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昇仙峡、自然と文化・歴史短訪

昇仙峡3
Yamanashi pref.

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年12月21日
 

昇仙峡の奇岩を背景にした池田こみち 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-12-21

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歴史  出典:昇仙峡 Wikipedia日本

金峰山信仰と昇仙峡


渓谷入口の天神森にある長潭橋 (2013年10月28日撮影)
出典:CC 表示-継承 3.0, リンクによる


1927年(昭和2年)日本二十五勝に選定されたことにより、昇仙峡を主題にした新民謡作成のため訪れた野口雨情(中央の丸椅子に座る白い服の人物)。仙娥滝上の仙峡亭に

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 1927年(昭和2年)日本二十五勝に選定されたことにより、昇仙峡を主題にした新民謡作成のため訪れた野口雨情(中央の丸椅子に座る白い服の人物)。仙娥滝上の仙峡亭にて。
昇仙峡を含む奥秩父山塊には甲信国境に金峰山があり、古来から山岳信仰が広まり、甲府方面から昇仙峡を通過し金峰山頂に至る吉沢口など修験道の道として御嶽道が存在していた。

 金峰山信仰は近世にも展開され、御嶽道は甲府方面の南口のみならず東口・西口方面からも山口九所と呼ばれる登拝口が整備され、南口の吉沢・亀沢・塚原の三ルートはいずれも昇仙峡を通過する街道として整備された。また、近世初頭には甲州街道が整備され甲斐には江戸から多くの文人が往来し、昇仙峡は地誌類を通じて山岳信仰のみならず甲斐の名所として広まった。

中世の御岳

 戦国時代の享禄4年(1531年)正月21日には、甲斐守護・武田氏と扇谷上杉氏との婚姻に反発した栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌ら甲斐国人が甲府を退去し、御岳において信虎と抵抗した[4]。さらに反信虎の国人衆には西郡の大井氏、信濃国諏訪郡の諏訪頼満(碧雲斎)らが加わり甲斐へ侵攻した。同年3月3日には韮崎市で行われた河原部合戦において信虎は国人衆を撃破し、反乱は平定された[5]。

 武田氏滅亡後の天正10年(1582年)6月、本能寺の変により発生した天正壬午の乱において三河国の徳川家康・相模国の北条氏直が甲斐へ侵攻し、八ヶ岳南麓・七里岩地域において対峙した。徳川家康は韮崎市中田町中條の新府城に本拠を置くと、北杜市須玉町若神子の若神子城に本陣を置いた後北条勢に対して七里岩台上の城砦に軍勢を配置し、御岳においても甲府市御岳町の御岳城、甲斐市下芦沢の御岳芦沢小屋(平見城の烽火台)に御岳衆らの兵が配置された[6]。

御岳新道の開削と観光開発

 江戸時代に荒川上流の猪狩村(甲府市猪狩町)と周辺諸村は製炭が盛んで、甲府城下へ薪炭を販売するために御岳道(外道)を通過していた[7]。御岳道は荒川西岸の難路であったため、荒川沿いの新道の開発が望まれていた[7]。

 江戸後期には天明2年(1782年)に猪狩村名主・長田森右衛門が下帯那村へ通じる新道の開発を立案したが、これは実現しないまま終わった[7]。天保4年(1833年)には同じ猪狩村の百姓代である長田円右衛門とその甥・勇右衛門が再び御岳新道の開発を計画し、甲府勤番士や甲府城下の商人から寄付金を募り、工費は円右衛門が建て替え、無尽で賄われた[8]。また、新道の開発が参詣路としても活用できるため、金櫻神社の神職らを世話人とした[8]。工事は翌天保5年12月22日に開始され、高成村・竹日向村・川窪村・千田村らの諸村が協力し、周辺から石工や杣(そま)、人足が賄われた[7]。天保7年には水害により新道の一部が流出し、天保の飢饉による農村の疲弊による影響で一時中断された[7]。

 御岳新道は天保14年(1843年)には完成しており、巨摩郡上小倉村(北杜市須玉町小倉)出身で茅ヶ岳南麓に浅尾堰・穂坂堰を開削した窪田幸左衛門が設計・測量を行っている[9]。御岳新道は後に渓谷沿いの観光ルートとしても利用される。

 昇仙峡を旅した絵画資料として『甲州道中図屏風』がある。『甲州道中図屏風』は幕末期の嘉永4年(1851年)から慶応3年(1867年)にかけて作成され、本来は巻子状であったものが近代に順不同で屏風絵に仕立て直されたと考えられている。作者は不明であるが武士であり、高尾山・身延山久遠寺の参詣、武田氏に関する史跡来訪を目的とした旅で、時期は8月下旬であると推定されている。

 『甲州道中図屏風』の左隻中央の上段には昇仙峡から甲府市街や富士川・荒川・大泉寺(不箋では「大善寺」)を望む図が描かれ、背景には富士山が描かれている。また、この図の右には湯村を描いた図が連続している。『甲州道中図屏風』の旅程は江戸から甲州街道を進み、甲府から身延山参詣を経て、東海道経由で江戸へ帰還したと考えられており、高尾山参詣を終えて甲州街道を進み、甲府へ到着した後に湯村・昇仙峡をめぐり、再び甲府を経て身延山参詣に向かった行路が想定されている。


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