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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

斉奇璋:旅順大虐殺の真相の再検証(5)
戚其章:旅顺大屠杀真相再考

来源: 《东岳论丛》戚其章 /腾讯网
2014年4月9日

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年2月20日
 
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(5)

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 12 月 16 日、烈は栗山慎一郎に旅順口事件の事後処理に関する指示として上記の「7 点声明」を送付し、 同時に「7 点声明」の精神に沿った「日本政府声明」を起草した。

 「旅順は他の地域よりも流血が多かったはずだ。 少し血が流れすぎたかもしれないが、外国人ジャーナリスト、特に世界報の記者が見世物にするために海外に送った報道は、事実を誇張しないばかりか、著しく誇張している。

 旅順を占領した中国兵は、表立って抵抗しても無駄だと判断し、軍服を脱いで民間人に変装し、住民の空き家へ逃げ込んだ。 この空家の本当の住人は、日本軍が旅順を攻撃する数日前に逃げ出し、平和になった時に皆戻ってきた。 中国兵は、降伏すれば日本兵の捕虜と同じように虐待されることを恐れての行動だった。

 そこで、彼らはあらゆる方法で変装を試みると同時に、日本軍に発見されたら徹底的に戦うために武装をしようとした。 日本軍の攻撃前に退去しなかった一部の住民は、その後、抵抗して日本軍に発砲するよう命じられ、これを実行したと言われている。

  しかし、旅順で殺された者のほとんどは変装した兵士であり、ほとんどの死体が外衣の下に軍服を着ていたことからもわかる。 ある外国人記者は、旅順で殺された人たちの傷は、銃弾よりも刺し傷の方が残酷だと言った。 これが外国人記者を大げさにさせた一因かもしれない。

 中国兵に捕まった仲間の手足を折られた無残な遺体を見て、日本軍は大騒ぎになった。 その日本人捕虜の中には、生きたまま焼かれた者もいれば、拷問で殺された者もいた。 それにもかかわらず、日本軍は規律を守った。 ....." [17]

 嘘だらけの日本当局の緻密な説明は、第一に、日本軍が殺したのは捕虜ではなく、抵抗を命じられた民間人に化けた清国の兵士だけであることを示すこと、第二に、兵士と民間人の区別がつきにくいときに誤って殺された罪のない民間人の虐殺の責任を日本軍から取り除くことを目的としていた。

 旅順虐殺事件後、日本軍の残虐行為が次々と明らかになる中、日本政府は一刻も早く事後処理を行い関係者を処罰するか、旅順で捕虜や民間人を殺害した日本軍の犯罪を認めないかの二者択一を迫られることになった。

 日本の最高権力者は、「この大虐殺を調査するとなると、第一師団長の山地(元治)から第二軍司令官の大山(岩城)までが責任問題に巻き込まれる恐れがある」と、状況を明確に見ていたのだ。

 そうなると、山県(有朋)先輩をはじめ、出征する両軍の指揮官を交代させなければならない。 現地での作戦指揮を執る最高司令官の召還は、遠征軍の士気を下げるだけでなく、政府も軍司令部の反撃にあう危険性がある。
このことが、伊藤博文が最終的に後者、すなわち「事態を無視し、完全に防御的なアプローチをとる」という道を選ぶことになった根本的な理由である[24]。

 日本政府は、日本軍が捕虜を殺したことを公に否定し、抵抗するよう命じられた民間人に化けた清国兵を殺したと主張したが、日本の戦争参加者は、個人の記録や会話の中で捕虜を殺すことを惜しんだりはしていない。

 例えば、日本人特派員亀井崎の日記によると、11月21日、日本軍の乃木分隊は、旅順への裏道30マイル城付近で退却する清軍と出会い、「白馬数頭と300人もの清国兵を戦闘で捕らえた」とある。 囚人のほとんどはこの日に射殺され、残りの者は柿の木に三つ編みをぶら下げ、そのうちの4人は三つ編みの髪を噛み切ってソルガム畑に隠れてしまったという。

 翌朝、彼らは皆、首を斧で切って死んでいるのが発見された。 残りの捕虜も自決を覚悟していた。 兵士たちは一人ずつ捕虜を奪い合い、剣を借りて皆殺しにした。その時点で兵士たちは勇者であることに変わりはない。

 「11月23日、日本軍は「隠れている者を探し、ついに30人以上の清国逃亡者を捕え、全員首をはね、道端にさらしました」[4]。

 
戦争の目撃者である亀井のこの告白は、日本政府の「弁明」のウソを完全に暴いた。 実は、日本軍の第2軍は旅順に攻め込む前に、すでに捕虜を取らないというルールを内部で作っていたのだ。

 旅順虐殺の際、日本第二軍の法律顧問であった有賀長雄は、一部の欧米ジャーナリストに迫られ、日本軍が 「平壌で数百人の捕虜を取ったが、食糧費がかかるだけでなく、守るのも面倒なので、その間は捕虜に戻らなかった」という内幕をうっかり明かしてしまったのである。 [18]

 
亀井の日記での記述と比較すると、日本軍による捕虜の殺害は、自然発生的で偶然の犯罪ではなく、上官の命令を遂行するための組織的・集団的犯罪行為であり、日本軍当局が国際公法の戦争法を露骨に軽視していたことがよくわかる。

 日本軍による民間人虐殺について、日本政府はこれを完全に否定することは困難と考え、一方では旅順の住民はとっくに立ち去り、殺すべき者はほとんど残っていないと、詭弁を弄した。

 一方、兵士と民間人の区別がつきにくく、そのため「偶発的な殺傷事件」が起きているというが、これも根拠がない。 亀井子明は日記の中で、「中新街の劇場に行くと、入り口には『慈賢茶園』と書かれたプレートがあり、21日に我が第二連隊が敵兵を掃討したとき、人々が四方に逃げ出した唯一の劇場であった。

 我が軍の兵士が押し寄せた時、ジャンダルム(官憲)に止められて発砲しなかったので、殺されることはなかった。......戦闘中に多くの流れ弾が来て、劇場スタッフの17、18人がそのために命を落とし、100人の出演者の子供たちは助かった。"と。 [4]

 このことから明らかなように、旅順の街中の住民は、日本軍が侵入したとき、とっくに退去していたのではなく、慌てて「四方に逃げた」のである。もし、日本の憲兵が日本軍の射撃を止めなければ、数百人の子役は死亡していただろう。

 亀井の記述によれば、子供たちは皆14、15歳であり[4]、彼らは助かったものの、旅順での日本軍の虐殺が「兵士と民間人の混血」と無関係でないことは明らかである。

 
実際、当時の日本人の戦争参加者の多くも旅順の虐殺について多くの証言を残しており、日本政府の説明文が全くの嘘であることをさらに証明している。 いくつかの例を挙げると、次のようになる。

 日本第二軍法律顧問・長尾愛雅「(旅順)街道の北側が入口で、その中央に天后宮(ティンハウクン)というお寺があり、道の両側には家が並び、家の中にも屋外にも死体があり、道にも死体が散乱していて、踏まないと通れない状態になっている。 天后宮から東に折れると、道庁や海軍省があり、立派な建物である。 その前に造船所の入り口があり、造船所の前に広場があり、広場に沿って東西に長い通りを行動し、南に直角の通りの真ん中に、旅順市街を東街、中街、西街の三つに分け、ここも死体でいっぱいだ、とある。」 [7].

 日本人ジャーナリスト亀井「戦後の街並みの悲惨さを目の当たりにしました。 旅順の街の南側に3つの新街があり、街には「東新街」「中新街」「西新街」の看板が立っていた......。 ...城壁は崩れ、家は荒れ、骨は道に積み上げられ、血は川を流れている。 道の両側の家々には、ボロ布、瓦、紙くず、中国製の靴などが散乱し、めちゃくちゃになっていた。 家の中には、血の滴るような外来者の死体もあり、置き場所もない。 よく見ると、首を切られて脳が破裂しているものもあれば、腰や腹部を真っ二つに切られて、腸や胃が全部露出した無残な状態になっているものもあった。」 [4]

 日本軍第2飛行隊の久保田忠三:「中国兵を見ると殺し、旅順の人を見ると皆殺しにするので、道路は死人だらけで歩くのが大変だった。 家に住んでいた人たちも殺され、平均的な家では3人から5、6人が殺され、流れる血は嫌というほどだった。」 [15].

 日本軍第1野戦砲兵隊の補給兵、小野六三:「旅順の街に散歩に出ることを許された時、各家で十数体から二、三体の敵の死体があり、白髪の老人や赤ん坊が一緒に殺されたり、白髪の妻や嫁が地面に手を合わせて寝ていたり、その惨状は言いようもなかった」とある。 [2].

 この引用文によれば、日本軍が旅順の市街地に入り、性別や年齢に関係なく、その場で人を殺したという確たる証拠がすでにある。 その証拠に、殺された人の中には、白髪の老人や新しい女性や子供もいたそうだが、彼らは清国の兵士と「見分けがつかない」と言えるのであろうか?

  これを正当化することはできない。「 捕虜を縛って虐殺し、民間人を女性まで殺したことは事実のようだ」と、六さんも内心では認めている。 [25]

 しかし、公の場では、「この事件の真偽や、仮に事実であったとしても、その手順がどうであったかをここで追求する必要はない」と、意図的に曖昧な表現をしている。 [26]

 彼はこの悲劇について言及する価値があるとは考えず、怪しげな言葉で片付けようとした。 まさに、中国の「酔えば酒を飲む金を認めない」ということわざのようなものであった。

 当時、日本政府が旅順の虐殺を隠蔽し、責任逃れをしたことは、極めて悪い影響を与えた。 日本の歴史学者の中には、「こうして旅順の虐殺の責任問題は棚上げされた」と指摘する人もいる。

  しかし、その結果、日本軍の軍紀上隠しきれない汚点が生まれ、劇場型残虐行為に罪はなく、そのような行為が次々と行われるようになった。「それだけでなく、日本政府が事件の真相をあらゆる手段を講じて隠蔽したため、日本の一部の人々は、後に旅順虐殺事件を再捜査する理由を与えてしまったのである」[24]。


(R) 参考文献につづく
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