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第5回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2016-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune


スタビアエ遺跡3

Stabiae Remains3
 
 
青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

  
2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo  無断転載禁

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カステッランマーレ・ディ・スタービア(コムーネ)

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◆スタビアエ遺跡3

考古学

 スタビアエ遺跡は、1749年、ナポリのカルロス7世王のために働いていたエンジニアであるキャバリエール・ロコ・デ・アルキュビエレ(Cavaliere Rocco deAlcubierre)によって最初に発見されました。これらの遺跡は、1749年から1775年の間にカールウェーバーの助けを得てアルキュ・ビエレが部分的に発掘しました。

 ウェーバーは最初に詳細な建築図面を作成し、ナポリの裁判所に提出しました。 彼は、建物を体系的に発掘し、発掘現場の環境の中での展示を提案しました。1759年、ウェーバーは約45000平方メートルの面積に広がる旧市街の一部について、部分的に明らかにしましたが、発掘された遺跡は埋め戻されました。


図 Plan of part of the town of Stabiae, (Villa San Marco top right)
  スタビアエのまちの部分的な地図(平面図)(右上がサン・マルコ別荘/大邸宅)
Source:Wikimedia Commons
Public Domain, Link

 ウェーバーの死後、1782年までの2回目の発掘活動は、建築家フランチェソ・ラ・ベガ(Franceso La Vega)の支援を得て行われました。彼は発掘の歴史を再構築するために、これまでのすべての資料を熱心に収集しました。彼は、(現場の)状況/環境についての新しい概念を初めて紹介し、その風景、あるいはその歴史的、考古学的な複合体のなかに存在する古代の建築物を直接観察することの意味を強調しました。スタビアエでの7年間で、ラ・ベガ(La Vega)はすでに部分的に発掘された複数の別荘、具体的には、パストーレ邸(Villa delPastore)、アリアナ邸(Villa Arianna)そしてセカンド・コンプレックス(Second Complex)で発掘を再開し、調査を多数の郊外の田舎町や農村地域にまで拡大し、詳しい報告を行いました。しかし、彼は発掘された建物を露出させたままにして、埋め戻しをしないようにと、裁判所を説得することができなかったため、結局、スタビアエの発掘は掘削して埋め戻すという通常の技術で続けられることになりました。結果として、スタビアエの発掘現場(遺跡)は再び全くといってよいほど忘れられていました。


Spring fresco from the Villa Arianna, Stabiae
アリアナ邸から発掘された春を描いたフレスコ画
Source:Wikimedia Commons
Public Domain, Link

 1950年、熱狂的なアマチュア(考古学マニア)のリベロ・ドルシ(LiberoD'Orsi)が、ブルボン発掘調査の地図の助けを借りて、サン・マルコ邸とアリアナ邸のいくつかの部屋を明るみに出し、また、1957年にペトラーロ邸住宅(Domus)も偶然発見しましたが、数年の研究の後、これらの発掘現場は埋め戻されてしまいました。彼はまた、サン・マルコ邸から300メートルほど離れたところの住宅街の一部を発見しました。

 その中には、家屋、商店、港からの道路が合流する市場の一部の遺跡なども含まれていました。 これらの遺跡は再び埋め戻されましたが、発見のニュースはすぐにヨーロッパ中から重要な訪問者と貴族を引き付けることとなりました。最も貴重なフレスコ画のいくつかは、より良い保存を確保するために切り離され、約9000点にものぼる発見した品々は地元に収蔵されました。最終的に、彼の仕事は資金不足の後、1962年に停止しました。

 その後も散発的に、別荘や墓地遺跡が数多く発見されました。カルミアーノ邸が1963年に発掘され、その後埋め戻されたのもその一つです。1967年に「セカンド・コンプレックス」の一部とパストーレ邸が再び注目されましたが、1970年に再び埋め戻されました。1974年、現在のサンタントーニオ・アバーテ市(Sant'AntonioAbate)で発掘調査が完了していない、農村地帯に属する別荘が発見されました。

 さらに、他の別荘、特に郊外の農村部の別荘について、特にサンタ・マリア・ラ・カリタ(Santa Maria ぁCarita)とグラニャーノ(Gragnano)の間の農場地帯全体での発掘が行われましたが、すべてが埋め戻されました。

 1980年、イルピニア(Irpinia)の激しい地震により、別荘は甚大な被害を受け、サン・マルコ邸の上部回廊(ペリスタイル)の列柱の一部が破壊されました。それによって、一般の人々による発掘作業は中止となってしまいました。しかし、そうしたなかでも、1981年にアリアナ邸の中庭の一部が発見され、その中には2台の農業用ワゴン(荷車)があり、そのうちの1台は修復され、一般に公開されました。

 80年代と90年代の残りの期間は、1994年にアリアナ邸において下部構造が発見されたことと、1997年に運動場(体育館)が発見されるなどのいくつかの重要な発見を除いて、遺跡の維持管理と修復作業のみが実行されました。遺跡は1995年に一般公開されています。

 注)ペリスタイル Wikipediaより
  ギリシア建築やローマ建築における、柱のあるポーチ、または中庭を
  取り囲むコロネードで中央に庭園などがあるものを指す。"tetrastoon"
  (希:Τετραστωον、4つのアーケード)とも呼ぶ。列柱郭とも。
  ローマ建築を受け継いだキリスト教の教会建築では、ローマの旧サン・
  ピエトロ大聖堂などのバシリカが、ペリスタイルで囲まれた前庭の背後
  にあって、表通りから隔てられていた。その後、ペリスタイルから回廊へ
  と発展していった。


 2004年には、カンパニア州のポンペイ考古学監督官とメリーランド大学がイタリア系アメリカ人と協力して、考古学公園の修復と建設を目的とした非営利の「古代スタビアエ復興財団:Restoring Ancient Stabiae Foundation(RAS)」を設立しました。

 2006年は波乱に富んだものでした。ヴァラノ(Varano)の丘での撤去作業の後、1749年にブルボン家によってすでに発見されて、埋め戻されてしまった別荘、アンテロース邸とヘラクレス邸に付随する部屋が発見されました。7月、RAS財団はサン・マルコ邸の上部回廊の存在を明らかにし、その南東の隅でスタビアエの最初の人間の骨格も発見されました。おそらく、落下した建物の破片で犠牲になった避難者のものと思われます。


Victim of eruption found in 2006 in Villa San Marco
  サン・マルコ邸で2006年に発見された噴火の犠牲者
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 3.0, Link

 2008年にサン・マルコ邸とアリアナ邸についての再調査が行われ、前者では列柱の回廊(ペリスタイル)の後ろに3つの個室(Cubiculum)が発見され、2つのトイレと庭園が明らかになりました。後者には海を見下ろす大きな列柱のある回廊(ペリスタイル)が発見されました。

 注)Cubiculum Wikipedia(en)
  キュービクルは、高貴な家族が住む古代ローマの家、ドムスの個室でした。
  通常はアトリウムから直接つながっていますが、後期にはペリスタイルに隣
  接することもありました。モダンなベッドルームの機能、睡眠とセックス、ビ
  ジネス会議、重要なゲストの接待、家の中で最も貴重な芸術作品の展示に
  使用されました。


 2009年、新しい発掘調査により、サン・マルコ邸の北の境界線に沿ってローマ時代の街道(Roman Road)が走っていることが明らかになりました。これは、スタビアエの町とその下の海岸を結ぶ舗装道路です。この動脈の向こうには街への門があり、壁には無数の落書きや木炭で描かれた小さな絵があります。

 道路の反対側で、ブルボン王朝時代に部分的に探索されていた新しい別荘の浴場が発見されました。ローマ街道はまた、「農場地帯(Agerstabianus)」に属する住宅の入り口に通じていました。

 2010年5月、チルクムヴェスヴィアーナ鉄道(Circumvesuviana)のトーレ・アヌンツィアータ-ソレント線(Torre Annunziata-Sorrento)の線路をポンテペルシカ駅( Ponte Persica)とピオッパイノ駅( Pioppaino)の間で複線にする工事中に、1世紀に建てられた別荘が発見されました。

 注)チルクムヴェスヴィアーナ鉄道 Wikipediaより
  チルクムヴェスヴィアーナ鉄道 は、1890年から存在するイタリアの交通
  会社である。現在、ナポリ県とアヴェッリーノ県の一部、サレルノ県のス
  カファーティとサン・ヴァレンティーノ・トーリオ、サルノで営業している。日
  本語ガイドブックなどでは、「ベスビオ周遊鉄道」等とも記述されている。


 2011年から14年にかけて、コロンビア大学とH2CU(国際研修のための大学間センター:Centro Interuniversitario per la Formazione Internazionale)は、ローマの選び抜かれた建造物であり、79年以前の遺跡であるサ・マルコ邸の発掘調査を行いました。

 2019年、イタリア統一広場での発掘調査により、オーガスタン時代(Augustan)またはユリウス・クラウディウス朝(Julio-Claudian)の建物と4世紀の建物が発掘されました。

 注)イタリア統一広場 (Piazza Unità d'Italia) Wikipedia(en)
  ウニタディタリア広場は、イタリア北東部の港湾都市トリエ
  ステのメイン広場です。サンジュスト城のある丘のふもとに
  ある広場で、アドリア海に面しています。多くの場合、海に
  隣接するヨーロッパ最大の広場と言われています。
 
 ⇒この注は再度調べる必要があります。具体的な場所ではなく、イタリアの
  観光名所をリストアップしている組織のような意味合いですので。


 注)オーガスタン時代(Augustan) Wikipediaより
  オーガスタン時代は、王政復古期 から初期ハノーヴァー朝
  にいたるイギリス文学史上の隆盛期であり、転じてイギリス
  が文化的独立を果たしたとする時期である。部分的にジョー
  ジアン時代と一致する。ニュートンを始めとして科学において
  はめざましい発展を遂げた時代であったが、客観的に見て文
  化的にはいまだフランスの後塵を拝していた。

 注)ユリウス・クラウディウス朝 Wikipediaより
  ユリウス・クラウディウス朝は、古代ローマ帝国の王朝で、初代
  皇帝アウグストゥスに始まる5人の皇帝の治世を指す。 紀元前
  27年から紀元68年まで約100年間続いた。



スタビアエ遺跡4につづく