散髪は無料、(高齢者)医療も無料とし、いずれも税金に類する公有金で理髪師や医者をパートで雇い、高齢者や社会経済的弱者が集まる場所(教会、養老院など)に理髪師や医者が行き、散髪や診察をするなど、私たちが今日でも見本とすべき都市のもうひとつの顔がある。 理髪師や医者は、パート以外の時間は自分の店や医院でそれぞれ仕事をしている、と(出典:NHKの番組より)
 

旧市街プラツァ通りの目抜きにある床屋。店が一段落すると
市役所の依頼で高齢者施設に行き、高齢者に今でも散髪をしている。

 このように自由都市、ドブロクニクには、独立、自律、市民相互の助け合い、相互扶助とともに、今で言う福祉行政があったことになる。


●先進的なドブロブニクの行政、立法システム

 「自由都市」ドブロブニクの行政組織だが、はじまりは13世紀にさかのぼる。

 1238年、最初に総領と執行機関(行政機関)ができ、1253年になって議院制度ができる。

 とはいえ ラグーサ共和国(後のドブロブニク共和国)だが、その共和体制は、当初、非常に貴族的、貴族政治的なものであり、市民のなかでも比較的社会的身分の高い者によって統治、管理されていた。

 ドブロブニクのひとびとは、貴族、市民、技師あるいは職人の3つに分けられて、すべての権力は貴族の象徴であった。市民は小さな店をもつ程度しかなく、技師や職人は行政にかかわることはなかった。ただし、3つの階級相互での結婚は許されていた。

 行政組織は、大評議会(Grand Council)、小評議会(行政権限をもつ)が1238年にでき、1253年に議会(元老院)ができる。


ラグーサ共和国(後にドブロブニク共和国)の行政、立法などが行われた
レクター宮殿。現在は、ドブロブニク歴史博物館となっている。
出展:資料映像

 大評議会の構成員は、貴族から選ばれた。貴族は18歳のときから大評議会の議席を有した。小評議会は11名から構成される。のち(1667年)からこれは7名となる。小評議会構成員は、ケネツ(Knez)あるいはレクター(Rector)から選出された。

 ※ レクター(Rector)とは教区牧師, カトリック修道院などの院長,
    教会などの主任司祭、特定の大学の校長、学長

 議会は1235年、評議会の顧問的役割として付加された。

 議会は40歳以上の45名により構成された。

 共和国の総領は50歳以上の貴族から1ヶ月交代制で任じられ、在位中は総領の公邸から外に出ることが禁じられたというエピソードもある。

 それより前、ドブロブニクは、1272年に最初の法律を制定する。

 その法律には、都市計画法、公衆衛生法、同規則なども含まれる。

 法律は、同時代、先行した都市国家であるベニス共和国のそれに準拠するが、1358年以降、ドブロブニク都市共和国独自の先進的な法制度を次々に制定し、執行する。 

 ドブロブニクが世界に先駆けおこなった行政サービス、とくに市民福祉サービスには次のようなものがある。

  - 医療サービスが1301年に導入された
  - 薬局が1317年に開始された
(この薬局は欧州で3番目に古い)
  - 高齢者施設(敬老施設?)が1347年に開かれた
  - 最初の伝染病の病院が1377年に開かれた
  - 奴隷制は1418年に廃止された
  - 孤児院が1432年に開設された
  - 二十kmに及ぶ上水設備が1436年に整備された

 14世紀にこれだけの福祉行政、市民サービスを行っていたことは、驚嘆に値するものであり、同時に、現代国家や諸都市が参考とべき多くのものがドブロブニクにあると確信する。それが現地調査を敢行し、膨大な報告を書いた上での私の結論である。。

 なお、現在のドブロブニク市については、以下のWebを参照のこと。

 ドブロブニク市公式サイト

 おわり