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目眩く歴史の要所で「茶の湯」など稀有な文化が偲ばれる


龍寶山 大徳寺 (京都市北区)
歴史

池田こみち(宗蹊) Komichi Ikeda監修  青山貞一 Teiichi Aoyama編集
立系メディア
E-wave Tokyo 2023年9月1日公開
 

大徳寺本坊     出典:Wikimedia Commons

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はじめに 歴史 境内・伽藍1 境内・伽藍2 文化財1 文化財2 全塔頭 龍源院 瑞峯院 大仙院 高桐院  聚光院  龍光院  三玄院 黄梅院 玉林院  興臨院  孤篷庵 真珠庵 龍翔寺 芳春院 大光院  総見院  大慈院  その他 江岑宗左三百五十年忌記念大徳寺茶会  本文脚注・参考文献

大徳寺本文     主な出典Wikipedia


仏殿(本堂   出典:Wikimedia Commons

大徳寺
・所在地   京都府京都市北区紫野大徳寺町53
・宗派     臨済宗大徳寺派
・寺格    大本山  京都五山 → 林下
・本尊    釈迦如来
・創建年   正和4年(1315年)もしくは元応元年(1319年)
・開山    宗峰妙超
・正式名   龍寶山大德禪寺
・文化財   方丈、唐門、絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図ほか(国宝)
       勅使門、山門、仏殿、法堂、木造大燈国師坐像ほか(重要文化財)
       方丈庭園(国史跡・特別名勝)

 大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。

 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。


大徳寺本坊     出典:Wikimedia Commons

歴史

 大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。

 11歳の時、地元の大寺院である圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚め、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。


大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超  出典:Wikimedia Commons

 その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。これが大徳寺の起源という。花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。

 後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。


文観開眼『絹本著色後醍醐天皇御像』(清浄光寺蔵、重要文化財)
  出典:Wikimedia Commons

 しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。

 その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。


村田珠光    出典:Wikimedia Commons

 享徳2年(1453年)の火災、そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興。また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。

 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。

 これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、天正17年(1589年)には千利休によって山門・金毛閣が完成している。利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。


千利休像 (長谷川等伯画、春屋宗園賛) 出典:Wikimedia Commons

 江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。


高僧・沢庵宗彭   出典:Wikimedia Commons

 この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。


歴史終わり

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