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昇仙峡、自然と文化・歴史短訪

昇仙峡1
Shosenkyo Gorge, Yamanashi pref.

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年12月21日
 

昇仙峡の奇岩(覚円峰)を背景にした池田こみち 
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-12-21


全体メニュー
大山祇神社 金櫻神社 夫婦木神社 羅漢寺 昇仙峡北部の滝
昇仙峡1 昇仙峡2 昇仙峡3  昇仙峡4 
昇仙峡5
 昇仙峡6 昇仙峡7 昇仙峡8



 
私たちは、2022年12月21日、富士五湖調査の一環として、山梨県甲府市にある昇仙峡の現地調査を行った。

 本稿はその一部である。

 荒川ダムの湖畔沿いにあり、四季を感じる癒しの空間でお食事を楽しめる。人気のお餅はつきたてで絶品。1度訪れるとまた足を運びたくなる雰囲気で、リピーターも多数。 出典:PORTA


民芸茶屋大黒屋 荒川ダム店
出展:グールルストリートビュー

 人の手の加わっていない自然の豊かさを感じてみてはいかが。昇仙峡では、到着後、昇仙峡一番北にあるるおいしい保党が食べられる店で昼食をとった。

 お店は民芸茶屋大黒屋 荒川ダム店で、下のメニューにある「ほうとう鍋」を頂いた。大変は美味だった。また店主の奥様がいろいろな突き合わせを持ってきてくれ、これもおいしかった。




出典:YIさん、グーグルストリートビュー


昇仙峡(しょうせんきょう)とは

 昇仙峡(しょうせんきょう)は、山梨県甲府市、甲府盆地北側、荒川[1]上流に位置する渓谷である。特別名勝に指定されており、国内有数の景勝地である。「日本五大名峡」の一つに数えられる[2]。


昇仙峡の全体  出典:facebook

昇仙峡の概要

 1923年(大正12年)に国の名勝に指定され、1953年(昭和28年)には特別名勝に指定されている。特別名勝としての指定名称は御嶽昇仙峡(みたけしょうせんきょう)であるが、一般には御岳昇仙峡と常用漢字体で書かれることが多い。秩父多摩甲斐国立公園に属し、同公園を代表する景勝地として知られる。

 長潭橋(ながとろばし)から仙娥滝までの全長約5キロメートルに亘る渓谷は、川が花崗岩を深く侵食したことにより形成された。渓谷内には、柱状節理の花崗岩および輝石安山岩の奇岩が至る所に見られる。日本二十五勝、平成の名水百選等に選定されている。

 渓谷は天神森地区の長潭橋から始まるが、途中の能泉地区までの渓谷沿いは車道が狭く、シーズン中の土日祝日は車両通行規制が行われ歩行者専用になる(平日は上り方向の一方通行)。その先の能泉地区から仙娥滝の間が渓谷のハイライトで、観光客の多くは駐車場が整備されている仙娥滝付近を中心に訪れる。

 年間を通して多くの観光客で賑わうが、自家用車で観光に訪れる者も多く、紅葉が見られる観光シーズンの11月の土日は、周辺の道路が渋滞するほど賑わう。そのため、公共(県営)駐車場もあり、観光施設や土産物店にも駐車場が併設されている。施設店舗を利用すれば無料のところがほとんど。

昇仙峡の景勝地

神社
 金櫻神社、夫婦木神社、夫婦木神社姫の宮

寺院
 羅漢寺

湖水
 能泉湖

ダム
 荒川ダム


 仙娥滝(日本の滝百選)、大滝

ロープウェイ
 昇仙峡ロープウェイ

橋梁
 長潭橋は「県内に現存する戦前完成の3つのコンクリートアーチ道路橋のうち最古であり、景勝地昇仙峡観光の歴史を語る上で重要な土木遺産」として平成24年度の選奨土木遺産に選ばれた[3]、新静観橋、静観橋、昇仙橋、羅漢寺橋、有明橋、愛のかけ橋、千田橋

岩石
 覚円峰(昇仙峡のシンボル、水面からほぼ垂直に屹立する高さ約180mの巨岩)、石門(花崗岩の巨石で出来た天然アーチ)、天狗岩、めまい岩、よろい岩、かぶと岩、筆立岩、えぼし岩、登竜岩、寒山拾得岩、五月雨岩、ふぐ石、はまぐり石、松茸石、ねこ石、富士石、ラクダ石、猿石、トーフ岩、オットセイ岩、大砲岩、亀石


昇仙峡の奇岩(覚円峰)を背景にした池田こみち 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-12-21


昇仙峡の奇岩を背景にした池田こみち 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-12-21

御岳新道の開削と観光開発

 江戸時代に荒川上流の猪狩村(甲府市猪狩町)と周辺諸村は製炭が盛んで、甲府城下へ薪炭を販売するために御岳道(外道)を通過していた[7]。御岳道は荒川西岸の難路であったため、荒川沿いの新道の開発が望まれていた[7]。

 江戸後期には天明2年(1782年)に猪狩村名主・長田森右衛門が下帯那村へ通じる新道の開発を立案したが、これは実現しないまま終わった[7]。天保4年(1833年)には同じ猪狩村の百姓代である長田円右衛門とその甥・勇右衛門が再び御岳新道の開発を計画し、甲府勤番士や甲府城下の商人から寄付金を募り、工費は円右衛門が建て替え、無尽で賄われた[8]。また、新道の開発が参詣路としても活用できるため、金櫻神社の神職らを世話人とした[8]。工事は翌天保5年12月22日に開始され、高成村・竹日向村・川窪村・千田村らの諸村が協力し、周辺から石工や杣(そま)、人足が賄われた[7]。天保7年には水害により新道の一部が流出し、天保の飢饉による農村の疲弊による影響で一時中断された[7]。

 御岳新道は天保14年(1843年)には完成しており、巨摩郡上小倉村(北杜市須玉町小倉)出身で茅ヶ岳南麓に浅尾堰・穂坂堰を開削した窪田幸左衛門が設計・測量を行っている[9]。御岳新道は後に渓谷沿いの観光ルートとしても利用される。

 昇仙峡を旅した絵画資料として『甲州道中図屏風』がある。『甲州道中図屏風』は幕末期の嘉永4年(1851年)から慶応3年(1867年)にかけて作成され、本来は巻子状であったものが近代に順不同で屏風絵に仕立て直されたと考えられている。作者は不明であるが武士であり、高尾山・身延山久遠寺の参詣、武田氏に関する史跡来訪を目的とした旅で、時期は8月下旬であると推定されている。

 『甲州道中図屏風』の左隻中央の上段には昇仙峡から甲府市街や富士川・荒川・大泉寺(不箋では「大善寺」)を望む図が描かれ、背景には富士山が描かれている。また、この図の右には湯村を描いた図が連続している。『甲州道中図屏風』の旅程は江戸から甲州街道を進み、甲府から身延山参詣を経て、東海道経由で江戸へ帰還したと考えられており、高尾山参詣を終えて甲州街道を進み、甲府へ到着した後に湯村・昇仙峡をめぐり、再び甲府を経て身延山参詣に向かった行路が想定されている。

近現代の昇仙峡

 1887年(明治20年)には「御嶽昇仙峡」が命名され、大正時代には甲府市内から昇仙峡までの道路が次々と整備されて定期バスが乗り入れるなど観光地として一新され[10]た。

 1902年(明治35年)には、正岡子規の門人で山梨県を拠点に活動を行った新免一五坊や「白雛会」を主催した堀内柳南、神奈桃村ら山梨県の俳人が甲府市で「山梨文学大会」が開催される。同年8月25日には昇仙峡の御嶽新道へ赴いており、翌26日には甲府太田町望仙閣で批評会を行った。

 1923年(大正12年)には、断崖絶壁・滝・奇岩・侵食・紅葉・アカマツ・岩山・荒々しい川の流れと植物が一体となった景観が評価され、史蹟名勝天然紀念物保存法により名勝指定を受けた[11]。

 1937年(昭和12年)10月21日、東京府女子師範学校の生徒が修学旅行で昇仙峡を訪問。羅漢寺橋(吊橋)で記念撮影をすべく50人が橋に乗ったところ、重さに耐えられずに橋が落下。死者は出なかったものの重軽傷者30余人[12]。

 第二次世界大戦後には、1950年(昭和25年)に渓谷百選の一位に選ばれ、1953年(昭和28年)には文化財保護法により特別名勝となる[11]。

 近代には山梨県の主要産業として観光業が振興される。1972年(昭和47年)には御岳昇仙峡有料道路(現在無料)が開通し、甲府市や山梨県の主要な観光地として整備された。1977年(昭和52年)にバス転落事故が発生し、死者11名負傷者34名が被害に遭った[13][14]。

 2009年には読売新聞社主催の読者が選ぶ「平成百景」において、富士山に次ぐ第2位に選ばれた[15]。

昇仙峡を描いた絵画
江戸時代の甲斐国は甲州街道をはじめとする諸街道が整備され、伴い多くの文人画家が来訪し作品を残している。御嶽昇仙峡は甲府城下から近在であり、天保5年(1834年)に御岳新道が開発された後は来訪が容易となり、多くの画家が訪れた。天保13年(1842年)には甲府城下に居住したの南画家の竹邨三陽(たけむら さんよう)が『仙嶽闢路図』を描き、覚円峰などの景勝地を紹介し、出版された。これが契機となり昇仙峡は景勝地として知られるようになった。


昇仙峡2