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第5回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2016-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune


スタビアエ遺跡2

Stabiae Remains2 
 
青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

  
2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo  無断転載禁

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カステッランマーレ・ディ・スタービア(コムーネ)

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◆スタビアエ遺跡2

 スタビアエの街は今も明確にその場所に存在していますが、同盟市戦争(紀元前91~88年)においてローマ人との紛争が頂点に達したとき、ローマの将軍スッラが紀元前89年4月30日に単に占領しただけでなく、町を破壊したという事実のために、この街は、おそらく重要な要塞都市となりました。

 場所は、スカンザノ峡谷とその壁を部分的に侵食したサンマルコ川によってその範囲が定められていると言われています。

 注)同盟市戦争(英: Social War、羅: Bellum Sociale) Wikipedia
  紀元前91年から紀元前87年にかけて、都市国家ローマと同盟
  を結んでいたイタリア各地の都市国家や部族が、ローマ市民権
  を求めローマに対し蜂起した戦争である。「ローマ連合」は実質
  的には一つの国として機能していたため、戦争というより内戦
  に近い。


ローマ時代


スタビアエでの発掘調査の地図
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 4.0, Link

 ローマの作家で提督のプリニウス長老は、同盟市戦争後に町が再建され、裕福なローマ人に人気のリゾートとなったと記録しています。彼は、岬の端に沿って数マイルにわたり豪華な別荘が建てられ、それぞれの別荘から、湾を一望する景色を楽しむことができたと報告していました。今日訪れることができる別荘は、紀元前89年のスッラによるスタビアエの破壊から西暦79年のベスビオ山の噴火までの時期に出来たものです。

 1759年、カール・ウェーバー(Karl Weber)は、サン・マルコ邸近くで、全体では約45000平方メートルの広さに及ぶ都市の一部を特定して解説しました。彼は、直角に交差する5つの舗装された通り、公開広場、基壇上の寺院、運動場、アーケードのある店舗、歩道、小さな民家などを発見しました。

 注)タベルナ(Taberna) Wikipedia(en)
  タベルナは古代ローマの一種の店または屋台でした。もとも
  と商品やサービスを販売するためのシングルルームショップ
  を意味していましたが、Tabernaeは、家の正面玄関である蛇
  口に隣接する1階の住宅に組み込まれていました。

 スタビア周辺の平原には、市が管理する土地で、約60の農村集落郊外の街(villae rusticae)が確認されているStabiaeの農場地帯(Ager Stabianus)がありました。農家はそれぞれ400~800平方メートルの大きさで、肥沃な土壌を利用して集中的な農業が行われていました。そこでは、主にワインやオリーブの圧搾、小麦の脱穀と貯蔵などの農産物の生産、加工が行われ、別荘地の温泉とフレスコ画が描かれた部屋などから考えると、農家は裕福であったと思われます。

 こうしてスタビアエは高級住宅地としての地位を確立したため、シセロ(Cicero)は友人のマーカス・マリウス・グラティディアヌス(Marcus MariusGratidianus)に手紙を書きました:

 「あなたがお勉強するときに、スタビア湾に向いた窓を開けナポリ湾のスタビア海に窓を開けてミセヌム(Misenum)の景色を独り占めにした時、あなたは当時の朝の時間を軽い読書で過ごしたに違いありません。」

 注)ミセヌム(Misenum)
  イタリア南部のカンパニア州ナポリ県にある港町である。現在
  はミゼーノと呼ばれ、コムーネのバーコリに属するフラツィオー
  ネである。ミセヌムはナポリ湾の北西部の岬にある。


 この時期にナポリ湾の海岸全体に沿って豪華な別荘が建設されたという現象については、ストラボンも次のように書いています:

 「湾全体は都市、建物、農場がまるでキルティングされてように相互に連なっているので、あたかもひとつの大都市のように見えます。」

 スタビアエはまた、コルメラ(Collumella)によると薬効があると信じられていた湧き水の水質でよく知られていました。スタビアエはその泉でも名を馳せました。

 注)コルメラ(Collumella) Wikipedia(en)
  Lucius Junius Moderatus Columellaは、ローマ帝国の農業に
  関する著名な作家でした。 彼の12巻の「農業」(De re rustica)
  は完全に保存されており、大カト(Cato the Elder)とVarroの作
  品とともに、彼は時々引用するローマの農業の重要な情報源と
  なっています。


 注)大カト=マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス Wikipedia
  (ラテン語: Marcus Porcius Cato Censorius (M. Porcius M.f. Cato)、
  紀元前234年 - 紀元前149年)は共和政ローマ期の政治家。清
  廉で弁舌に優れ、執政官(コンスル)、監察官(ケンソル)を務め
  た。曾孫のマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カト)と
  区別するため、「大カト(ラテン語:Cato maior)」や「カト・ケンソリ
  ウス(ラテン語: Cato Censorius)」と称される。-中略)  著作に
  は農書『農業論』と古ラテン語を使用している歴史書『起源論』が
  ある。


 注)Varro=マルクス・テレンティウス・ウァロ  Wikipedia
   (ラテン語: Marcus Terentius Varro, 紀元前116年 - 紀元前27年) 
  共和政ローマ期の学者、著作家、政治家である。「レアテのウァッ
  ロ」(ウァッロ・レアティヌス、Varro Reatinus)とも称される。レアテ
  (Reate, 現リエーティ)もしくはその近郊で生まれた。家はエクィテ
  ス階級と考えられ、ウァロの老年までReatine平野の、おそらくLago
  di RipaSottile近くに広い農場を所有していた。


西暦79年の噴火

 西暦62年、市は激しい地震に見舞われ、地域全体に影響が及び、建物に甚大な被害をもたらし、修復作業が必要となりましたが、その修復は決して完成することはありませんでした。

 彼の甥が書いた記述によると、西暦79年の噴火が始まったとき、長老プリニウスはミセヌムの湾の反対側にいました。彼は、一つには噴火をより綿密に観察するため、そして、もう一つの理由としては、火山の近くの海岸から人々を救うために、湾を横切ってガレー船で航海しました。

 注)ガレー船(galley) 
  ガレー船、中世に奴隷や囚人にこがせた多数のオール
  を有する帆船、古代ギリシャ・ローマのオールを主とし帆
  を副とした軍船


 プリニウスはその翌日、おそらく火山の煙柱(地球のマントル深部から生じると考えられているマグマの上昇流)が崩壊したことによって引き起こされた六回目の最大の火砕流が到来する中、スタビアエで死亡しました。この火砕流の相当に希釈された端の部分がスタビアエに到達し、非常に厚い空中堆積テフラの上に2センチメートルの微細な粒子の灰が残り、それによってその下の建物などの遺物をさらに保護することとなりました。


噴火後

しかし、ポンペイとは異なり、大聖堂の敷地から回収された11番目のマイルストーンが示すように、約40年後にヌチェリアへの道が再建されたため、噴火によって人間の活動が終わることは有りませんでした。

 注)ヌチェリア(Nuceria)(伊: Nocera Inferiore)
  イタリア共和国カンパニア州サレルノ県にある、人口約46,000人
  の基礎自治体(コムーネ)。


 また、パブリウス・パピヌス・スタティウス(Publius Papinius Statius 西暦45–96)は、その詩の中で、彼が「Stabias renatas」(スタビアエは生まれ変わった)」と呼んたでいるその町(スタビアエ)に彼の妻も一緒に暮らすことを求めました。周辺の農業地域には港が必要であり、ポンペイの港が破壊された一方でスタビアエの港が復元されたため、スタビアエ港は貿易の重要な中心地であり続けました。

 西暦2世紀には新しい巨大墓地(ネクロポリス)が、サン・ビアジオの洞窟(Grotta S.Biagio)(Villa Ariannaの下)、サンタ・マリア・ラ・カリタ(Santa Mariala Carità)そしてピモンテ(Pimonte)に創られました。

 注)サン・ビアジオの洞窟(Grotta S.Biagio) Wikipedia(it)
  聖人ジェイソンとマウロの地下墳墓としても知られる聖ビアジオ
  の洞窟は、異教の寺院で、初期のキリスト教墓地、ベネディクト
  会の礼拝堂、カステッラ・マーレ・ディ・スタビアのカトリック教会
  でした。内部には、ビザンチンとロンバルディ様式のフレスコ画
  の連作が保存されています。


 3世紀の危機の後、都市の重要性は低下していきました。3世紀から4世紀の間に、石棺が発見されたことが示すように、それが、キリスト教共同体の最初の痕跡でした。5世紀には、最初の司教であるオルソとカテロの二人の司教とともに、教区が形成されました。5世紀には、ベネディクト会の中心地として知られるようになりました。


Milestone found on the cathedral site, 121 AD
大聖堂で121年に発見された石の里程標(マイルストーン)
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 4.0, Link


スタビアエ遺跡3へつづく